【夢より出でて】
パキン、と。
澄んだ音と共に、紫苑が落としたインク瓶に亀裂が走った。
「あ、あわわ……!」
人ごみの中、慌てて瓶を拾い上げる。
文具店の帰り道、雑踏の中。湖面のきらめきを反射するガラスに目を細めながら、紫苑はため息をついた。
(良かったぁ。インク切らしたら、術式の練習ができなくなるとこだったよ。『これ』を買った分、お小遣いもそこまで残ってないし……)
紙袋を見下ろし、微笑む。買い物に出た紫苑が奮発して買ったのは、イリスが好きな銘柄の紅茶と、『跳ね兎』の糖蜜パイだった。焼き立ての糖蜜パイは、袋越しに温かさを伝えてくる。
(イリスちゃん、今日は早く帰って来るって言ってたし。術式媒介を貸してくれるんだから、このくらいのお礼はしないとだよね)
甘い香りに頬が緩む。紫の髪に集まる視線も、今日は気にならなかった。
雑踏を縫い、大人たちの奔流に逆らい、学院の方向に向かおうとしていた時だった。
「あっ⁈」
対面から駆けてきた誰かにぶつかり、紫苑は尻もちをついた。
「い、いたた……って、イリスちゃん? どうしたの」
見上げたそこにいたのは、髪を振り乱したイリスだった。全力で走ってきたのか、息が切れている。
「忘れ物でもしたの? 朝、けっこう慌てたもんね。ものを教えてくれたら、私が後から持っていくけど──」
「近づくなっ!」
叫びと共に、伸ばした手は振り払われた。思わず身をすくめてしまう紫苑に、イリスはハッとしたように顔を上げた。
雑踏は奇異な視線を子供たちに投げかけつつも、変わらず流れていく。そんな大人たちの反応は、紫苑達にとって幸運なものだっただろう。
「イリスちゃん、その目……」
イリスの瞳は、鮮血色に染まっていた。
いや、それだけじゃない。瞳孔が縦に裂けて、まるで獣のように……。
「……ごめんなさい、紫苑」
イリスの声が、紫苑の意識を揺らした。風がイリスの髪を持ち上げ、こめかみに刻まれた傷をむき出しにする。
「どうか、あんたに始原の風の導きがありますように」
──満面の笑顔に似合わない、泣きそうな声だった。紫苑が何かを言う前に、イリスは踵を返し駆け出していく。
「イリスちゃん⁈ 」
喫茶店、文具店、服飾店に新聞スタンド。俊足で周囲を置き去りにし、疾走しても、雑踏に消えた少女を見つける事はできなかった。
おかしい、と紫苑は思った。自分はイリスよりも足が速かった。そこだけは覆らない事実で、自分が本気で追いかけたら、ちゃんと見つけられると思ったのに。
「どこにいったの……?」
人の流れは止まらない。学徒、観光客の足取り。遠く響くのは、放浪一座の演奏の調べ。
動きを止め、世界に置き去りにされているのは紫苑ひとりだった。
◇◇◇
木の根につまずいて転んだ時、私は踏み入ったことのない場所に辿り着いた事を悟った。
湿った見通しの悪い森。苔むし転がる墓石の向こうには、朽ちて崩れた建造物が見えている。
柱の彫刻に刻まれているのは、翼の生えた女神像。女神アラディルの偶像だ。
「──ここにあるのは、旧教会跡地。暴走した学徒によって破壊された、かつての信仰の中心地です」
「っ!」
「学院都市が破壊した信仰の地に、あなた様が辿り着く……これはアラディルの思し召し」
迷わず短刀杖を抜いて、私は目を細めた。
声に応じて結界の向こう側から現れたのは、学徒の服を着た男女七人だった。
何度か見た覚えがある。本当に学徒として、学院に所属している連中なのだろう。
教会の息がかかった学徒。その存在は予想していたけれど、仕掛けて来るとは思っていなかった。
(こいつらはどこまで把握している……私が逃げたという事だけ? それとも)
こめかみをつたう冷や汗には、気付かないふりをした。
何にせよ、応戦しないとまずい。人数の差はあるが、勝てない戦いではないだろう。
「この廃墟を見れば分かるでしょう。学院都市は、思想の自由など守ってはいない。選ばれた者だけを自由にし、邪魔者は声を上げられぬよう消しているというだけの話」
支援者に応える代わりに、私は星夜術刀に星沁を通そうとして──失敗した。
「なっ……⁈ 」
星沁が流せない。いや、それどころか全く感じ取れない。
世界から不自然に切り離されたような感覚が、私の腕を這いずり回った。
この感覚には覚えがある。これは、過去の自分が、鎮圧軍が、リセルト人相手に発動しようとしていた『網』と同じものだ。
(これは──)
間違いない。かつて私が内戦収束のために構築した『網』──星沁弱体化結界の、強化版だ。
「シャアッ!」
「っ!」
硬直した私に襲いかかる学徒。私はそいつの肩を基点に飛び越え、首を背後から蹴り飛ばした。
「が……っ!」
ゴキュッ、と足の裏に伝わる粉砕の音。学徒の手から落ちた鉛筆削り用の小刀から、甘いにおいの液体が飛び散り地面を汚した──ひとり目。
「油断するな! 恩恵の使えぬ少女といえど、元聖騎士だ」
首謀者格の男の声に、他の連中が腰を落とし小刀を構える。
それに続いて、後ろのふたりが宝珠を構えた。あのふたりは術師だ。
(……嵌められた)
短刀杖に備えられた緊急の管理ボタンを押すも、刃が表示したのは『使用不可』の文字。
原因は星沁干渉域の相違。星沁密度がこの世界と異なる迷宮から帰ってきた時に、真っ先に表示される問題内容だ。無論、私の短刀杖は、この世界に星沁干渉域を調整してあるはずだった。
(ごく微弱な結界で、星沁干渉域をずらされたんだ。私が、術式構築を機巧に頼っているのを知っているから)
もし紫苑なら。機巧にほとんど頼らず術を扱えるあの子なら、平然と術式を発動できただろうに。
歯ぎしりする私の視界の隅で、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶が弱々しく羽ばたいている。私もその蝶と同様に、巣穴に迷い込んでしまったのだ。
「急げ、急げ! 機巧をいじる隙を与えるな!早急にカタをつけろ、攻撃を絶やすな!」
彼らの刃を濡らす黄色の液体──においで確信を持てた。必殺の毒である、『毒大蜂の蜜』だ。
(こいつら、私をここで仕留める気だ)
それなら──私も遠慮が要らない。
耳障りな声が、残りの連中と共に押し寄せた。身をそらし、その勢いのまま地面に倒れこんで足の腱を切りつける──ふたり目。
「大いなる女神アラディル、天と地に恩恵を満つ──がっ⁈」
のんきに詠唱する術師の腕に、最初の一人が取り落とした小刀を投擲。宝珠を砕き、手のひらごと壁に縫い付ける──三人目。
「汝に仇なす者に、裁きの炎を……っ!」
教会の術師は、『意思の力』だけで術式を制御する。
圧倒的な干渉力を持つリセルト人の『白賢者』ならともかく、民族的に干渉力が低いイウロ人がそれをやる場合、出力に限界がある。
(炎なら!)
炎の槍に、星夜術刀をぶつける。目を見開く術師を睨みつけながら、私は炎を裂いて突貫した。
星夜術刀に用いられる鉱石『星夜石』には、星沁を吸収・蓄積する特性がある。だから──
「な……っ!」
──現世に具現化しきった『炎』そのものは吸収できなくとも、術の威力を削ぐことはできる。
目を見開く術師に、術刀を一閃。皮膚を舐める炎の痛みが、術師の断絶と共に絶えた。四人目。
「残り、三人」
返り血で火傷の熱を冷やし、おののいている残りの連中を仰ぐ。残りは非術師だ。
「な、なぜだ、あの方は、術を封じれば渡り合えると──がっ⁈」
地面を蹴り、みぞおちに肘を叩き込む。飛び散る唾液ともんどりうつ身体。
「……馬鹿ね、あんた達」
速度を追えずに無防備な姿勢を晒していた女には、そのまま回し蹴りを炸裂させる。
「──術式をあんた達みたいに使えない人間が、他の技術で才能を補ってるのは当たり前じゃない」
吹き飛んだ女は柱にぶつかり、石にヒビを入れて沈黙した。
「あとはあなただけよ」
「やれやれ。ヒトの動きではありませんね」
聞いていた通りです、と笑う男の腕を捻りあげる。
ひくりと動くのど元に、私は短刀杖を押し当てた。
「これは、あの審問官達の指示?」
「あぁ、おいたわしやイングリッド様。既に人の身ではあられない。その魂は、祝福と浄化を受けなければ女神アラディルの御許へ還れない」
「あいつらはまだ街にいるの?」
「導きましょう、救いましょう……我らの手で道を指し示しましょう」
「質問に答えろ!」
刃を食い込ませる。つぅ、と垂れた液体に、ようやく男は顔を上げた。
「どうかあなた様に、アラディルの導きがありますように」
男の表情は、ひきつった笑顔に彩られていた。哀しみ、喜び、恐怖。すべてがごちゃ混ぜになった、不気味な笑顔に涙が浮かぶ。
「っ⁈」
嫌な予感に、引き下がった瞬間だった。
男の身体が爆発し、轟音と共に熱が押し寄せてくる。
「くそっ……⁈」
顔を上げるその前に、バシュ、と空気が抜けるような音がして空間が揺らぐ。術師が死んで、結界でずらされていた世界が元に戻ったのだ。
「ぐ……」「あ、が……」
焦げた大地、ばらばらに転がった人体。まだ息のある連中は、苦しげな声を上げている。焦げ臭いにおいに混じって落ちるのは、芳醇すぎる赤のにおいだ。
(まずい……)
星沁濃度が急に変わったせいで、制御が乱れた。早く落ち着かせないと。肺にありったけの空気を飲み込み、喘ぐ。しかし衝動は止まらなかった。頭の中で響く声は、割れ金のように不快だった。
『喉が渇いた』と声が言う。『許さない』と声が言う。『全部』『すべてを』『立ちふさがる全てを消してしまえ』と反響する。頭の中で直接響く声は、いくら耳をふさいでも鳴りやまない。
「あ、あぁ……」
手に違和感を感じて見下ろすと、指先が黒く変色し始めていた。リボンがほどけた己の髪は、白く、銀色に染まりつつある。
変化に絶望するより前に、のどの渇きは頂点に達した。でも、目の前にある赤いものは、魔物じゃない。同じイウロ人、人間のモノだ。私には確信があった。目の前の『人間』に手を出した瞬間、私の中から『イリス』が消える。
いやだ、助けて消えたくない。血の海の中で上げた慟哭が、樹々を震わせ天に打ちあがった、その直後だった。
「お前がイリス・デューラーだね」
現れた気配に顔を上げる。茂みをかき分け現れた人間の姿は、視界が歪んではっきり見えない。
でも、においは『それ』が何なのかを知らせていた。リセルト人。故郷を滅ぼした、リセルト人だ。
「これは、お前がやったのかい」
応えようとした瞬間、心臓がドクンと脈打つ。目の前が赤に明滅し、言いかけた言葉が途絶えてしまった。
「あ、が……!」
──何をしてるの、と幼い自分が心の中で攻め立てる。リセルト人が目の前にいるのに、どうして戦わないのと泣いている。
「ギッ、あ、ア……ッ!」
──飲みたい。目の前のこれ、赤いこれを。私ではないたくさんの誰かが叫んでいる。毒の匂いがするものは嫌だ。そうだ、生きているものがいい。だって、健康な赤髪が目の前にいるじゃないかとそそのかす。
(ダメだ、抑えろ、今だけは抑えろ!)
理性の声に逆らって、私の身体は飛び出していた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を背け、絶叫をあげながら、赤髪の女にかぎ爪を伸ばす。
でも、その手は女に届かなかった。
肩を突き破る衝撃が、私の身体を後ろに投げ飛ばす。地面に転がった私が見たのは、見慣れた桃色のスカートだった。
「い、イリスちゃんが、この人たちを殺したの……?」
カチャリ。聞き慣れたその金属音は、撃鉄が起きる音。顔を上げたその瞬間、白銀色の銃口に視線が吸い寄せられた。
「ジェ、シカ……?」
視線を緩慢に持ち上げる。
銀の銃を構えたジェシカの瞳には、呆然とした表情の私が映っている。銃弾に貫かれた肩は血まみれ。指先は黒く染まり、見開かれた瞳は、瞳孔が魔物のように裂けていた。
「ウ、グ……」
なぜか言葉が出てこない。視界が揺れる。ジェシカの手も震えていた。
銃口は、私にまっすぐ向けられたままだ。あなたは一般人でしょう。なんでそんなものを持っているの。なんで。なんで?
(……あぁ、もしかして、ジェシカは術師じゃないから?)
護身用に持っていたのか。私がいつこうなっても良いように、持たされていたのか。
私をいつでも殺せるように、見張ってたんだ。
理解した瞬間──トン、と胸を手のひらで押されたような気持ちになった。
(私みたいな人間が、夢を見ちゃいけなかったんだ)
突きつけられた銃口に、私は笑いかけた。
もういいや。この街に来れて楽しかったし、撃たれて終わりでも、もう大丈夫。自分の感情に嘘をつき、終わりを望んで立ち上がる。
(でも、そいつだけは)
リセルト人。リセルト人は街を壊すんだ。教会の人間と同じ。ここで始末しておかないと、この街が汚れてしまうよ。
「グ、ギグ、グァ……!」
そこをどいてジェシカ。そいつだけはやっつける。とどめを、刺すから。
「い、イリスちゃん。止まって。止まってってば。そうじゃないと……っ!」
どこかで遠くで、誰かが叫んでいる気がしたけれど、止まるわけにはいかない。
私は地面を踏みしめ、そして──
リセルト人に飛びかかろうとした瞬間、意識が暗転した。




