【少年少女の反抗期1】
それは、とある聖休日の記憶だった。イリスと一緒に寝転がり、術式の練習をしていた時のこと。
黄色い花びらが風に乗って、空へと舞い上がっていく。湖面はきらきらと光っていて、水鳥たちが鳴いていた。
綺麗だ、と紫苑は思った。けれど集中を欠くわけにはいかない。星沁の制御を手伝ってくれている、イリスの期待に応えようと詠唱を続けて──
『あふっ⁈ 』
──なんと失敗した。
何がいけなかったのだろう。星沁の維持は、隣の友人がしてくれていたはず。そう思い横を見た時、紫苑は瞠目した。
舞い上がる花びらを仰ぎながら、イリスは涙を流していた。しっかり手に持っていたはずの星夜術刀は、彼女の手を離れて沈黙。紫苑のものではない、湖からの風が少女の涙を落とすまで、彼女は沈黙したままだった。
「……あんたを助けたのはね、ただの気まぐれだった」
ふいに落ちた言葉に、紫苑はほんの少しの違和感を覚えた。イリスの言葉が意味するのが、いじめられていた自分を助けてくれた時の事くらいは理解していた。
でも、それがイリス自身の言葉じゃなくて……台本を読む演者の台詞を聞いているような、不自然な言葉の硬さを感じたのだ。
「でもね紫苑。私、あの時の気まぐれが本当に『気まぐれ』だったのか、今はちょっと分からないでいる。私が意識してなかっただけで、同じ道を辿る為の『必然』だったんじゃないかって……」
実際紫苑は、彼女の言いたい事を理解できなかった。気まぐれじゃなかったとしたら何なのだろう。あの景色に、あの状況に、彼女は何を見ていたのだろう?
困惑する紫苑に、起き上がったあの子は問うた。
「ねぇ、紫苑。あんたは──」
♢♢♢
頬をさすった夜風に、紫苑は顔を上げた。
(イリスちゃん……今日も、帰ってこなかった)
ひざを抱えてうずくまる。イリスがいなくなってから、もう数日が経過している。あの子の机の上には、いじりかけで放置された術式媒介と工具が散らばったまま。
手慣れた様子で機械をいじるイリスの背中を幻視して、紫苑の視界はじわりとぼやけた。
(分かってた。こんな予感も、どこかでしてたんだ)
なぜ彼女は審問官に襲われたのか。なぜ先生たちは、教会だけでなくイリス相手に警戒しているのか。
知りたかった。本当は、ずっと疑問に思っていた。
(私、イリスちゃんに直接聞くべきだったんだ)
悟った所でもう遅い。何か起きたのは確かなのに、本人に会うこともできず。
何が起きたのかも、イリスの過去についても、知らされない。
「……っ!」
胸いっぱいに息を吸い込んで、紫苑は嗚咽を押し殺した。
閉ざされた扉は開くことがなく、紫苑は無情に過ぎていく時間をただただ享受する──
そのはず、だった。
『……おい。おい、紫苑・アスタリス』
コンコンコン、と窓を控えめに叩く音。
ぎょっとして窓の方を見ると、カーテンごしに人影が映って見えた。
(──うそ。ここ、三階なのに)
驚愕を覚えながら、おそるおそる窓を開ける。
そこにいたのは、オレンジ色の髪をした少年だった。よく、ヴァレンシア商会の店番をしている見習いの少年。確か名前は……
「えと、ルーク……くん?」
「おう。悪いんだけど、中に入れてくれねーか」
唐突な来訪者に、紫苑はうろたえた。
こういうシチュエーションについては、ジェシカが持っている魔導書で見たことがある。
「えーと、ごめん。私ね、いろいろあって落ち込んでるから、夜這いを受け入れる気分じゃないんだけど」
「夜這いじゃねーよ! あと鈍器に手を伸ばすのやめてくれ、こっから落ちたらさすがに死ぬ!」
その言葉にため息をついて、イリスの工具を手繰り寄せていた手を止める。
「ちょ、ぶら下がるのきついんだって。変な事ぁしねーからマジで入れて……ッ!」
「分かったよ、もう」
術式があるからいざとなれば拾えるものの、わざわざ危ない目に遭わせる必要もないだろう。
紫苑はルークの手首をつかんで、部屋に入るのを手伝った。
「ルークくん、どうしてここに? しかもこんな夜遅くに」
「女の子の部屋を訪ねるのは、周囲が寝静まった夜と相場が決まってんだろ」
「そっかぁー……落としていい?」
「スパナ持ち上げながら言うなや目が笑ってねぇぞ」
額の汗をぬぐって、ルークは部屋を見回した。
「イリスの奴は、やっぱいないんだな」
「……うん」
それ以上の言葉を繋げる事ができず、紫苑はうなだれた。蒼月に照らされたカーテンが、頼りなさげに光を揺らす。
「イリスちゃんは、もう、ここには帰ってこないと思う……クリーム先生に、そう言われたの」
「どういう事だ? んな話は聞いてねぇ、説明しろよ」
「で、でも」
紫苑は躊躇した。ルークの事はイリスから聞いていたという程度だし、明らかに学院の内情に関わっている話を、部外者にする事にはさすがに抵抗があったのだ。
「……あいつは、ヴァレンシア商会に雇われてる」
ルークは、無言の紫苑に向かって静かに言った。
「で、商会ではオレの後輩に当たる立ち位置なわけよ……後輩が突然何も言わずに仕事サボったら、普通は探しに行こうとするだろ」
「う、うん」
「でもな、昨日の昼くらいにイリスを探しに来たら、門前払いくらっちまったんだよ。おかしいなって思って、親方に聞いてみたら『来れなくなったらしい』のひとこと。これっておかしいだろ?」
「……」
紫苑を見つめてくるルークの目は、まっすぐだった。
唇を噛みながら頷く紫苑に、ルークは続ける。
「だから直接来たんだよ。その様子なら、お前は何か知ってんだろ。どうしてイリスがいなくなったのか、教えてくれよ」
「……らない」
「へ?」
「知らない。イリスちゃんがどうしていなくなったのか、どこにいるのかは……誰も教えてくれないんだもん」
唸るように言いながら、スカートの裾をぎゅっと掴む。ルークに苛立ちをぶつけるのが八つ当たりだと分かっていても、感情を抑えきれなかった。
「分かってるのは、イリスちゃんがここに戻ってこれないこと。ジェシカさんが何か知ってるけど、教えてくれないってこと。それから……」
「……それから?」
紫苑は息を吸い込んだ。これから吐き出す言葉を、自分の口から言うのが、限りなく嫌だった。
「『イリス・デューラー』って名前の女の子は、六年前に死んでるってこと」
静まり返った空間に、紫苑の言葉がむなしく落ちた。
「本物のイリス・デューラーは、六年前のアナストリア焼き討ちで亡くなった。あの子は、イリスちゃんは、その子の名前を騙った別人。私たちはあの子に、初めから嘘を吐かれ続けていたんだって……」
純白のカーテンが、悲しげに揺れた。
まるで、生にすがりつく哀れな亡霊を映したかのように。
「誰に聞いたんだ」
「……クリームヒルト先生だよ」
部屋に閉じ込められても騒ぎ続けた紫苑に、無情なクリームが放った言葉。
その無慈悲さをなぞる様に、紫苑は、うつむいた。
「あの子は亡霊で、初めから存在しなかった。私は悪い夢を見たの。だから忘れろって……そう言われた」
「……」
紫苑の言葉を聞いた少年はやや沈黙し、そして、おどけるように言った。
「亡霊……ねぇ。じゃあお前はさ、幻覚見て錯乱した結果、イウロ術式が使えるようになったってわけか」
「え? なんで」
私がイウロ術式が苦手って事をなぜ知ってるの、と訊ねるより先にルークは言った。
「違うだろ? イリスが言ってたぞ。紫苑は自分より才能があるから、もっともっと思い切った術が使えるようになるんだ。自分に自信が持てるようになれば、あの子は前を向けるって」
「え?」
想定外の言葉に、紫苑は目を瞬かせた。
ルークは机に散らばったままの工具、いじりかけの機巧を見て、やんちゃな妹を思い出すように目を細める。
「イリスの奴、すげー張り切ってたんだぜ。紫苑にはもっと自信を持ってもらいたい。あの子は、努力の仕方が分からなかった頃の私に良く似ているってさ。
入学試験の勉強しながらさ、朔弥術式についても調べてたんだよ。お前に合ったやり方があるはずだって……その様子だと、聞いてなかったんだな」
「……うん。聞いてないよ、そんなこと」
紫苑の知っているイリスは、いつも飄々としていて、気まぐれのように術式の使い方を教えてくれた。
イリスは自分より頭が良くて、ずっと自分の先を行く人なんだと、紫苑は勝手に思っていた。
「でも、私、イリスちゃんより才能があるだなんて事、ないと思うんだけど」
「オレには分かんねーよ。オレらはまず、お前ら術師と同じ土俵にすら上がれねぇんだから」
頭を苛立たし気にかきながら、ルークは鼻を鳴らした。
「でも、確かにあいつはそう言ってたんだ。なんだっけ、生来の干渉力がどうとか……」
「あ……」
術式の組み方を見てもらった時に、指摘されたことだ。思い出して目を見開く紫苑に、ルークは告げた。
「それで、お前のことを羨んでたりもしたよ」
胸を手のひらで押されたような気がして、紫苑は瞳を震わせた。
(イリスちゃんは、私よりもずっとすごいのに……)
そんなあの子が、私を羨んでいた?
鈍臭くて、頭も悪くて、ちっともあの子に追いつけない私に、そんな価値なんて──
「あっれれぇー?一つ屋根の下で暮らしてるのに、オレより親交浅かったのかねぇ? 」
唐突に、ルークは紫苑の顔を覗き込んできた。
美形と言っていい顔に浮かぶのは……反射的に殴り倒したくなるような『嘲笑』の表情、だった。
「オレは知ってるぞ~。イリスは実は髪型が雑なのを気にして、伸ばそうとしているだとか。肉はレアが好きで、乗り物酔いに実は弱いとか……それ以外にもイリスの事、隅々までイロイロな~?」
──なんか言い方がいかがわしい。
にやにやと笑いながら腕組みする少年に、紫苑はむっと頬を膨らませた。
「そ、それを言うなら!イリスちゃんの一番の好物はアプリコンナのタルトで、紅茶は基本的にラフェンタ産のレモナ紅茶しか飲まない。
他にも自分のほっぺたをぐむぐむする癖があったり、怒られたり、緊張すると襟をつかむ癖があったり。
スカートの時に通風感があるのが嫌って理由で、パンツは一律で黒のスパッツ型タイプだとか……」
「やっぱり黒か!ぶれねぇな!」
「黒だよ!無地の機能性素材!商会で買うのはさすがに恥ずかしいからって、私と買い物に行ってたから知ってるんだもん!」
この場に本人がいたら赤面爆発を起こしそうな話題を、ろくに話したこともなかった少年と繰り広げる。
その状況に奇妙な感覚と楽しさを覚える紫苑に……ルークは、ふと真面目な表情に戻り言った。
「そうだよ。オレもお前も、確かにあいつと一緒にいた……亡霊なんかじゃ、ないだろ?」
「っ!」
胸を突かれた気がして、息を飲む。カーテンの隙間から差し込んだ月光が、部屋の中を明るく照らし出した。
「このまま終わったら、寂しいよな」
問いかけが、静寂に吸い込まれる。紫苑は、手のひらに爪を立てた。
「寂しい、よ」
ルークが見つめてくる中、紫苑は叫んだ。
「寂しいよ……!」
──紫苑は、貴族学徒たちにいじめられている事を、教授たちには隠していた。
迷惑をかけたくない。心配をかけたくなかったから。
痛くて、つらくて泣いたら顔を洗ってごまかして。
蹴られた泥は『転んだ』事にして。全員に偽り続けた。仕方ない事なんだと諦めて、感情を麻痺させて、自分自身にも、嘘をつき続けた。
「忘れるなんてむりだよ。このまま終わりになんてしたくない」
寂しい嘘を、あきらめの感情を蹴飛ばして、手を差し出してくれた子が一人だけいた。
陰湿な嘲笑を吹き飛ばして、敢然と立ち向かってくれた人がいた。それが、イリスだったのだ。
「どんな方法だっていい、私はもう一度、イリスちゃんに会いたい。会いたいの……っ!」
両親がいなくなって。孤児院とは名ばかりの、独房のような部屋に入れられて。助けてくれる人が誰もいない。そんな『独りぼっち』に戻る恐怖には、絶対に耐えられない。
「私はもう、独りぼっちになりたくない……!」
それが『依存』という感情であることは分かっていた。自分勝手なわがままであることも承知していた。
でも、止められない。自分に嘘をつく事には、もう疲れてしまった。
「お……お、う」
紫苑の感情の吐露を聞いたルークは、絶句して立ち尽くしていた。
イリスから聞いていた話では、紫苑がもっと大人しくて、気弱な印象を受けていたからだ。
(まぁ、あいつと仲良くできる時点で……芯は強いっつーか、意外と図太い子なんかね?)
人は見かけによらない、と、ルークが感心しかけた時だった。
木製の床をふみ鳴らす、革靴の音に気付き硬直する。
「いけない。きっとジェシカさんだ……!」
男子禁制の女子寮に男子の、しかも学外の所属者が二人も侵入しているのがバレたとなれば、さすがに体裁が悪い。紫苑は慌てて振り向こうとして……
「──あぁ。でも、ちょうどいいや」
自嘲を含んでいるであろう、昏い笑みを浮かべた。
「お、おい紫苑。なんだその不穏な笑い方……」
「ルークくんは隠れてて!」
「あべッ⁈」
少女の変貌ぶりに怯えるルークをベットの下に押し込み、紫苑は立ち上がった。
まっすぐ部屋を突っ切り、開けられる前に扉を開ける。
「──こんばんは、ジェシカさん」
「……し、紫苑ちゃん?」
唖然とするジェシカの手には、食事の乗った盆がある。紫苑の為に運んできたのだろう。
いつも穏やかな笑みを浮かべていたジェシカの目には、痛々しいほどのクマができていた。
「あのねジェシカさん。私いま、すごく混乱してるんです」
しかし紫苑は、ジェシカの様子には目もくれない。紫苑の瞳には、今までの穏やかさとは違う、吹っ切れた表情が浮かんでいた。
「でも、確かめなきゃいけないと思うから。自分で動かなきゃって思うから……今から少し、悪い子になりますね」
紫苑はジェシカに歩み寄った。ジェシカの前に手を差し出し、宣言する。
「ジェシカさん。私これから、迷宮に行きます。学院から出るのを手伝ってください」




