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【おまじない】

 

 夜。教科書を開いたままうとうとしていた紫苑は、苦しげなうめき声を聞いて眉をひそめた。


「……イリスちゃん?」


 声の源は二段ベットの下、同室者となったイリスの寝ている場所だ。

 はしごを降りてみるが、暗闇の中では何も見えない。


「えと……招鬼(しょうき):【狐火】」


 初歩的な朔弥式で、指先に明かりを灯す。

 ぼんやりと照らされるのは白亜のシーツ。枕元に積まれた本。明かりのついていない星沁ランプ。

 そして──こちらに背を向けたイリスは、苦しげに肩を上下させていた。


「ぅ……あ、ぐ」


 喉から絞り出された声が、空気にすがりつこうとしている。

 悪夢にうなされているのだろうか。紫苑は少し逡巡してから、イリスのベットに腰かけた。


(いい、紫苑。悪夢を見ている人を、無理に起こしてはいけないのよ)


 思い出すのは母との会話。紫苑はイリスの背中に触れるように座ると、静かに目をつむった。


(無理に起こすと、悪夢の名残がずっと残ってしまう。悪夢を見ている人を助けたいなら、夢魔シンを追い出して、夢を優しくするためのおまじないを、そっと唱えて寄り添うの……)


 母はいろいろと教えてくれた。本来は特定の植物の力を借りるとか、事前に道具を定位置に配置するのだと。


 でも、それらは全て、事象を起こしやすくするための潤滑油に過ぎない。

 かける言葉はなんでもいい。『想い』を込めてさえいれば、それはまぎれもない『祝詞』になるのだと。


星夜(ほしよ)に舞うは、夢見鳥(ゆめみどり)……」


 だから、紫苑が選んだのは子守唄だった。

 母が歌ってくれた子守唄。自分自身の孤独を慰めるために歌ってきた、帝国育ちの紫苑にとっては異国の歌。


「お前の夢が、彼の寄り辺。やさしく咲けよ、夢の花。竜奴(りゅうな)の清水に育まれ、母の祈りに蜜を抱き……」


 細い歌声が部屋に響く。蛍のように淡い光が、部屋の中にぽつぽつと灯る。

 

(イリスちゃん、どんな夢を見てるんだろう)


 いにしえの唄を歌いながら、紫苑は顔の見えないイリスを見下ろした。

 


◇◇◇



 ──暗い。動くたび、頬に枝が当たる。

 包帯を巻いた太ももに木漏れ日が当たるたび、見つかったのではないかと心臓が跳ねる。

 そこは、アナストリアの深い森。私の小隊(・・・・)が潜伏している茂みの中だった。


「……少尉殿、大丈夫ですか」


「急所は外れているわ。処置をすれば十分動ける……単に、術式の反動が来ていただけ」


「少尉殿は幼き身でありながら、我々の為に『秘蹟』──いや、『術式』を惜しみなく使って下さる。疲れが出るのも仕方ないでしょう」


「今は戦時。私は術師兵。そして今は、諸君らを率いる隊長でもある……年齢(とし)の事を言っていられる状況ではないわ」


 いかついヒゲ面に笑いかけて、私は周囲に目を向けた。


 状況は、はっきり言って最悪だ。

 茂みに隠れているのは、私の他に四人。そのうち二人が重傷。応急処置をしてはいるが、衛生兵の装備だけでは足らない。医師(メディック)に見せないと命に関わる。


 戦えるふたりの隊員は、先ほどの交戦で術式武器に蓄積されたエネルギーを使い果たした。

 そういった道具に頼らず星沁術式を発動できるのは、術師としての教育を受けている術師兵の私だけ。


「……敵は」


「まだ気付かれていないようです。風下だからか、〈ヨロイ鹿〉の鼻も少しはごまかせているようで」


「といっても、時間の問題ね」


 私たちは徒歩。敵であるリセルト人は、ヨロイ鹿に乗って襲いかかってくる。リセルト人は、イウロ人の私たちよりもしなやかで俊敏。おまけに森にも慣れている。


 他の味方と分断されたこの状況で、重傷者をかばいながら森を抜けるのは難しい。


(このままじゃ……全員がなぶり殺しだわ)


 それだけは回避したい。たった数ヶ月で、見知った顔がずいぶんと減った。これ以上、知っている顔を土に埋もれさせたくない。


「ディード軍曹」


 だから、やるしかない。私は立ち上がった。


「はっ」


「貴官に小隊の指揮権を預ける。一足先に『起点』を設置しに行き、その後はアヒム少佐との合流を図りなさい。私を待つ必要はない」


「い、一体何を仰せで」


 困惑した軍曹の手に、小さな箱を手渡す。

 それは『網』の起点だった。複数の起点を設置する事によって発動する、大規模な結界の起点。

 本来なら撤退のふりをしながら埋める予定のものだが、敵の動きが早すぎて設置できていない。作戦を確実に実行する為には、時間を稼ぐおとりが必要だった。


「私がここに残り、誘導作戦を続行する。

 ろくに防壁も張れないポンコツ機しか使えぬ諸君らより、私の方がよっぽどいい『盾』になるわ」


 言いながら、軍曹が腰に下げた『星沁防壁機』を鼻で笑う。

 装置中央の宝珠はひび割れ、それが本来の機能を果たせない事を示していた。


「諸君は、ディード軍曹の指示に従い撤退。負傷者を搬送しろ。その後の指揮権は、大隊長アヒム少佐に移行する」


「しかし少尉……っ!」


「これは命令よ。逆らう事は、軍規に反するわ」


 静かな声で言うと、軍曹も、他の部下たちも口をつぐんだ。その強面に、これから起こる事を想定した情けない表情が浮かぶ。


「……私は、私の家族にとっては失敗作だった」


 ぽつりと呟く。それは事実だった。血反吐を吐く思いで努力して、居場所を求めて躍起になった結果、理解してしまった結論。


「血は汚れ、男に生まれず。イルマ姉様たちのような社交性と愛嬌も持たず。

 ……唯一誇れる術式の才も、アヒム兄様には敵わなかった」


 大隊を指揮する異母兄を思い出し、目を伏せる。兄は本物の天才だった。生まれつき人並み以下の星沁干渉力しか持たない私では、到底追いつけないほどの天才。


「その兄が、作戦の前に私を呼び出して言ったの。『次は、二度と私の目が届く場所に生まれるな』と……この意味は分かるでしょう」


 異国語を話す声が近付いてきた。

 術式で限界まで強化した聴覚は、興奮したヨロイ鹿の息遣いをも捉える。しかし部下たちは、まだ気付いていないようだ。


「私はお前たちを死なせてまで、一人おめおめと兄様の元に帰れない。

 私は今、お前たちを一人でも多く生かして帰し、作戦を続行させる為だけに存在しているのよ」


 軍曹の額に手を触れ、私は笑った。


 これが、私が触れる最期のぬくもり。

 涙でひしゃげたひげ面はかなり汚いけれど、私の事を想って泣いてくれた結果だ。


 生まれる親が違えば──こんな父親の元に生まれたら、私も幸せな人生を送れたのだろうか。

 そんな思考を表に出す事なく、私は言葉を続ける。


「……イングリッド少尉は、望まれた通りに『盾』の役割を果たした。帝国の貴重な兵を守り抜いたのだと、我が兄に伝えてちょうだい」


「少……尉」


 これ以上は気付かれる。限界だ。

 私は小隊の全員を見回してから、茂みを庇う位置に飛び出した。


「イングリッド少尉!」「少尉殿!」


 追って来ようとする部下の鼻先に、『地雷』をばらまく。

 動きを止める彼らに、私は淡々と言った。


「私の『地雷』は、術者ではない人間が踏むと発動する──例外は存在しない」


「少尉……っ!」


「行きなさい。命令よ」


「……っ!」


 最初に動き出したのは、ディード軍曹だった。

 彼は顔を歪め、ライフルを手にしたまま敬礼する。


 私は踵を返し、前を向いたままその敬礼に答えた。

 それから間も無くのことだった。


 ザッと枯れ葉を踏む音がして、大きなヨロイ鹿が木立から姿を現わす。

 私の意識は、即座にそいつらの相手に切り替わった。


『イウロ人の小娘が一人……俗に言う少年兵という奴か? それにしても小さすぎるようだが』


 リセルト語で話しかけられた言葉を無視し、静かにナイフを前に突き出す。


『あの街のイウロ人は、全員首をはねよとの女王の命令でな。子供だろうが、刃を持ったその時から戦士だ──容赦はしないぞ』


 ヨロイ鹿を降りて、見事な赤毛の男は大剣を構えてきた。

 あぁ、こいつも。こいつも私を子供扱いせず、正々堂々戦おうとしてくれるのか。

 私は乾いた笑みと共に、ナイフを握る手を緩め──


『違います!そいつは──っ!』


 ──素早く引き抜いた術式拳銃の、引き金を引いた。


『な……』


 胸を弾丸に貫かれて、赤毛の男はよろよろと後ずさる。


 信じられないものを見たような目だった。

 正々堂々戦うのが戦士、だまし討ちされるとは思ってもいない。あぁ、そんな奴らばっかり。


 私もこいつらも、みんな、馬鹿ばっかりだ。


『私の名、イングリッド。お前たち、付けた名は、【天雷(てんらい)】』


 リセルト語で告げると、どよめきが上がった。


『天雷……こいつまさか』


『イウロ人の戦士長だ。イウロ人のくせに、星導の技を使う女──!』


 片手に術式拳銃、もう片方に短刀杖。名乗った名にどよめくリセルト人たちに、私は吠えた。


『ここから先、通さない。お前たち、戦士長(わたし)を狩る。名誉得られる。かかってきなさい!』


『貴様__っ!』


『まともに、取り合うな!』


 胸を打たれた男が、胸を押さえながら叫んだ。


『そいつは、恐らくおとり。構わず、残党を探せ。まだ、近くに、いるはずだ……!』


「っ__!」


 男は馬鹿でも、愚かではなかった。

 ヨロイ鹿に乗った男──短槍と短剣を下げた女もいる──の何人かは、私を回り込んで仲間たちの足跡を辿ろうとする。でも。


「やらせない!」


 私は、地面を踏み鳴らした。

 途端に『地雷』が発動し、弾けた雷光に怯えたヨロイ鹿が騎乗者を振り回す。


『この一帯、地雷埋めた。通るには、私を倒す』


 言いながら、暴れるヨロイ鹿の肋骨目掛けて拳銃を連射する。

 肋骨の隙間から心臓や肺を撃たれたヨロイ鹿は、悲鳴をあげて倒れていく。騎乗者はその巨体に押し潰されて、バキボキと嫌な音を立てた。

 

『さぁ、来なさい』


『──ァアァアァアァアアアッ!』


 防護壁で矢を弾き、隙のできた射手を麻痺術式を仕込んだ弾で撃ち落とす。

 弾切れ。再装填の隙はない。接近戦で使うのに、ライフルは重すぎる。もぬけの殻の術式銃はその場に投げ捨て、短刀杖に持ち替えた。


『失せろ、帝国の犬め!』


 その瞬間、大剣が頭上から振り下ろされた。

 後退した瞬間、私がいた場所の小石が弾け飛ぶ。


「〈鉄槌〉を!」


 起動の言葉と同時に、雷光が空中を走る。

 雷光に刃を取り巻かれた男は、叫んで大剣を取り落とした。


「らぁあぁあああっ!」


 跳躍して喉を裂く。血しぶきが描く弧の中を飛び、苔の上に着地。

 鮮やかすぎる赤が、責めるように私の背中を染め上げた。


『──ぁ』


 かぼそい声。そして、地面にどしゃりと崩れ落ちる音。

 その後、アナストリアの血塗られた森に、一時の静寂が訪れた。


「……」


 ふと、屈強な大人たちを蹂躙した、自分の小さな手を見下ろす。

 宝石の杖も手も、自分のものではない赤色に染まっていた。


 今ここでの私は強者だった。子供、女は弱者であるという理を覆した強者──それなのに、どうしてこんなに虚しいのか。


「っ……!」


 付け根付近を斬られている太ももが、ズキリと痛んだ。術式で塞いではいるけれど、完璧じゃない。小隊の連中には黙っていたけれど、(きず)はかなり深い。私が動けなくなるのも、時間の問題だった。


『これはこれは……噂の『天雷』にお目にかかれるとは』


 肩で息をする私の元に、戦闘音を聞きつけた新手が現れる。

 即座に戦闘に入ろうとした私は、戦士隊の最後に控える白い衣の女を見て息を飲んだ。


白賢者(ドルイド)……⁈ 」


 リセルト人の戦士を束ねている僧侶にして指揮官。

 ……そしてリセルト人の切り札たる、星沁術師だ。


「は、はは」


 こめかみを伝う冷や汗を、私は見ないふりをした。

 挑発しろ。イウロ術式に比べて未熟なリセルト術式は、術師の精神状態に結果を影響されやすい。相手の冷静さを、少しでも欠かせるんだ。


『あんた達の相手、私で十分だった。はは……あんた達の誇り、騎鹿戦士も、つまらなかったよ』


『貴様……っ!』


『挑発に乗るでない。どうやらその娘、もう限界が近いようじゃ』


 淡々とした白賢者の言葉に、戦士達は無条件に従う。

 リセルト戦士の、頭に血の登りやすい特性を利用するつもりだった私は、密かに歯噛みする。


『娘……お前の背後の森に、妙な気配を感じる。多くの兵……それに、星を宿した武器の気配。撤退に見せかけて我らを誘い込み、狙い撃ちしようとしたようじゃな?』


「っ!」


『分からぬと思ったか? 我らは主らよりも、星を感じ取る力に長けておる。それに、ここは我らの神が住まう森じゃ……森は、常に我らの味方をする。なめるでないぞ』


 目を細めた白賢者から、本能が震える気配が湧き上がる。


 私は瞬時に負けを悟っていた。

 子供の私がこの戦場で勝ち続けてきたのは、星沁術師だったから。


 相手が同じ星沁術師で、しかも多くの戦士に守られているとなれば……生き残る術は、ほぼ無いと言っていい。


『撤退じゃ。笛を鳴らし、他の戦士隊にも撤退を伝えよ』


『しかし!』


『イウロ人どもの罠にはまってやる義理はない』


 そんな会話をしながら、戦士の一人がしぶしぶ角笛に手を伸ばす。

 ──あの角笛が鳴ったら、戦士隊に連絡が行き届く。作戦に勘付いたこいつらに指揮されて、リセルトの戦士隊はみな撤退してしまうだろう。


 ダメだ。それでは作戦通りにならない。網が発動しても、リセルト人を捉える事ができない。

 ダメだ。期待に応えなかったら、失敗したら、私は、私は。



「──っあぁああぁああぁあああぁああぁああぁあ!」



 突貫した。術式で身体能力を限界まで引き上げ、加速する。角笛を持つ戦士を狙う。

 角笛に短刀杖の先が迫る。このまま突き刺さる。そうすれば、他の連中は撤退の意味に気付かず『網』の中に突撃する──



『……哀れな』



 ──そのひと言と共に、刃が弾かれた。

 発生した障壁に身体ごと吹き飛ばされて、樹に激突する。


「がっ……あ、ぐぅ……!」


 肺から空気が抜ける。息が、できない。

 立ち上がる前に、左肩を熱が貫いた。燃える。肩が、私の肉が、裂ける。己の肩から弾け出た液体が、私の頬を赤く染めた。


「ぁああぁあああぁああぁああぁああ⁈ うぁ、あぐ……!」


『せめて安らかに逝かせてやろう。罪深きその魂が、始原の風の導きを受けられるように』


 私の身体から抜かれた剣が、再び振り上げられる。光が反射している。

 心臓がうるさい。本能が立てと叫んでいる。早く。逃げろ。立て。お願いだから立ってよ、私の身体──!



『賢者様!』



 剣が振り下ろされる直前。悲鳴に近い叫びが、賢者の動きを止めた。

 うっすら目を開けると、蒼穹には──ヨロイ鹿と戦士が、舞っていた。


「え……」


 どしゃ、と鈍いを音を立ててヨロイ鹿の死体が落ちる。戦士の身体は、頭上の枝におかしな角度で突き刺さっていた。

 鹿の濁った瞳と目が合う。鋭いものに引き裂かれた首からは、鮮やかすぎる色がとめどなく吹き出していた。


『……!』

『…………』


 リセルト人たちが何か言っている。何かの名前を呼んでいるみたいだ。


 魔物が来たのだろうか。それなら戦わなくては。

 けものに食われて死ぬなんて、絶対にごめんだ。


 あぁ、でももう立てない。

 痛みで朦朧とする。視界がにじむ。寒い。


(だれ、か……)


 助けて。

 願いは声にならなかった。私を見下ろしている大きな影の前で、ヒューヒューと息だけが漏れる。

 

 あぁ、これが私の結末か。恨んで、恨まれて、互いに傷つけあって。最後は、けものに食われて生を終える。

 こんな森の中で、私の骨も土へと還るのか。誰にも看取られず。この、血の池の中で。



 ──寂しかった、なぁ……



 そんな思いを抱きながら、意識は遠のいていく。

 身体の中から大切な何かが抜け落ちていった。苔が私の身体から流れた液体を吸い込んでいく感触が、冷んやりとして妙に気持ちよかった。



 ──あぁ、でも、これでやっと終われる。



 これでもう、悩まずに済む。苦しまずに済む。

 不条理で救いようのないこの世界から、私は解放される。


 私はいつの間にか微笑んでいた。


 太陽の光が眩しい。

 あぁ、空が綺麗だ。蒼い空。硝煙の届いていない、透き通った蒼い空。


 いま手を伸ばせば、あの空の向こうにも飛んで行けるだろうか。


 風に乗って、どこまでも、どこまでも。音のない、悲しみのない、感情すら存在しない〈星〉の世界へと。


 それはきっと、夢と現の境界線。

 蒼穹の景色を映して虹色に揺れる(かすみ)、淡い逆光の中に手を伸ばした時……



 私の意識は、穏やかに夢から解放された。


 


◇◇◇



「……」


 目を開けたとき、真っ先に映ったのは紫苑の寝顔だった。


(なんで人のベッドに入ってきてんのよ、この子は)


 かなり遅くまで勉強していたようだから、寝ぼけたのだろうか。

 気持ちよさそうに寝ているし、起こすのも気がひける。とりあえず紫苑の頭の下に枕を押し込もうと、頭上に手をやった時だった。


「……っ」


 左手を持ち上げた瞬間、鈍い痛みが肩に走る。

 あの日の夢を見たせいだろうか。目覚めは不思議と穏やかだったけれど、痛みが出るのは毎度同じらしい。左手をだらりと降ろして、そのまま顔に手を当てる。窓の外は雨だ。日の出が近いのに暁の光は入ってこなかった。


「治ったのに……痛むわね」


 呟いたちょうどそのタイミングで、隣の少女が寝返りを打つ。「むにゃあ……」と子猫のような寝言をのたまいながら少女が行ったのは、イリスの左腕に抱き着く事だった。


「いっ!」


 その勢いの良さに、全身にビリっと刺激が走った。何するんだこのバカ。よりにもよって痛む方の腕を。

 顔からずり落ちて、紫苑に手繰り寄せられる腕。一発デコピンでもしてやろうかと、私は首を傾けた。そこで──


「おかあさ……いっちゃだ……」


 ──私の腕に顔を埋めた少女の、そんな言葉が聞こえてきた。寝言と共に、腕を抱く力が強くなる。


(確かこの子、両親を亡くして引き取られたって……)


 病気か何かで亡くなったのだと思っていたけれど、違ったのだろうか。腕の痛みをしばし忘れていた私の前で、紫苑はもぞもぞと頭を動かし──


「……あふぇ?」


 ──目を覚ました。小動物を彷彿させるまんまるの目が、私を見てぱちくりと瞬きする。


「おはよう紫苑。さっそくだけど、領土侵犯の現行犯で逮捕するわ」


「えうっ⁈ ち、ちがうのイリスちゃん、これはおまじないをする為で」


「おまじないー?」


 魔術を科学たらしめた星沁の使い手が、まじないを信じる。どんな矛盾だ。私は眉をひそめた。

 

「で、あんたがチャレンジしたのはどんな『おまじない』なわけ?」


「えっと、そのう……」


「白状しないなら、ほっぺたつねりの刑に処したあと、寝床りょうどから追放するけど」


「えうっ⁈ え、えっとね……シンを追い出すおまじないなの」


 私が右手で頬をつかむと、紫苑は観念したように白状し始めた。


「シン?」


「人の夢にもぐりこんで、悪さをするおばけ……。シンを追い出すと、悪夢を見ても嫌な気分になりにくいんだって、お母さんが。」


「ふうん」


 紫苑がおまじないで何をやったのかは知らないし、術式ではない以上、『痛いのとんでけー』以下の言霊でしかないものなのだろう。

 でも……確かに、目覚めは悪くなかった。それがたとえ偶然だとしても。


「まだ五の刻くらいよね。二度寝しましょ」


 紫苑の下敷きになっている布団を引っ張り出して、彼女の上にかける。きょとんとする紫苑に腕を掴ませたまま、私は目を閉じた。


「え、えう、その、ごめんね、狭いよね。上に……」


「最近は肌寒いからちょうどいいわ。湯たんぽとしてここにいなさい」


 起き上がりかけた紫苑の頭を押さえて、私は目を閉じた。

 窓の外は暗い。雨の音がうるさい。けれど、ふたりぶんのぬくもりを抱いた布団は温かく、私の意識は再度夢の中へと落ちて行った。


  

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