【邂逅・そして異変】
飛び跳ねるように先を歩く紫苑を眺めながら、イリスは妙な感覚を覚えていた。
鈴が鳴る。足音が重なる。
なぜか自分の鼓動が聞こえ始める。脈打つ音がうるさい。
(この感覚は……)
知っている。戦いの直前に感じる、根拠のない戦闘の予感だ。
でも、こんな街中に魔物がいるわけがない。迷宮の魔物は、星沁の組成が異なる現世に出ると身体が弱って、大半が『普通の獣』になってしまう。
だいいち、魔物は自分の意思で迷宮の外に出てくる事がない。ならば、この感覚は、なぜ。
予感に喧騒が遠のき、時間が引き伸ばされたような錯覚を覚えたと同時に──
「見つけましたなの、イングリッド様」
──すれ違いざま響いた声が、背筋に冷気を突き刺した。
「──っ!」
何かを考える暇はなかった。紫苑を後方に突き飛ばすと同時に、腰に帯びていた短刀杖を振り上げる。
銀色の軌跡が描く、流麗な弧──その軌跡は、相手が振るった短剣に遮られた。
「い、イリスちゃ……」
「下がってなさい!」
叫ぶと同時に斬撃を受け流し、回転の勢いを利用して足を振り上げる。
不意の反撃に目を見開いたそいつは、トン、と地面を蹴って後退した。
「……フゥ」
──女だ。亜麻色の髪の、若い女。
その表情は氷のように凍り付いているのに、目だけが爛々と輝いていた。
この黒ずくめ、この異様な気配、手にした儀礼剣……間違いない。教会に仇なす者を排除する狩人、『闇夜の烏』である証だ。
「……っ!」
箱庭みたいに美しかった世界が、揺らいだような気がした。
烏。闇夜の烏。できる事なら、二度と目にしたくなかった。こんな西の果てまで逃げてきても、嫌な過去が纏わりついてくるなんて。
(それに、こんな街の真ん中で戦闘なんかしたら)
あの衝動が。あの体質が。私の身体を蝕む『あれ』を、紫苑たちに見られてしまうかもしれない──
私の逡巡をよそに、〈烏〉はきらめく短剣を手にこちらを見据えてきた。
その目に迷いはない。私も、迷っている暇はない。
「……くそっ!」
歯ぎしりして、私は駆け出した。
◇◇◇
何が起こっているんだろう。
突き飛ばされへたり込んだ紫苑は、イリスの背中を眺める事しかできなかった。
「い、イリスちゃ……」
「下がってなさい!」
思わず肩を縮めてしまうような気迫で怒鳴り、流れるようにナイフを閃かせる。
飛び散る火花。あちこちから上がる驚声と悲鳴。
修道女の格好をした女性が地面に着地、拮抗状態──紫苑が止める間もなく、イリスはまた駆け出してしまった。
手にした短刀杖に、金色の光が蛍のように集積する。
「……っ!」
それを見て修道女も地面を蹴った。
手にした短剣に、人魂のような青い光がぼうっと灯る。
生まれる一瞬の空白、停滞した無音。
次の瞬間──
「「ッ!」」
短剣と短刀杖がぶつかり、光が弾けた。
一歩遅れて、術式の生んだ衝撃波が周囲を駆け抜ける。爆風を叩きつけられた観衆たちは、たちまち悲鳴を上げて逃げ出した。
「っ!」
爆風から顔だけを庇い、紫苑は耐えしのぐ。目の前で行われている激闘に介入するなんてことは、到底不可能だった。
「紫苑ちゃん、下がってぇ!」
逃げる人ごみに逆らって近付いてきたジェシカが、紫苑の腕を引っ張った。いつも笑みを浮かべているその顔に、余裕の色は残されていない。
「あ、ぁあ……」
ジェシカの叫びに、紫苑は応えることができなかった。
翻る修道女の黒衣、弾ける雷光に重なって浮かぶのは過去の光景。
周囲が騒然とした空気に包まれる中、紫苑の意識は追憶に投げ込まれた。
◇◇◇
『──異端者を断絶せよ!』
それは紫苑が孤児ではなかった頃の記憶。
覚えているのは燃える松明、翻る黒衣。甲高い騎鳥の声と、幌馬車の隙間を走り回って叫ぶ人々の群れ。
旅の紫苑たちを馬車に乗せてくれた放浪民が、教会の異端審問部隊に襲撃されたのだ。
状況が理解できなかった紫苑は、馬車の隅で震えていた。同じ馬車には、放浪民の子供達。自分よりほんの少しだけ年上の子たちが、入口を抑えようと前に出た時だった。
入口から伸びた手が、一人の頭を掴んで引きずり下ろした。
凍りつく子供達を覗き込んだのは、虚無の淵に落ちたような昏い色の瞳。
真っ黒な修道服がはためく度に、ひとり、ふたりと子供が引きずり出されていく。紫苑も例外ではなかった。
髪を掴まれ、引きずり出されたのは砂利の道。そのはずなのに、頬を汚したのは生温い液体。その正体に気付いた瞬間、喧騒が遠のいた。
「あ……あぁ、うぁ」
投げ出された、オリーブ色の手。重なるのは誰かの足。何かで斬られ、ひしゃげ、砂煙にまみれた物体が、目の前にいくつも、いくつも──
「やだ、やだやだやだぁ……ッ!」
修道者を目の当たりにした紫苑は追憶に囚われ、あまりに無防備な肉体を現に晒していた。
◇◇◇
「……」
短剣でイリスの攻撃を弾いた修道女は、考えの読めない無表情のまま、小刀を投擲した。
イリスではなく──紫苑に向かって。
「え……っ?」
時間が極限まで引き伸ばされた。
銀色の刃が迫る。目玉に突き刺さる。眼球を破り、脳を貫いて──
「──っ!」
そんな幻視を吹き飛ばす速度で、紫苑の前にイリスの背中が割り込んだ。
眼前に迫った短刀を弾きながら、後ろ手に紫苑を突き飛ばす。
「うあっ⁈」
紫苑が安全圏に飛ばされると同時に、イリスに生まれる致命的な隙。修道女は無防備な少女の腹部に、神速の拳をめり込ませた。
「がっ……⁈」
大人の拳が直撃した少女は、人形のように宙を舞った。短刀杖がイリスの手を離れ、尻もちをついた紫苑の元まで転がって来る。
「イリスちゃんっ!」「ダメだってば紫苑ちゃん!」
悲鳴と共に飛び出そうとする紫苑、止めるジェシカ。空中で弧を描き落下する少女の身体。目を細め、少女の落下点に向かって発光する短剣を突きの型で構える修道女。
「やだ……死んじゃ、やだ……っ!」
助けなきゃ。イリスちゃんを助けなきゃ。紫苑の思いが強まり、白熱した願いが星沁の光となって身体の中からあふれ出る。
それだけなら、術式媒介を手にした術師にはよくある事。ただし、それは異様だった。
「えっ……⁈ 」
その星沁は、紫苑の足元から花を咲かすように発光を広げていく。リン、リン、リンと加速する鈴の音が、同時に異様な気配を発し始める。
紫苑を抱えているジェシカは、紫苑の首元から漂う『何か』の清涼な気配に、動きを封じられた。
「……!」
一瞬で足元に広がった清涼な星沁、そしてその源たる『何か』の気配を感じ取ったのか、修道女は弾かれたように振り返った。
細まっていた目が見開かれ、紫苑の首元__銀の鈴に視線が集中する。
「──そこまでにして貰おう」
だが、何かが起こる直前。パァン、と響いた銃声が空を裂いた。
遅れてどさりと少女が地面に落ちる音。ジェシカが止める間もなく、紫苑はイリスの元に駆け出した。
「イリスちゃん、イリスちゃん!」
紫苑がイリスに駆け寄るのを、修道女は横目で見るだけに留めた。対峙している相手が、それ以上の動きを許さなかったのだ。
「教会の〈烏〉殿。その子達は我々学院の保護下にある。離れたまえ」
淡々と告げるのは、擦り切れた革のコートを揺らす男性──エリック・オードラン教授だった。
手にしているのは星沁の煙を上げる鉄の筒──術式弾が込められた、最新式の術式銃だ。
教授の言葉が、空気を震わせる。気付けば遠巻きに事態を見守っていた野次馬──学院所属の学徒たちからささやきが集まり、明確な意味を持つ言葉の数々が周囲を取り囲む。
「おい、教会の奴だ」「何しに来たのかしら」
「後ろの子供を狙ったのか……異教徒の子かな?」「関係ないね。どちらにせよ、学院の関係者に手を出そうとしたんだぞ」
教会の連中がいる、学院の関係者に手を出そうとしたらしい──その情報が野次馬に伝播すると共に、ざわめきが熱を帯び始める。
エリック教授は学徒の群れが織りなすざわめきを聞きながら、しかしその喧騒を止めようとはしなかった。
「……その娘を、こちらに引き渡してください。教授殿」
群集の背後から声。審問官の服を着た男だった。
その姿を見たイリスは、明らかに狼狽し身を固くする。
「帰りましょう、『イン』……いいえ、イリス様。あなたの兄君も心配しておられましたよ」
周囲の学徒たちを気にしたのか、審問官はイングリッドを偽名で呼ぶ。
『英雄イングリッドが教会から逃げ出した』などという噂が立つ前に、この子を回収したいのだろう。エリックは推測した。
「あなたは女神アラディルから、神聖なる恩寵を授かった恵みの御子。異教徒たちを圧倒したあなたの『恩寵』は、女神アラディルの愛の賜物なのです。
あなたは神に選ばれた。命ある限り、その役割を果たさねばなりません」
「……」
審問官の視線を避けるように、イリスはエリックの背に隠れた。その表情は生意気な子供そのものだが、エリックの袖口を掴んでくる手は小刻みに震えている。
エリックは震える少女を一瞥し、顔を上げた。
「失礼。あなた方が言っておられる『恩寵』というのは、星沁を扱う能力の事ですかな?」
エリックは飄々と笑った。
まるで役者のように。歌劇を演じる歌手のように、身振り手振りを交えて言葉を続ける。
「確かに星沁を扱う能力は生来のもの。道具の力を借りずに世の理を書き換え、貴方がたの言うような秘蹟を起こす事ができる者は多くない。それは確かに、天からの恵みともいえるべき力だ……しかし」
イリスの頭に、大きな手をぽん、と乗せなでる。
驚いたように顔を上げたイリスに、エリックは笑いかけた。
「どうやらこの子は、それほど生来の星沁干渉力が高いわけではないようだ。
努力してきたのだろう。生まれつきの能力でどうにもならない差を埋める為に、必死で工夫してきたのだろう。
その努力の全てを『恩寵』としてまとめてしまうのは、いささか乱暴ではないですかな?」
「女神アラディルがひとびとに授ける恩寵は、かたちは違えど平等です」
神の愛。そのかたちは多岐に渡ると審問官は説いた。
「イリス様は、確かに神と語る力が強いわけではないのでしょう。しかしそれもまた、女神アラディルのご意思の結果。
イリス様が悩み、苦しみ、より大いなる力へと導かれる為に、女神が与えたもうた試練の結果が、イリス様の大いなる力の正体なのです」
乗り越えられない試練は与えられない。どんな悲しみも、苦しみも、人間は乗り越え強くなる。
なぜならば、苦しみの先に光があると知っているからだ。苦しみの先に光があるからこそ、人はそれを乗り越えられるのだ。
魂はその試練を乗り越え続ける事によって、高みへと辿り着く。
試練の大きさが違うのは、魂が乗り越えた試練の数が人によって違うからだ。
しかし全ての魂が越え辿り着く先は同じ。乗り越える試練の数も、最終的には同じ。
我々はみな、神によって平等に愛され、平等の試練を与えられる。
輪廻転生を解く教会の使者は、穏やかに微笑み……金眼の少女へ、手を差し伸べた。しかし。
「我々は、あなたの意見に賛同できない」
エリックは、強い口調で反論した。
「自らの力で立ったからこそ、この子は強さを得たのだ。与えられたものを基に、自分の頭で考え、努力し、さらなる高みへと昇華させた。
その努力を全て『最初から与えられたものだった』として大人が道を決めてしまうのは、少々つまらない事だとは思わんかね」
才能など、もともと不確かで不平等なものだ。
星沁干渉力という生まれつき限界が定まった不確かな才能を、論理で解明し。才能の不足を補うための技術を編み出した。
そうやって我々は、我々自身の努力によって前へ進むことができる。世界を常に疑い、真理を探究する者が、最終的には『神の恩寵』にも勝る強さを手に入れる。
学院都市を代表したエリックの言葉を、審問官は静かに聞き、頷き……そして笑った。
「何度聞いても、傲慢で不遜な論理だ。あぁあ、あなたがた学院都市は、そうやって我々の創造主たる女神アラディルの愛を拒み、滅びの道を自ら選ぶのですね」
「我々はみな親から生まれ、親の愛を受けて育つ。しかし、どのような獣にも親離れの時期というものがあるだろう?
人間にだけそれがないというのも、おかしな話だ」
教会の使者と学院の教授、双方の視線が交錯し火花をあげる。沈黙の争いは、そのまま拮抗状態が続くと思われた……しかし。
「……出てけよ」
ここは、学問の街だった。
「また教会の教義に反するとか言って、学院に介入する気なんじゃないのか」
「ふざけるな。社交科にいるような純血の貴族ならともかく、俺たちみたいな平民が高等学科を学べる場所は、ここにしかないんだ……」
「出ていけ」「出て行けよ。教会の連中が来る場所じゃない……」
『出ていけ』『出ていけ』『出ていけ』──ばらばらだった言葉が統一され、嫌悪を込めた言葉になって渦を巻く。
審問官を避けるように道を作った学徒たちの視線は、幾百の矢のような圧力を帯びて審問官たちを刺し貫いていた。
「……ディアナ、いったん引きましょう」
「でも」
「イリス様は、大きな試練を乗り越えようとしている最中です。少し、時間が必要なのでしょう」
敵意をむき出しにした学徒たちに対して、あくまで穏やかに、それこそ神の使いの表情で。
審問官はイリスに対して微笑むと、踵を返した。
「決心がつくまでお待ちしておりますよ、イリス様。どうか神の愛を忘れず、我々と共に生きる道を選んでくださいますよう……」
風紀隊に声を掛けられた審問官たちは、驚くほど穏やかに指示に従った。
漆黒の服が翻り、後ろ姿が遠ざかる。野次馬の処理も風紀隊たちに任せる事にして、エリックはイリスを見下ろした。
「イン……」
「その名前で呼ばないで。私はイリスよ」
少女は、遠ざかる審問官たちの背を追いながら言った。
「それは後から付けられた名前。六歳までは、ちゃんとイリス・デューラーって呼ばれて……あぐっ⁈」
ふいに、イリスは息を詰まらせた。自身の胸倉をつかみ、荒い呼吸を繰り返し始める。
まるで陸上で酸素に飢える魚のように口が開き、目玉が飛び出さんばかりに見開かれるその状態に、エリック達は異常を察知する。
「イリスくん、どうしたんだ」「イリスちゃん……?」
「来ないで!」
屈みこもうとしたエリックから飛びのいて、イリスは吠えた。そのままふらりと目元に手を当て、膝をつく。
「あの糞バカ、空気読めない大ボケ野郎、ちょっとはタイミングってもんを、考え……」
悪態交じりでイリスが取った行為は、異常だった。
小刻みに震える手で、短刀杖を己の首に押し当てたのだ。行動の目的は分からない。だが、やろうとしている事は誰にでも分かる。
「イリスちゃ──っ!」
何をしようとしてるの。叫んで止めようとした紫苑達の、目の前で──
少女は自らに、電撃を撃ち込み崩れ落ちた。




