【とある聖休日・後編】
「さて……と。ここなら問題ないでしょ」
しばらく歩いて校舎を出る。
紫苑たちが到着したのは湖岸を見渡せる斜面だった。イリスがよく読書や昼寝に使っている、人通りの少ない場所だ。
「じゃあ私は本読んでるわぁ。好きにやってて良いわよぉ」
「監督義務があるんじゃなかったの」
「だって、術式構築分野は専門じゃないもの。ぶっちゃけ、イリスちゃんの方が詳しいんじゃないかしらぁ」
あとは宜しくね、と言ってジェシカは斜面に腰掛けた。若草と空色の狭間を、のんびりと風が流れている。
「……まぁいいわ。ほら紫苑」
若草の中で振り返ったイリスは、紫苑にノートを差し出した。金の髪が柔らかく揺れて、陽光に透かした蜂蜜のようだった。
「いま確認したけど、術式そのものに致命的な欠陥はないわ。式を見ながらでいいから、ゆっくり発動してみなさい」
「う……うん」
湧いてきたつばを飲み込んで、紫苑は目をつむった。深呼吸で息を吸い込み、全身の血液へと生命を巡らせる。
(──想像しなさい)
目を閉じ、母の言葉を思い出しながら竜牙鈴に手を触れる。
(大地の底から涌き出でた清水が泉となり、川となり、風を孕む)
涼やかな星沁が己のうちから湧き上がり、竜牙鈴を介して具現化しようともがいている。紫苑は溢れ出たその星沁たちを、〈命令式〉によって抑え付けた。
「え、〈エオ:イディ/トゥエラ〉〈オブジス“ヴィヴェンド”〉……」
構築理論に沿った。内容も、意味も理解した。
あとはそれに沿って星沁を操作するだけ。星沁を、従わせるだけ。可憐な声で紡がれる術式が、ゆっくりと加速する。
(生まれた風は世界を旅して天に至り、雨となって大地を潤す。あなたは風。自由な風と一緒に、この大地を恵みで満たすのよ……)
帝国式の術式は、お母さんの言葉とは正反対だ。紫苑は思った。
曖昧な物質である星沁を厳密に縛り付けて、命令に従わせる。私がこれから放つ風は……自由な風に、なるんだろうか。
「〈ハガル:エアラ ロア〉……!」
迷いながら完成させた術式は、先日濡れた体を乾かすのに使った朔弥術式を再翻訳しただけのもの。
つまり、能力的には十分に発動できる域にあった。そのはずなのだが。
「きゃふっ⁈ 」
術式は、具現化する寸前でぼふんと弾けた。
術の拘束から放たれた星沁の粒は、紫苑の髪を怒ったように巻き上げてから、空中に霧散する。
「あうう……」
またうまくいかなかった。
落胆し、ぼさぼさになった髪をなで付ける紫苑をじっと眺めると、イリスはため息をついた。
「ふぅん。なるほどね」
一歩離れた場所で見ていたイリスは、うつむく紫苑のそばに近付いてきて言った。
「星沁を操る時、最も重要な要因は何?」
「え、えと……意思の力?」
「そうね。私たちは『この世界にとある現象を実現したい』という意思を主軸にして、術式を発動する。
構築式はあくまで、消費する星沁の量を最小限にしたり、効果を高めるためにある補助要素よ。『式を完成させる』事を目的にして、意識を傾けちゃいけないの。分かる?」
「えっと……」
『術式を完成させて発動する事』という目的は、意思の力という事にならないのだろうか。紫苑はあいまいな表情のまま頷いた。
「いまいち納得してないって顔ね」
そんな紫苑の心情を察したのだろう、苦笑したイリスは踵を返した。
きょとんとする紫苑の前で、ザバザバと湖に入っていく。
「い、イリスちゃんっ⁈ 何してるの、びしょ濡れだよ!」
「あんたがこれから乾かすからいいのよ」
気持ちよさそうに髪をかきあげて、イリスは紫苑の元へ戻ってきた。
紫苑に触れる手から、初春の冷たい水がポタポタと垂れる。
「あんたは普通よりも『想い』が星沁に反映されやすい。つまり星沁干渉力が高い体質なんだと思うわ。感受性が豊かなのね。
でも星沁干渉力が高いという事は、術者の些細な考え事や迷いが、術式全体の構築に大きく影響してしまうという事でもある」
言いながらイリスは星沁を発動した。金色の光が、穏やかに紫苑の方へと沿ってくる。
「今のあんたは、複雑な現象を起こす事に気をとられて、本来の強みである『想い』の力を利用できていないのよ。
式に組み込む内容は、最低限にしなさい。星沁の消費を抑える為の式と、大まかな発現方法だけを指定すればいい……私が制御を手伝うわ。ゆっくりと練り上げて」
「う、うん。〈エオ:イディ/トゥエラ〉〈オブジス“ヴィヴェンド”〉」
普段の紫苑なら、構築を途中で止めた時点で維持しきれなくなり星沁を霧散させてしまう。
そうならないように手を取った紫苑の星沁を抑えながら、イリスはゆっくり言った。
「実現したい現象の『目的』を頭の中で正確に思い浮かべる事ができるなら、その現象について考える事に専念すること。
今まで構築した式は私が維持してるから、風を起こすのに必要な星沁量はしっかり制御できてる。さぁ、あんたの星沁はいま、風を孕んだ……風を使う目的は?」
「えっと、イリスちゃんの服を乾かすの。寒いと嫌だろうから、暖かい風で、優しく……」
「そうね。そのイメージを強く想像しながら、術式を静かに解放しなさい。慌てなくて良いわ。暖かくて優しい風が、身体の中からゆっくりと湧き上がるのを想像して」
イリスの言葉を聞きながら、紫苑は目を閉じた。
(暖かい風。優しい風。自由な……うん。私の風はいま、自由なんだ)
──大地の底から涌き出でた水が泉となり、川となり、風を孕む。風は世界を巡って、天へと至り、大地を満たす恵みになる……
母の声が、頭の中で子守唄のように反響する。
それと同時に、繋いだ手から伝わる冷たい感触が、紫苑の意識を『暖かい風』の想像へと導いていく。
「……」
紫苑の星沁が練り上がったのを見て、イリスは緩やかに星沁の制御を解いていった。
金色の星沁が、淡い翡翠色に溶け合って消えていく。
「〈ハガル:エアラ ロア〉」
術の完成を告げる言葉は、自然と口から溢れ出た。
ふわりと湧き上がった風が、柔らかく二人を包み込む。
「わ……! で、できた! できたよイリスちゃん!」
「式を途中で終わらせた方が、全体の消費を抑えた状態で、より正確な風量を出せたでしょ」
ぴょんぴょんと跳ねる紫苑を見て、イリスは口元を緩めた。
「慣れるまでは、このやり方を使うといいわ。これはあんたの星沁干渉力の高さに依存したやり方だから、私に同じ事はできないけどね」
「そ、そうなの?」
紫苑は目を瞬かせた。紫苑にとって、術式を使いこなすイリスは自分よりずっと優秀な人という定義だった。
そのイリスが自分にできることをできないという事が、よく分からなかったのだ。
「あんたみたいに星沁をイメージだけで操るには、星沁干渉力が足らないのよ。
私の『想い』は、完璧な術式を介さないと現世に反映されない。生来の能力だから、努力でどうこうできる分野でもないわ。私にそういう才能はないのよ」
「え、えと……」
「真実を言っただけ。あんたが気に病む必要はないわ」
反応に困る紫苑には構わず、イリスは言葉を続けた。
「それとその媒介、たぶんイウロ術式には合ってないわね。星沁を維持してるだけで、式として記録できないでしょ?
私みたいに媒介なしで維持できるようになるまでは、ちゃんとイウロ術式を口頭記載できる媒介を使った方がいいわね」
「えと、入学時に支給されるって聞いて、それまでは……」
「私のお古でよければあげるわよ」
「え、いいの……?」
術式媒介は総じて高価な品だ。とてもではないが紫苑の小遣いで買えるものではない。
びっくりする紫苑に対して、イリスはなんて事ないように言った。
「売るのは気が引けるんだけど、自分ではもう使わないからね。ちゃんと使ってくれるなら、あんた用に調整したげるわ」
「ちゅー、にんぐ?」
「自分の星沁干渉力に合わせて、媒介に組み込まれてる式を微調整するのよ。
普通は使わないけど、二年位で『術式工学』を履修するなら覚える事になるかもしれないわね」
「学院の履修表、全部見たの?」
「まぁね。既に履修してる講義を取っても仕方が」
言いかけて、イリスは動きを止めた。
気まずそうに顔を背けて、口をすぼめる。
「今のは忘れて。なんでもないわ」
「う、うん……」
頷きながら、紫苑は考えていた。
帝国の教育施設は、同じ分野の講義については共通の単位として認めている。
だから、どこかの施設や教育組織で学んだ後にチチェリット学院に入るとしたら、前の施設で学んだ分野に関しては既に技術を得たものとして扱われるのだ。
(イリスちゃんは、やっぱり術式について勉強してきたんだ)
どんな世界を見てきたんだろう。
何を見て、何を思い出しているんだろう。イリスちゃんは、どうしてこんなにも寂しそうな横顔をしているんだろう──?
(って、いけない)
知らなくていいから側にいさせて欲しい。そう願ったばかりなのに、余計なことを考えてしまった。
(でも、待って)
──お母さんも、お父さんも。私に何も言わないままいなくなった。
隠し事をしていることは知っていた。知っていたけれど、それを聞く事によって均衡を崩したくなかったから何も言わなかった。
もしかして自分は、また同じ事を繰り返そうとしているのだろうか。私は。私は──
「紫苑? 紫苑ってば」
「ふにゅっ」
頬をつままれて、紫苑の思考は現実に引き戻された。
「にゃ、何いりすひゃん」
「明日の夕方、開けときなさい」
「ふぇ……?」
「術式媒介よ。あんたの星沁を通しながら調整しないといけないからね。奉公が終わったらそのまま研究室に来るわ」
「……」
「なに、どうしたのよ」
怪訝そうに見つめて来る金色の瞳。その中に、怯えた表情の女の子が映っていた。
──自分を取り巻く小さな箱庭が崩れるのを恐れ、真実を追求する事に怯える私の姿。
「紫苑?」
「わ、私……」
知るのが怖い。知らないでいるのも怖い。
でも、そんなの前提に過ぎなくて、私は。私は──
「私はっ!」
紫苑は叫んだ。驚いたイリスが身を引きかけるのに構わず、前へ前へと身を乗り出していく。
「イリスちゃんのこと、すごいと思ってるよ!」
「……は?」
余計な思考を振り払って『想い』に正直に。
言われた通りにしてみよう。紫苑の言葉は、鈴の音と絡み合い加速した。
「え、な、なに?」
「才能とか、そういうのは、わかんないけど……イリスちゃんに教えて貰わなきゃ、私、術式を発動できなかった。私にとってはすごい人だもん!」
想いが星沁を生み、星沁が世界を変える。それがこの世界の摂理だというのなら。
ひとつの想いを強く願おう。そして祈ろう。
この箱庭の世界が、続いてくれますようにと。
「わたしね、いまとっても幸せなんだ。イリスちゃんがこの街に来てくれて良かった。あの時……」
イリスの手を取る。がっしりとした手。古傷が光る手。風で乾かされたその手は、温かかった。
「私のペンを拾ってくれたのが、いま私と手を繋いでるのがイリスちゃんで、本当によかったなって思ってる。だから。これからも、その……友達でいてくれないかな?」
沈黙が、紫苑たちの間を通り抜けた。
いつのまにかジェシカも、本から目を離してふたりを見守っている。
呼吸の仕方を忘れそうなくらい硬直する紫苑の前で、イリスは──ため息をついた。
「あのね紫苑。人間は、利害関係で結ばれるの。私は無益な事に時間を割かないし、利益をもたらさない相手とはつるまない」
「えぅ……」
紫苑は、イリスに特段利益をもたらしているという覚えはない。だからこれは、拒絶の言葉だ──じわりとにじむ涙を、こらえた時。
「だから、あんたとは一緒にいるわよ」
苦笑しながら、イリスは言った。
「え……?」
「あんたと会ってから、いろいろと運が向いたような気がするしね。私にとって、あんたとつるむのは間違いなく有益な事だわ……あんたくらいしか、同世代の話し相手もいないし」
はにかむ笑顔は、ひまわりのようだった。淡い蒼穹を背景に咲く、黄金色の花。
告げられた言葉の意味を噛み締めた紫苑は、涙の代わりに喜びの感情が湧き上がるのを感じた。
「い、いい、イリスちゃーんっ!」
「バカ危な……だぁあっ⁈ 」
抱きつく紫苑、体勢を崩すイリス。ふたりは草むらに倒れこんで、小さな花びらを宙に舞い上げた。
「だから言ったでしょうが……」
「えへへ。ごめんねー」
「ったく……」
謝りつつ反省の色が見えない紫苑に、イリスは呆れ顔になった。口を開きかけるが、面倒になったのか蒼穹に視線を向ける。
やがてイリスは紫苑の身体を横に転がらせて、目をつむった。
「ほら、練習再開よ。また制御を手伝ってあげるから、さっきと同じようにやってみなさい」
「……え、この姿勢で?」
草に半分埋もれた状態で、紫苑は瞬きした。
「ええ。日当たり良いから、起きるの面倒くさくなったわ。私が眠くなったら休憩ね。さぁやるわよ」
「う、うん!〈エオ〉……」
きらめく湖面の上を弾むように、少女たちの声が響き合う。
紫苑が歌い、イリスがそれに寄り添うたびに、翡翠と金色の星沁が、蛍のように天に舞い上がった。
◇◇◇
「……」
その様子を静かに眺めていたのは、ジェシカだ。紫苑が術式を使う間、自分の作業を止め凝視する。
(紫苑ちゃんが術式を発動するのは何度か見たけど……妙な気配を感じたのは、教会の〈烏〉と対峙したその一回だけねぇ)
視線の先にあるのは、紫苑の首で輝く竜牙鈴。
青みがかった銀色の鈴は、ただひたすら『媒介』としての役割のみを果たしているようだ。
「気のせいだったのかしらぁ……」
呟いて、ジェシカは己の膝に顎を乗せた。
星沁干渉力が高い紫苑は、燃費を犠牲に式を省略する事ができる。
〈烏〉が紫苑に気を取られたのも、死角からくるそういった無詠唱・短略術式を警戒したからだったのかもしれない。
(イリスちゃんの体質も心配だったけど、教会の連中はもう北に帰ったって話だし……しばらくは、平穏に過ごせるかしらぁ)
風で花びらを舞い上げる紫苑、その動きについて指示を与えるイリス。初めは世界を拒む表情をしていたふたりが、今は笑いあっている。
「……ふふ」
溢れる笑みを隠さず、ジェシカは立ち上がった。
膝に乗せていた本を若草の上に寝かせ、一気に走り出す。
「うわこっち来るんじゃないわよっ!」
ジェシカの接近に気付いたイリスがバッと立ち上がり、全力で走り出す。
「ま、待ってよイリスちゃーん!」
揺れるぶどう酒色のスカートを追いかけて、紫苑はさらに速い速度で走り出した。
小柄で腕力もない紫苑だが、足は妙に速いのだ。しかし──
「えうっ⁈ 」
──運動神経が良いかと聞かれると分からない。何もないところでつまずいた紫苑は、前にいたイリスをも巻き込んで地面にひっくり返った。
「あ、あんた相変わらず鈍臭いわね……っ!」
「ご、ごめん〜っ!」
「はぁい、つーかまーえたぁ」
「げっ」
地面で絡まっているふたりを抱き上げて、ジェシカはにやりと笑った。
「ふふ、ジェシカさまから逃れるには五年くらい早いわよぉ」
「そこは『百年早い』でしょ⁈ 的確に私たちが成人する頃なのがムカつく!」
「にゃははは」
少女たちの声が、湖岸の丘に響く。
わりと本気で煙たがられてるなぁ、なんて考えつつもジェシカは考える。
(この子達がずっとこの笑顔でいられるように、私たちが頑張らないと)
目の前でふざけあっているこの子達の為なら、いくらでも努力は惜しまない。この私で良ければ、いくらでも、誰にだって頭を下げよう。
ふたりの柔らかい髪を撫でながら、ジェシカは相好を崩すのだった。




