廃都編 39章
ボストへの出発の日は迫り、それに伴って俺の心境も細かく起伏する。必要以上に悲観的になることもあれば、妙に気が楽で楽観的に思えることもある。結局は現状を客観的に見れていないことが根本の原因なのだろう。精神面での安定は、戦場において大きく影響する。兵士である以上、いくつかの心得は何度も教育されてはいた。軍隊に入ったばかりの頃の教育隊でも、様々な心得と、経験を聞かされた。首都警備隊の宿舎近くのボロボロの酒場。飲み慣れない酒を背伸びして口にしながら、実践経験のある上官の話に耳を傾けていた過去の日々が、不意に思い出される。
「聞いていますか? カイルさん」
意識の外から急に呼びかけられて顔を上げると、F二五が呆れ顔で俺を眺めていた。今は、基地宿舎の狭い会議室を借りて行われているボスト情勢のレクチャーの最中だ。そして、淡々と続けられるレクチャーのさなかで、俺の意識は少し飛んでいたようだ。幸い眠っていたわけでは無い。ホワイトボードに書き連ねてある文字を眺めれば、概ねの内容はすぐに思い出すことができた。
「大丈夫です」
俺がそう答えると、F二五は小さくため息をつく。
「ボスト国内の情勢において、最も懸念されるのはロシュビッチ一派が広く、浅く、国民の間に分散しているということです。北部カダラートにロシュビッチ一派が撤退しているとはいえ、ボスト首都には未だ一定の支持層がいると考えて間違いありません。つまり、多くのボスト国民は、クーデター一派とロシュビッチ一派のいずれかに旗幟を鮮明にして所属しているわけではない。地理的に北部と中央部に別れてはいますが、そこに居住している国民の中には、当然クーデター一派を支持する層も、ロシュビッチを支持する層も入り交じっていると認識してください。そして、状況次第でどちらにも転ぶ可能性のある中間層も相当数いると考えるべきでしょう」
存在する一般市民が水と油のように分離しているわけでは無いということだ。それは、戦場においては非常に厄介なことではあった。
「白黒はっきりしねえ国民性ってことか?」
ルパードが手を上げてF二五にそう質問する。
「いえ。そうではありません。結局は、今回のクーデター自体が、国民のなかから盛り上がって起きた類のものではないというのが根本の原因です。いままでの長い間、一般のボスト市民は極めて厳重な情報統制下にあったわけです。簡単にいえば、大半の国民は支配層が何を考えているかなど、知る由も無いということ。その中で、グスタフを初めとするボストの内務省、警察、一部の軍部が叛旗を翻し、国家の支配層が二つに分かたれた。当然、市民からすればよくわからない状況の中で、自分たちを支配する層が別れたということしかわかりません。現在でも市民に対する情報統制はクーデター一派、ロシュビッチ一派双方で実施されています」
「だったら、俺らの味方のはずのクーデター側だけでも市民に情報を公開すりゃ良いんじゃねえのか」
「そういう訳にもいかない事情があります。ルパードさん、いきなりですが民主主義を構成するために必要なもの、なんだと思いますか?」
「え?」
ルパードが戸惑いに満ち溢れた表情で目を丸くする。
「……んーと、なんて言うか、その」
煮え切らないルパードを、F二五はにこやかな笑顔のままでしばらく眺めていたが、やがてホワイトボードに向き直ると、その真中に大きく教育と情報という二つの単語を書きこむ。
「色々と意見はあるでしょうが、我々諜報部では、適切な基礎教育体制と情報公開の体制の双方が整っていること、と定義しています」
「教育と情報?」
アキが怪訝そうな表情でそう呟く。
「そうです。喩え話をしましょうか? 国民にひどく歪んだ教育が行われていた国があるとします。例えば、外国人は皆悪魔だ、とか。そういう国がいきなり民主主義になるとどうでしょうか? みんなの意見を聞いても、結局は外国人を排斥しろというような歪んだナショナリズムしか産まれないでしょう」
なるほど、と思う。F二五は俺達の表情を確認して一息つくと、また言葉を続けていく。
「その原因となっているのは、科学的ではない無根拠な教育です。それらは時として風習や、文化という名を借りていることもあります。しかし、多国間の協調が必須となる現代の国家では、それらと切り離されたいわば世界的に共通な科学的認識に基づく根拠ある教育が必須となります」
「それで、教育か。適切な判断ができるようにするための基礎的な教養がいると」
グリアムがそう呟くと、F二五は、そうですね、と笑顔で応じる。
「そして、適切な教育により育てられた国民が正常な判断をするためにもう一つ必要となるもの。それが正確な情報です。これは国家の統治機構からもたらされるものもそうですが、民間に育つ健全なマスコミもその担い手となります。そのどちらかが欠けている民主主義というものは、時として独裁よりも危険な政治的決断をもたらす可能性があります」
「で、ボストでは長い間の情報統制でそれが満たされていない、ということですか」
俺の問いに、F二五は頷きを返す。
「そう。その状態で、民主主義を提供しても混乱するだけでしょうね。そして、ボストには科学的な基礎教育体制もありません。ひたすら独裁を維持するために必要な事のみを国民に叩き込むことのみをやってきていたわけです。ですから、情報だけを提供してもそれを正確に受け取り、それに基づく判断ができるかどうかが疑問です。そこで、多くの民主主義国家は、その移行過程において、国民に対する適切な教育と、その段階的達成度に基づいた民主主義の施行を行うことで安定した政体の確立を行なってきています。少なくとも、先進国と言われる国の大半はそうです」
幾分、話が難しくなってきたがF二五の言わんとすることは理解できる。要は、まだすべての情報を公開するには早過ぎるということだ。ボストという厳しい階級制の独裁国家に対しては。
「クーデター一派は、最終的には民主制の国家を成立させることを目標としていますが、その過程については性急な動きをとらないよう慎重に進めていくようです。セルーラ、エイジア双方ともこれらの事項については多少の意見の差異はあってもそれを認めてはいます。かつてセルーラもエイジアも辿ってきた道でもあるわけですから」
F二五はそこで一旦言葉を区切ると、壁にかけられた時計に視線を移す。レクチャーの終了時間まであと五分と言ったところだろう。
「今日は、ここまでにしましょうか。……出発まであと五日。レクチャーについては明日で一旦終了し、残りの数日で質疑と復習をします。ちゃんと家での復習も忘れないでくださいね?」
なぜか俺の顔をまっすぐに見据えて、F二五は幾分の含みのある笑顔でそう告げた。
「ところでカイルさん。少しお話があるのですけれど」
レクチャーが終了し、いつも通り訓練に向かおうとしていた俺にそう言葉がかけられた。ドアを開ける手を止めて振り返ると、F二五がにこやかに手招きをしている。
「……はい」
そう答えて、ライフルやラバーナイフやらを机の上に置き、F二五の立っているホワイトボードの前まで近づくと、悪い話じゃありませんよ、とF二五が笑う。
「実はね、いままでの戦闘の際にボスト側から鹵獲した武器に、すごく良さそうな狙撃銃があるんです。で、それを希望があればこちらの班にお持ちできます」
「鹵獲? でも、できれば慣れたもののほうが良いような気が……」
そう口ごもる俺をF二五は、まあまあ、と遮る。
「首都でもいろいろ調査していたのですがこれが結構良い評価を得ていまして。今日はせっかく持ってきているので、試すだけ試してもらえたら、と」
「まあ、試すだけなら構いませんが」
俺がそう答えると、じゃあ決まりですね、と嬉しそうにF二五は呟き、足早に部屋の外に去っていく。おそらくその鹵獲した狙撃銃とやらを取りに行ったのだろう。
「ほら、どうですか? 結構良い感じでしょう?」
F二五が幾分得意げにそう言って笑う。射撃練習場の古ぼけたテーブルの上に置かれたそれは、異質という言葉でしか形容しようがない代物だった。手にとって各部を点検すると、それが凄まじいほどの工作精度をもって作成されたものであることが一目でわかる。パーツとパーツはまるで接着されているかのようにしっかりと組み合わされ、微塵の隙間も見えない。溶接痕も歪みも、緩みもない。特殊な合金を使用しているのか、全体的に高度なつや消しの処理がなされており銃口やスコープに太陽光が反射することも殆ど無いだろう。若干長めの銃身は比較的重めの金属で鋳造されているようで、これも射撃精度の向上という観点から見れば好材料だ。
「確かに、これは良さそうですね。弾丸は、連邦共通弾が使えるみたいですし」
弾倉を確認しながら俺がそう呟くと、F二五は嬉しそうに笑う。
「ちょっと、撃ってみてくださいよ。結構凄いらしいですから、それ」
何がどう凄いのか、よくわからない説明ではあるが、確かに撃ってみれば色々とはっきりするだろう。俺は弾倉に標準弾を装填し、ストックを広げると的に狙いを引き絞る。
「これは……凄いです。確かに」
数発の射撃を終え、俺は狙撃銃をテーブルに戻す。発砲の衝撃緩和性能、集弾性、堅牢性、どれをとってもセルーラの制式狙撃銃とはレベルが違っていた。すべての銃弾はスコープで捉えた標的に吸い込まれるように命中している。恐ろしいほどの性能ではあった。これがボストの制式狙撃銃なのであれば、大きな脅威となるだろう。そう考えると、一抹の不安が胸をよぎっていく。
「これね、ボストの制式狙撃銃では無いようなんです」
F二十五が狙撃銃の表面を指でなぞりながらそう呟いた。
「制式銃では、無いと」
おそらく安堵の表情を俺は浮かべていただろう。その表情をF二十五は満足気な表情で一瞥する。
「ええ。指揮官らしき兵士の遺体から回収されたものです。型番もメーカー名も所属も刻印されていないでしょ、これ」
「確かに」
狙撃銃を再び手に取り、細部に到るまで観察する。そこにあるはずの何らかの刻印が一つも見当たらない。
「プロトタイプ、かもしれませんね。この工作レベルは異常だ。少なくとも量産を目的としているものとは思えない。これはまるで……」
「芸術品、みたいでしょ」
確かに、そうだ。まるで一点物の芸術品のようにそれは完成されていた。墨を流したかのような黒で統一された、凹凸の少ない平面的なデザインは酷く特徴的だ。それでいて、機能性を何一つ損なっていない。むしろ、何かを狙撃するという機能ただそれだけに向って、あらゆる要素を極めて高レベルで特化させる過程で、ある種の芸術性を獲得したという方が当たっているのかもしれない。
「精度、性能は問題ないと思います。むしろ、セルーラの制式銃を大幅に凌駕している。あとは、整備性と性能の継続性がどの程度保てるかという所かと」
「まあ、そのあたりは任せます。それ、しばらくお預けしますから、評価をお願いしますね」
F二十五はそう言うと、一枚の書類をブリーフケースから取り出して、俺に差し出した。研究対象物引渡し証書と題された書類。首都警備隊と造兵工廠の責任者の押印がされているそれを受け取り、俺は手早く内容に目を通す。
「ここに、受け取りのサインをお願いします。大尉には報告しておきますから」
「……ありがとうございます。これは、多分実戦でも相当な力になる」
サインを終えた書類をF二五に渡しながらそう告げると、感謝してくださいね、とF二五は俺をからかうように呟いた。
「感謝します。もちろん」
そう答えながら、俺は再び銃に視線を移す。磨いてきた狙撃の腕に、さらに銃の性能が上乗せされることを素直に喜ぶべきだろう。出発までの短い時間の中でやるべき事を頭に思い浮かべていると、少しだけ、心中の不安が覆い隠されたような気がした。