again
まないの名前は笛田真那衣。ちょうど残業を終えたサラリーマンの帰宅ラッシュの時間帯。改札に通す定期券は塾に通う専用のものだ。お母さんは私の勉強のためなら何でもする。ようやくまともな言葉を話せるようになった私を英会話教室に入れたり、幼稚園の時もみんなが公園で泥んこになりながら遊んでいる中私は塾へと通わされたり。
今はその塾の小学部、最難関私立受験コースに在籍している。その中でも私は常にトップクラス。学校でも塾でも誰一人に負けたことがない。
もちろん何もしなくても点が取れる天才ではないから、毎日コツコツと勉強している。私は別に勉強が嫌いってわけじゃないけど、受験のことなんて全く考えず楽しそうに毎日を過ごすクラスメイトが羨ましかったりする。そして多分それが本来の小学生の姿なんだと思う。
電車に揺られて20分。さらにそこから徒歩10分の一軒家に私と妹の奏花と医者の父と弁護士の母とで住んでいる。
最近、特に冬休みが近づいてからは、塾帰りの私を迎え入れる笛田家の扉が重くなってきているような気がする。もちろん本当に重くなったわけではないが、私以上に私の受験に気合を入れている母からのプレッシャーがそうしているように感じる。
「ただいまー」
吹き抜けの玄関に私の声が小さく響く。
「おかえり。早くご飯食べてお風呂入りなさい」
「はーい」
今日の学校はどうだった?とか聞いてくれてもいいじゃないかなと思っても、この母親は私の成績以外興味がないので諦め、今度こそはと期待を込めてリビングの扉を押し開けた。
「お姉ちゃんお帰りー! ねえねえ聞いて聞いて! 私また塾のテストで一位取れたんだ!」
奏花は机に広げた宿題をほったらかして私に飛び込んできた。
「よかったね! 奏花いっつも頑張ってるもんね!」
「うん! 奏花ね、また一位取れるようにもっともっと頑張るんだ!」
「奏花なら次も一番だよ。頑張ってね!」
こういったいつもの風景に僅かながら安堵を覚えたも、やはりラストスパートの冬休みを目前に控えているとだけあって、見えない緊張の糸の張りが日ごとに強くなっていくようだ。
私と奏花がはしゃぐ声を聞いて洗い物をしていた母は台所から顔を出した。
「それ食べて、お風呂入ったら塾の復習と問題集進めなさいよ」
「分かってるよ」
「素直に『はい』と言えばいいのよ」
「はーい」
「いい? 絶対に四天王寺に受からなくちゃいけないんだからね」
「うん……」
大阪私立中学の名門、四天王寺。この学校の名前を小学生の低学年の頃から聞かされている。
私をまるで勉強しか能が無いお人形のように扱う母は憎いとかそんな感情よりも怖さが先行する。
まるで狂っているように私に夜遅くまで勉強させる。育ち盛りの体に睡眠不足はこたえるもので目の下にはくまが出来ているし、身長はクラスで一番小さい。
そんな母を見かねた父が母を注意した時、私のせいで喧嘩ムードになっていく二人を見ると、私は何も悪くないのに罪悪感に包まれた。
夜の十時。小学生にとってはこれから成長ホルモンが分泌され始めるといった時間帯だ。
「ちょっと疲れたでしょう。これでも飲みなさい」
母がお盆に載せたジュースを持ってきた。
「ここ置いとくわね。それじゃあ頑張ってね」
扉をゆっくり閉めていく母の目は私をこんな風にして楽しんでいるように見える。
さて、これをどうするべきか。お盆の上に乗った黄色いジュース。中から気体が盛んに出てきているから炭酸飲料だ。こんな時間に子供に炭酸ジュースを与える親もどうかと思う。それはこれが本当にただのジュースだったらの話ではあるが。
これを見るのはもう三回目。私が塾から眠そうにして帰ってくると決まってこれが出される。はじめは正体なんて知らないからちょっと炭酸のきつい飲み物だなって思ってた。でもこれを飲むと、どんなに夜遅くになっても瞼が重たくならない。逆にどんどん目が冴えていくような感覚を味わった。もしかして自分の体は病気になってしまったんじゃないだろうかとまで考えた。
その正体が栄養ドリンクであることを知ったのは、二回目を飲んでからだった。
今回はもう騙されない。でも、残したら怒られそうだし……。
あ! そうだ! いいところに窓があるじゃん。
反抗心むき出しで窓を豪快に開け、吹き込んでくる冷気など気にせず思い切りコップを逆さまにしてやった。よし、作戦大成功!
この件で中断していた問題を解き終わったら今日はもう寝ようと、窓を閉め振り向いた時だった。
母が私の胸ぐらをつかみ、私の体を自らに近づけた。
頬に鋭いのに鈍い痛みを受けたのはそれからすぐの事だった。
それから出願まではあっという間だった。塾は余裕で合格と言ってくれたし、学校の先生も応援してくれたし。でも、四天王寺にしか眼中にない母は、わたしに滑り止めの私立の受験を許してくれなかった。
そのことがますます私を緊張させていくのだった。
そこから母は、更に厳しくなっていった。トイレとお風呂とご飯の時以外は部屋から出ることさえ許されなかった。でも、不思議なのは母が厳しくなるにつれて献身的になっていくことだった。制服は代わりにハンガーにかけといてくれるし、私の担当だったお風呂掃除も代わってやってくれる。私のために何でもやってくれるのが逆に怖くなるけど、思えば勉強させるのも私のためなんだなと思えば、すんなりと母の気持ちが理解できるような気がする。
しかしその愛情は私を更に苦しめることになった。
「そうだ真那衣、お母さんとお父さんね、真那衣が春から四天王寺に通いやすいように、四天王寺の近くにマンションを買ったの」
「え?」
そんなの聞いてないよ。それでも、母は私の戸惑いなんて気づく気配もなく楽しそうに話していく。
「だから、ここからだと一時間くらいかかるからもっと近くのほうが便利じゃないかなってね。マンションだと十分で登校できるのよ」
そんなの知らないよ。しかも、どうして受験直前にそんなこと言うの。それじゃあ、もし私が落ちたらマンションはどうする気?
そして、私はどこのコースにも引っかからず、不合格となった。
合格発表で私の番号がどこにもないことを知った母は無言で、私の頬を叩いた。私がよろけて倒れそうになると、左手で肩をおさえ、また叩いた。合格通知の入った封筒を抱え持った合格者が私と母を蔑むような目で見てきた。そして、何も見なかったように嬉しそうに帰っていった。
もう最悪だった。
家に帰った途端母は怒り狂った。
「どうして落ちるのよ。あなた、そんなに私に嫌がらせしたいの」
いつも食事をとっているテーブルに私と母は対角線を取るように座った。
「ねえ、マンションはどうしてくれるの? 私とお父さんで頑張ってローン組んだのに」
「……」
「私はどうしてくれるのよ。ママ友に娘は四天王寺に行くって堂々宣言した私の立場を考えなさいよ」
「……」
「はぁ、もういいわよ……」
一人リビングに取り残された私は、全てを失ったように感じた。
ローン? 宣言? そんなの知らない。お母さんはいつもこうして私を追い込んで、いい成績じゃないと怒り散らして。
だいきらい。
だいっきらい!
数日後、塾では小学部卒業のお祝いパーティが開かれた。
「ねえ、明日香ちゃんはどこ行くの?」
「私は奈良の方の私立に行くんだ」
「奈良かぁ」
「うん。詩乃は?」
「私は大阪市の……」
このパーティーは実質私達の難関私立中学の合格祝い。だから私はこんなところに来たくなかった。受験前までは一緒に頑張ろうねとか言い合って励まし合っていた友達は、今は私の方なんてちらりとも見ない。いや、ここにいる私以外の合格者全員が私に話しかけてこない、近づかない、同じ部屋にいるとさえ認識していない。
所詮塾での友情なんてそんなものだ。彼女らが笑い合っているのは合格したからであって、もし不合格なら私と同じ目にあう人が必ず出てくるだろう。
なんて強がってみたものの、こんな簡単に友情がなかったことにされるという現実が私の心を締め付ける。涙は出ないけど、心の中のものが全部絞りだされそうなくらい、胸のあたりがキューッと痛くなる。
どうせならもっと私の心をズタズタにしてくれたらなぁ。こんな中途半端に壊されたら余計に痛いよ……。
パーティも終わり、みんな塾の前で親の迎えを待っている。小学部でこの塾をやめる人も多いからみんな親が来ても名残惜しそうに友達と話している。中学部へと進級していく者もいるが建物が変わるので、この塾の建物から本当に卒業というわけだ。いつもより親の迎えが遅く、誰も話しかけて来ないので退屈していた時、とんでもない噂が聞こえてきた。
「ねぇ、今年は誰か落ちたの?」
金持ちを主張するピカピカの外車の前で誰かの親が言った。
「笛田さんみたいだよ。四天王寺受けたけど落ちたんだって」
「笛田さんって確かこの塾のトップだったじゃない」
「それがね、このだけの話なんだけど、笛田さんってカンニングしてたみたいなの」
「カンニング?」
「うんうん。だから塾のテストも結果が良かったって」
「まぁ、あそこの親があんなんじゃ無理もないわね」
「うんうん」
カンニング? 知ったもんじゃない。確かに母のプレッシャーは凄まじかったけど、カンニングなんて絶対してない。それなのに不合格と知った途端、私を好きなように噂し、笑いの種にする。しかも笑いの中心にいたのが、この塾でいちばん仲が良かった沙綾だったから、本当に辛かった。
今日はお父さんが迎えに来てくれた。私が車に乗り込んで少し経ってから、授業を終えた奏花が勢い良くドアを開けた。
「真那衣。今回は本当に残念だったと思う。でもな、真那衣の人生はまだまだどこまでも続いていく。だからな、リベンジできるチャンスはいつでもあるんだ。お父さんはいつも真那衣の味方だから、困った時はいつでも頼ってほしい」
「でも、お母さんはまだ怒ってる」
「お父さんも何度も注意したけど、聞く耳を持たなくてな。まるで中学受験で失敗したら人生が終わるかのようにな。だからこそ、北野高校にでも入ってお母さんを見返してみてはどうだい? 人生はいつでも挽回できるって教えてやるんだ」
「私が北野なんて……」
「大丈夫。真那衣は頑張れる子だ。なんだって真那衣は私の自慢の娘だからね」
「お父さん……」
後ろへと流れるビルの明かりとか信号の光とかが潤んで見えた。
後ろの席では奏花が座席に沈み込むように寝ている。いや、寝ているふりをしてくれたのかな。
そのまま私も寝てしまったらしく、父に体を揺すられて初めて家に到着したことに気づいた。
「おかえり、ご飯できてるよ」
母はほんの少しだけ私の方を見てくれるようになった。それでも、前に比べたら全然。
仕事帰りのお父さんと、その道中で拾われた私と奏花、そしてご飯を作って待っててくれた母と囲む食卓にはまだぎこちなさが残っている。張り詰めた緊張の糸がちぎれて絡まってしまったようだ。
しかし、食べ終わった食器を流しに運ぶ際の、奏花に対する母の一言が、少しだけ戻りかけた日常に落ち着きを覚えた私を再び震え上がらせた。
「奏花は勉強好き?」
「うん。でも急にどうして?」
「お母さんね、奏花に賭けることにしたの」
「え?」
「奏花なら合格してきてくれるよね? 四天王寺」
「私、みんなと一緒の中学に行きた……」
そこまで言った時、母は奏花の言葉を遮った。
「いいえ、あなたは四天王寺に行くのよ。そうじゃないと新しいマンションの意味がなくなっちゃうでしょう」
この母親はまた同じことを繰り返そうとしている。
「それに、家族ごとマンションに引っ越すから同じ中学なんて何があっても無理なのよ。奏花は4年生になったと同時に転校するの。もう学校に手続きもしてきてあるわ」
「転校なんて絶対やだ」
「友達なんていくらでもできるわよ」
「そういうことじゃない!」
「そういうことよ。いずれあなたは今の友達のことも忘れちゃうんだから」
「ぜったいやだ!」
「全部あなたが四天王寺に受かって良い人生を送れるようにするためなのよ。全部あなたのため」
そう言って泣きわめく奏花の頭を撫でる母の手からは鋭い爪が見え隠れしていた。
私の心を切り裂いたあの爪が。