老猫
我が家には猫がいる。今年で十二歳になる、真っ黒な身の老猫だ。
その日、彼は冷たい板張りの廊下でゆったりと時間を過ごしていた。季節は初夏を迎えていて、日向にいるとその黒い痩身が日光の注目を浴びすぎてしまうのだろう。私はその時間を邪魔しまいと静かに横を通ったが、警戒するようにこちらを見つめられてしまった。理由もなく責められていると感じる。
「ごめんね」
謝ると、彼はなんでもないという風にまた目を閉じて穏やかな時間に戻った。私はすこしだけ安心して、自室に潜り込んだ。
普段、この時間には家にいない私がいることで、彼の平穏を奪ってはいまいかということを薄い紅茶を飲みながら思った。あまり美味しくない。窓の外とは裏腹に、私の心中はいつ雨が降り出してもおかしくない暗雲模様だった。
五感に薄い膜が張っているような感覚がある。見るもの、聞くもの、触れるもの全てがどうにも鮮やかさを欠いている。その中で、自分への嫌悪感だけが無為に鮮烈な傷を作っていた。
私は今日、仕事を辞めた。
きっかけはない。ただ、そうするほかなくなっただけだ。
細かい問題が山積して、自分の中で整頓がつけられなくなった。解決出来ない問題が余計な荷物になって、ゆっくりと私の領域を侵し続けていた。それがついに、物置から溢れだして生活に必要なところに支障を来しはじめたのだった。
向き合っても片付けきれない、出処も定かでない問題に対して、私は無力だった。その物量に負けて潰れる他なかった。
何も特別なことではない。ただ、社会に適合できない人間がまたひとり見つかったというだけのことだ。辞職はある意味、その無駄を取り除く善行である。そうでも思わなければ、自分を保ちきれない実感があった。
朝の間から、少し眠ってしまったようである。目のまわりに湿った不快感があった。私は馬鹿げている、とティッシュを二枚取って目の周りを拭いた。対症療法にすぎない。あとで顔を洗わなくてはいけなくなった。鏡に映すとどんなひどい顔をしているのだろう、と考えるだけで一層五感に張った膜が厚くなるように思った。
無意識に外したらしいメガネを手繰り寄せると、抗議のように彼が鳴いた。メガネのツルが何かに引っかかった感触があとから伝わった。
「ここにいたの」
いつの間にか、廊下から私の部屋に入ってきていたらしい。ベッドなんてそう涼しい場所でもないと思うが、もう廊下も冷たい場所が残っていないのだろうか。私はメガネをかけると彼と視線を交わした。
もう一度、何か言いたげに私に声をあげる。
「もしかしてお腹すいた?」
言葉が通じた訳もないが、一度黙る彼を見て、なんとなく納得してもらったように思う。私はベッドから起き上がって、台所へ向かった。
彼用の食事を出しつつ、自分も食パンをトーストして食べようと思った。お腹が空いているのは私のほうで、彼には付き合わせているだけかもしれないとも思う。彼は普段、朝と夜の二回しか食事をしないはずなのだ。彼は私について台所まで入ってきて、行儀よく座って待っている。どうやら食事の時間だということくらいは伝わっているようだった。猫は賢いのだなあと感心してしまう。少し鮮やかな感想だった。一眠りしたおかげか、気分はやや落ち着いたようである。
彼に食事を出してやると、私はその様子を見ながら食パンをかじった。日の差し込む大窓に陣取って、いい速度で食事を進める彼を見ているとなんとも言えず心が休まる。日光の注目を浴びても動じないその威厳は彼がただ老いたからではなく、ずっと自然に持っていたものだ。
「ありがとうね、まぐろにあ」
名前を呼ぶと、何だよ、というような視線を向けられる。私は悪かったと思って、視線を少し上に逸らした。彼も何もないのだと察したらしく、視界の端で食事を再開したのが見える。
視線をやった大窓からは雲ひとつない青空が見える。とりあえず、生きていこう、とそんな適当なことを思って、私も食パンをまた食べ始めた。さっき口にした時よりも、美味しく感じられた。