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【Recollection-3】

 


「お前、どうして逃げなかった?」


 しばらく水面を眺めた後。あいつの口から飛び出した言葉に、私は肩を跳ねさせた。


「え……?」


「逃げようと思えば、逃げられただろう」


 その言葉に息を飲む。

 最初から試されていたのだ。武器も、分かりやすい隙も。全部、こいつのお膳立てだったのだ。

 それが分かっても、湧いてくる感情はただの脱力感だった。


「わざと隙を見せたの……どうして?」


「帰りたいなら、帰らせてやろうと思ったからだ」


 こっちが拍子抜けするほど簡単に、あいつは言った。


「それで服やら、ナイフやらを用意してやったのだが……お前は、逃げなかったな」


「……髪を取る前に逃げられたら、困るんじゃないの?」


 冗談交じりに訊ねると、あいつは首を振った。


「別に構わん。髪が伸びるまで育てる、というのは方便だったからな」


「え?」


「お前を助けたのは、ただの気まぐれだった」


 あいつは遠くを見ながら言った。


「お前の腕をくっつけて、餌の面倒を見るまでしたのは、わしが退屈していたからだ。お前は子供だったし、食ってしまうよりは、育ててみた方が面白いのではないかと思った」


「……」


「だが、お前の面倒を見ているうちに、昔の事を思い出してな」


 あいつは笑った。白目の見えない大きな瞳で、淡い色の空を仰ぎながら。


わしら(・・・)はな、初めからお前たちの言葉を話せたわけではない。お前たちを観察して、少しずつ覚えたのだ……この森の番人として」


「ばん、にん……?」


「あぁ。毛皮を持たぬ者たちが、この森や、この森に住まう一族に干渉しすぎた時……番人は、そやつらを罰する役割を担っている」


 その言葉は、いにしえの伝説を語る老人のように静かだった。

 普段とは違うその雰囲気に、私は目を瞬かせる。


「だが、わしらの役割はそれだけだ。わしらはお前たちの縄張りを犯そうとはしていない。お前たちが何もしない限り、危害も加える気はなかった」


 それなのに。人間は姿を見せただけで妖獣を襲うようになった。

 そのせいで、自分は今まで以上に番人の役割を果たさないといけなくなったのだ、と、あいつは続ける。


「だがな、番人の役割を果たせば果たすほど、疑問に思う様になってきた。お前たちは何を思い、何をする為に、わしらの森に現れ……自ら命を削り、苦しみながら死んでいくのか、と」


 だから知ろうと思った。あいつは湖畔を眺めながら言った。


「わしらはまず、お前たちの言葉を覚える事にした。そして、森の中ではちみつ髪の奴を見つけては話しかけようとしたが、いつもうまく行かなかった」


 接触を試みようにも、イウロ人は自分の姿を見るだけで攻撃してくる。

 しかも、最近はリセルト人と争い、森を汚し、勝手に死んで行ってしまうようになった。

 ……声をかけるどころではなかったのだと、あいつはため息交じりに私に告げた。


「……」


「わしらは半ばあきらめておったよ。お前たち『毛皮を持たぬ者』はこういう奴らなのだと。道理を外れ、その事を罪に思う事もなく森を焼く……奴らの言い分を聞く必要はない。和平の道など、探すべきではないのではないのだろう。そう思っていた」


 静かな言葉。ただ邪魔を排除しようという意思を込めた言葉に、私は肌が粟立つのを感じた。

 あいつは人間ではない。その気になれば、腕の一振りで大人をも殺せる力を持った種族だった。

 硬直する私を見下ろして、あいつは続けた。


「だが、お前を見ていたら思い出したのだ。わしらもかつては、お前たちと話をしようとしていた。

 言葉を覚え、姿を真似て……(あだ)し民ともいつか分かり合えると、希望を抱いていた時があったのだと」


 ──異なる民とも分かり合える。

 私にとっての異なる民。それは祖父母を斬り殺して、友達の首を吊るして、私の部下を殺して笑うリセルト人だ。


 彼らが『戦士』としての、誇りと信念を持っているだとか。

 最初に土地を追われたのは彼らの方で、彼らは今の私のように、故郷を取り戻す為に戦ったんだとか。


 そんな事は関係ない。あいつらは私とは違うモノで、分かり合えない思考を持つ連中だ。

 

 そうでなければ……私が戦って来た意味が、『イングリッド』として生きてきた『私』が、全て否定されてしまう。


 ──だから。


「無理よ、分かり合うだなんて」


 私は、あいつの言葉を遮った。

 立ち上がり、あいつを見下ろしながら鼻で笑う。


「私はね、リセルト人……あんたの言う、赤髪の連中を滅ぼす為に戦ってきた。もちろん命令があれば、あんた達の一族だって手にかけるわ。イウロ人はね、他の人種の存在を許せない。そういう風にできていて、そういう風に育てられるの」


「だが、お前は……」


「私はっ!」


 叫んだ。地面が揺れる、世界が揺れる。

 私の心を守っていた鎧は、生きるだけでひび割れ続けていた。

 ……逃げるという選択を放棄した時点で、その鎧は砕かれた。


「人を殺してっ! 人を殺す手段ばかり覚えて、求められてっ! 人を殺す事によってしか、認められて来なかった!」


 あいつの肩を掴みながら怒鳴り散らす私は、子供だった。癇癪を起こした、ただの子供。

 ……英雄の仮面を纏うことに疲れた、ありのままの『私』だった。


「そんな生き方しか知らない、分からないの。あんたの手を離れて、生き延びて。もとの場所に戻ったとしても……また、同じ事を繰り返すしかできないから……」


 うつむいて、膝を折った。

 湿った枯れ葉が風に舞い、傾き始めた陽に濡れる。


「……帰り、たくない」


 呟いた言葉は、決定打。

 ひとつ涙がこぼれると、感情はナイフで貫かれたように決壊する。


「もう殺したくない。殺されたくない」


 溢れ出した言葉は、ずっと抱えていた言葉。

 鎧の内側に押し隠して、自分自身にすら隠していた本当の心。



「私の帰りたい場所は、あそこじゃない……!」



 叫んだ瞬間、世界が静まり返った。木々も、けものも、水の音さえ、私に聞かれるのを拒絶した。

 ……世界にはただ、私と向き合う異形の姿だけが映っていた。


「そうか」


 その言葉と共に、頭に大きな手が置かれた。

 まだ生乾きの髪が、くしゃくしゃにかき混ぜられる。


「お前、ずっと、苦しかっただろうなぁ」


 硬いもので、胸を突かれたような気分だった。鼻の奥が熱くなり、視界がじわりと滲み出す。

 

「なぁ、はちみつ髪……いや、『イリス』」


 あいつは、泣きじゃくる私の肩に手を置いた。

 乱れた髪をかきあげ、濡れた頬の輪郭を、大きすぎる指先でなぞる。


わし(・・)は生きるためにウサギやシカを食うし、赤髪の連中が死んでいたら、それも食べる。

 ……命をつなぐという事は、他の何かの命を貰い続けるという事だよ」

 

 自らを生かす為に他の何かを殺し、取り込む。それは生き物として当たり前の事で、この世の理だ。

 静かに告げて、あいつは続けた。


「だが、お前は己を生かすのに必要な死以上の、多くの死を背負わされてしまった」


 死に近付き過ぎて、生きとし生ける者とのふれあい方を、本来あるべき生き方を見失った。

 辿るべき道を見失った迷子。それが今のお前なのだと、あいつは言った。


「わしが今までに見てきた他の『毛皮を持たぬ者たち』は、道理を外れる事に疑問を持たない。道理を外れ、生き物としての在り方を見失ったまま生き続けている。お前はそれを、良しとしなかった。だから悩んだ。悩んで、苦しんで……やけくそになった挙句、何も考えなくて済む道を、選ぼうとした」


「……」


 あいつは見抜いていた。

 部下を逃し、一人で戦いを挑んだ時点で、私が死ぬ気でいた事。

 助けられた後も、死んで終わるならそれでも良いと、穏やかな感情で過ごしていた事。



「……でも、そんな願いごとをするのは寂しいよなぁ」



 寂しかった。助け出して欲しかった。


「お前は強いよ。わしが出会ってきた、他のどんなはちみつ髪よりも。だが、強く在り続ける事に、お前は疲れてしまったんだなぁ」


 そう。私には、他の人たちから背負わされた願いが重すぎた。

 期待はもう要らない。期待される事にはもう疲れた。


 ……本当の私を分かってくれる『誰か』の隣で、ただただ休ませて欲しかった。


 うなだれる私を抱え上げ、膝に乗せ。

 あいつは言った。木漏れ日の中、花畑に囲まれた一本の大樹のように。泣きながら帰ってきた私を、優しく諭したあの祖母のように。


「帰りたくないなら、わしと暮らせば良いよ。生きてさえいれば、お前はお前のまま、『道理』に戻れる日が来るだろう。お前がお前で居られる今の時を、自分から放棄することはない。だから、さぁ……」

  


♢♢♢

 


「一緒に、帰ろう……」


 かすれた自分の泣き声で、私は目を覚ました。

 今は夜のようだ。淡い月光が外から差し込んでいて、吹き込んでくる風は、やや肌寒い。


「……」


 無言で腕を持ち上げると、ずっしりとした重みが肩にかかった。


 左腕は、完全に白銀の毛で覆われている。

 寝る前にヒトの形をとどめていたはずの右腕も、不自然な筋肉が付いて盛り上がり始めていた。


 鏡を見る。

 鏡に映った自分の髪は、半分以上が白銀に染まっていた。白銀色が、月光に濡れて輝く様子。それは、今はもういないあいつの姿に、よく似ていた。


「結局さ……あんたの言う、死ぬ以外で『道理に戻るための道』が何なのか、私には分からずじまいだったわよ」


 石壁にもたれて、格子窓を見上げる。

 月は蒼くて大きかった。でも、その美しい光は灰色の雲に遮られて、明かりのない部屋に陰を落とす。


「私は、このまま……あんたを殺した(・・・・・・・)報いに蝕まれて、飲まれる事によって、生き物としての道理に還る事になるみたい」


 あぁ、と嘆息してベッドに伏せる。

 ぼやけて見えるシーツからは、以前よりも濃厚なカビと枯れ草のにおいがした。


「あと、二日だったっけな……?」


 期限は迫っていた。ゆっくりと、着実に、自力では希望を見出せないまま。


 

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