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【もう一人の教授】

 

「な・ん・で! あんたがここにいんのよーッ!」


 そんな叫びと同時に繰り出した手加減(へにょ)パンチは、奉公初遅刻の焦りと眠気を完全に吹っ飛ばした。


「あはぁん! 今日の一撃はひときわ愛がこもってるわねぇ。たまんないわぁ!」


 顎を赤く染めながら身もだえしているのは、いつもは学院にいるはずのジェシカ・ペスカトーランだった。


「イリスおねえちゃん、おはよ……そのひとだれ?」

「みてみて、ミンミン描い……そのひとだいじょうぶ?」

「あ、イリスねーちゃんだ!総員、とつげ……そのひと知り合い?」


 奥から出てきた子供たちが、廊下を見た瞬間半歩下がって顔を引きつらせる。しまった。こんな小さな子供たちを、オトナ保健体育の権化に接触させたらお守りの名折れだ。


「いや知らないわね。さっさと裏庭に戻りなさい。ここの空気は教育に悪い」


「空気共用すら許してくれないのねぇ! んもう、ツンツンツンデレなんだからぁ!」


「ごめんちょっと何言ってるか分かんないから感電(ビリビリ)コース行っていい?」


 言いながら、帯電させた短刀杖を振り上げようとした時だった。


「いやちょっと落ち着けイリスじょーちゃん。ビリビリコースの方が教育には良くないと思うぞ」

「そうそう。幼女にいたぶられて電気ビリビリとか、その筋の奴が目覚めちゃうだろ」

「ルークお前は黙っとけ」


 視界に入ってきたのは、くすんだ金髪と人参色の髪。エヴァディとルークだった。


「イリス。昨日の事なんだけどよ──」


「てめえもロリコンかゴミクソ人参ーッ!」


 先手を打つため、ラリアットで口封じ。ここには子供たちや職人たち、何よりジェシカがいる。


(喋らないで)


 ルークの顔に腕が当たる直前、勢いを殺し静かに囁く。若草色の目が見開かれたのを確認して──


「うふぶっしゅ⁈ 」


 ──湖まで吹っ飛ばす。多少理不尽だったかもしれないけど、歩く官能小説野郎にかける情けなんて持ち合わせてない。


「……すごぉく自然に投げてたけど、あの子溺れないかしらぁ?」


「あいつ溺れるほどヤワじゃないわよ。それより、私は奉公あるから。また後でね」


「あっ、ちょっとイリスちゃん!」


 真顔で起き上がったジェシカの言葉を一蹴、踵を返す。そのまま逃げ切ろうとした私の手を──


「待って。待ちなさいイリスちゃん」


 ──柔らかいジェシカの手が、強くつかんだ。


「親方さんに聞いたわぁ。昨日、体調崩してたんでしょう?」


「……だったら何よ」


「今日は休ませて貰いなさい。無理しちゃいけないわぁ」


 ジェシカの言葉に、私は眉根を寄せてしまう。

 この人の事は苦手だ。ロリコンだし、興奮の仕方がきもいし、オトナのくせに妙に優しい。

 しかも、ジェシカの妙に間延びした声音は、祖母に似ているのだ。想起されるのは暖炉の明り、揺れる安楽椅子、しわくちゃの口元に浮かぶ笑顔。


「帰りましょう、イリスちゃん」


 脈動と一緒に、心臓から何かが湧き出た気がした。胸を刺し、喉をうずかせ、目元を熱くにじませる何かが。

 あたたかな声に、振り返りたくなる。帰ろうという言葉に、薄汚れた研究室で待つ紫苑や教授の姿が想起された、その時だった。


「……がっ、あ」


 身体の奥底からあふれ出た、冷たいかたまりが背筋を冷やした。さっきのあたたかな感情とは違う。郷愁の想いなんてものじゃない。

 ろうそくの灯のように浮かんでいた暖炉の明りが。研究室の光景が。背後で私を見ているであろうジェシカの姿が。黒いもやでかき消されていくような感覚。


 そして代わりに溢れ出して来るのは、景色を歪ませる嫌な眩暈と汗、のどの渇き。

 それらを振り払おうとすればするほど、ざわざわと囁くような声がせり上がってきて、鼓膜を揺らさず脳に響く。


「な、なに……?」


 なんだこの声。前は聞こえなかった。いや、私が聞こうとしていなかっただけ?

 何を言っているのか聞き取ろうとしても、声は反響し重複し雪崩のように襲い掛かって来る。のどの渇きと相まって、まるで首を絞められているような感覚だった。


「イリスちゃ──」


「うるっ、さい、うるさいうるさい黙れ黙れ黙れーッ!」


 手を掴んでいる何かを振り切り、私は両腕で頭を抱えた。周囲の景色が戻るまで。脳を揺らす音が鎮まるまで、自分で声をあげ続ける。

 やがて黒いもやがゆっくりと退き、ざわめくような声が引いた。そう思い、目をあけた瞬間に飛び込んできたのは、路上に投げ出されたジェシカの姿だった。


「あ……?」


 私は事態が信じられなくて固まっていた。ジェシカも信じられないように私を見上げていた。

 ジェシカはほとんど無傷だけど、砂利がかすったのか、手の甲からほんの少しだけ血が出ている。


 私はとっさに顔を背けようとしたけど、鼻腔は血の匂いを捉えてしまった。蜂蜜のように濃くて甘い、美味しそうな血肉(・・)の匂い──


「違う、いやだ、私はそんな事しない!」


 身体を支配する誘惑を振り切ろうと、めちゃくちゃに走り出す。


(離れなきゃ……離れろ離れろ遠ざかれ!)


 人間を見るな。匂いを嗅ぐな耳を塞げ。五感の全てを遮断して、自分の中で感情を押さえ込め。

 人にぶつかり、物にぶつかり、樹々や草花にぶつかりながら人気のない場所を目指す。


「待ってイリスちゃん……イリスッ!」


 遠ざかる感覚の中で、ジェシカの声が、ずっと背中を追いかけてくれていた気がした。



◇◇◇



「そんな……イリスちゃん」


 ジェシカは震えていた。伸ばした手に滲んだ血はちっぽけだけれど、少女からの拒絶を示すには十分すぎるほどの量だ。


(追いかけないと)


 イリスの様子は尋常じゃなかった。きっと、呪いが進んでしまったんだろう。教会組織と衝突を起こした、あの日のように。


(でも……動けない。足が、足がすくんで)


 己を見下ろすあの子の目。アレは人間の目じゃなかった。獲物を見定める、獣の視線とでも言うべきか。

 元戦闘員の、睨め付けるような視線に晒された一般人(ジェシカ)が動けなくなるのは、当然の結果だった。


「……帰ってきて早々に騒ぎとは。この街はいつだって退屈しないね」


 ジェシカは緩慢に振り向いた。視界に映ったのは、赤みがかった金髪と琥珀色の瞳の女性。

 筋骨隆々のイウロ人と比較するとすらりとした印象で、顎の輪郭もどこか鋭角的だ。


 なにより特徴的なのは、金沙を散りばめた紺色のローブだ。

 星読み博士、あるいは古の神を祀る司祭を彷彿とさせる彼女は。


「クリームヒルト先生……」


 クリームヒルト・オーウェル。ジェシカ属する術式文化学研究室のもう一人の教授で、ジェシカの担当教授だった。


「旅に出ているのではなかったか、同族」


「そのつもりだったが、学長から呼び戻されてね。若造(エリック)だけでは手に負えない案件だと聞いている」


 親方の言葉に肩をすくめ、クリームヒルトは膝をついた。白い手でジェシカの肩をそっと触れ、目を細める。


「留守を任せて悪かったね、私の可愛い教え子。さっそくで悪いんだが、状況を教えて貰えるかい?」


 

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