廃都編 38章
あと一週間。俺は壁にかけられたカレンダーを眺めながら、そう呟く。ボストへ向かうまでの短い日々は、戦争の日々の間にほんの少しだけ設けられたささやかな休暇だと言っても差し支え無いだろう。家に帰り、リーフの準備した夕飯を食べ、就寝までの短い時間をたわいもない暖かな会話で埋める日々。その日々が後一週間で終わり、また戦場での日々が始まる。緊張に彩られた命を奪い合う日々だ。いずれ来るその日々を想像すると、幾分の憂鬱さと幾分の疲れが混じり合って、少しずつ心の隙間に入り込んでくるような気がした。
「アキ、残務処理ってどんな感じだ?」
部屋に残っているアキにそう声を掛けてみると、書類を書く手を止めて、アキが顔を上げた。
「ほぼ終了。あとは、大尉の確認を待っているものが少し」
アキはそう答えて、窓の外に目を向ける。階下に見えるグラウンドでは、曹長とグリアム、ルパードが珍しく銃剣での戦闘訓練をしていた。
「訓練に行く。……カイルは?」
席を立ち、ロッカーからラバーナイフとライフルを取り出しながらアキがそう尋ねてくる。ボストへの出発までに身体を慣らしておく必要があるのは明白で、その誘いを拒む理由は何もなかった。
「俺も行くよ。ナイフの模擬戦、付き合ってくれるか?」
アキは無言でその言葉に頷きを返すと、ほんの僅か微笑を浮かべる。
久しぶりの模擬戦訓練。俺は目の前で軽やかに準備体操をしているアキを眺める。俺の視線に気づいたのか、アキは動きを止めて、準備は?、と呟く。グラウンドには幾分雪が残っていて、足を滑らせてしまうほどではないが、それでも若干動きを止める効果はありそうだ。スピードで相手を圧倒するタイプのアキと戦うことを考えると、俺に有利と言えなくもない。
「ああ。始めるか」
俺がそう答えると、アキは軽く頷きだけを返して、ラバーナイフをまっすぐに俺に向けた。俺も構えを取り、背後から、樹の枝に積もった雪が落ちる僅かな音がするのと同時に、まっすぐアキの横腹にナイフを走らせる。腹を狙うフェイントから手首の角度を変え、すれ違いざまに相手の首までナイフを跳ね上げるつもりだった。
アキの真横まで一気に距離を詰め、ナイフを跳ね上げようとすると、アキは俺の視界から文字通り消えていた。姿を見失い、一瞬狼狽したその隙に、俺の首にラバーナイフの鈍い感触が走る。背後だ。手首の角度を変えるあの一瞬で回りこまれたのか。もしそうだとしたら、今のアキのスピードは俺の想像を幾分越えている。
「一本取られた」
俺がそう呟いて振り返ると、アキはラバーナイフを俺の首から外し、読んでいた、と若干得意げに呟く。
「視線。相手を狙う前に視線が目立ちすぎている」
なるほどと思う。俺がどう攻めるかを読んで、後の先を取ったということだろう。スピードを活かして、相手の動きの裏をつくというのは、もともとアキの得意な分野でもあった。
「でも、動きが早くなってないか、お前。この雪だ、少しは足を取られるかと……」
俺の言葉を遮るように、アキは軽く右足を上げ、履いている靴を指さす。軍の制式ブーツではない、真新しいブーツ。俺の履いている制式ブーツよりも幾分薄い皮と、その割には若干厚めの靴底で構成されているそのブーツは、確かに動きやすそうなシロモノではあった。靴底には滑り止めの複雑な溝が掘られており、接地する部分には一部金属が用いられているようだった。その割に足音がしないことを考えると、踏み込みや、踏ん張りが必要なときにのみそれらが接地するように工夫されているのかもしれない。いずれにしろ、制式品よりも数段グレードが高いものであるのは確かだった。
「買ったのか、それ。高かったろ」
俺がそう訊ねると、アキは、高くはなかった、と呟く。
「大尉の奢りだから。この間の掃除の謝礼」
女の子に贈るには幾分頑丈かつ実用的すぎる贈り物だが、アキはずいぶん嬉しそうではある。俺を訓練に誘ったのも、ブーツの効果を試したかったからなのかもしれなかった。
「へえ。よかったじゃないか」
俺はそう答えて、改めてアキのブーツに視線を移す。贈り物がアクセサリーや洋服ではないあたり、大尉とアキの関係をよくよく象徴しているように思えて、少し可笑しくなる。
「ずっと、欲しかった」
アキはそう言って、ブーツに付いた雪を払う。
「どうだった。予想通りだったか?」
俺の問いに、アキは、まあまあ、と若干照れくさそうな笑みを浮かべて呟く。いつもの無表情とは違い、今日は結構表情が動く。ああ言いつつも、内心相当嬉しがっているのかもしれない。
「相手の足元にも注意を払っておかなきゃな。てっきり今日は俺が有利だと思っててさ」
雪の塊を指さすと、アキは、ああ、と呟いて、ブーツで軽く雪の塊を払った。
「動きが取られる、と?」
「そう。スピードが若干でも殺されるなら、力押しで行けるかって」
「甘い」
得意げに俺を上目遣いで軽く睨むと、アキはそう言って再びナイフを構える。今日も結局俺の負け越しで終わりそうな雰囲気だった。
訓練を終え、部屋に向かう廊下を歩きながら、アキがふと足を止める。アキの視線は基地のゲートに向けられていて、そこには一台のジープが停車されていた。大尉だろう。数秒間の後、再び歩き出したアキは、小さくため息をついて、あともう少し、と呟く。
「ボスト行きの話か?」
俺の言葉に頷きを返すと、アキは、調子はいい、と自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「だな。随分動きも良いみたいだし。今日だって結局一本しか取れなかったからな」
散々だった訓練の結果を思い出しながら、俺がそう答えるとアキは再び歩みを止めて振り返る。
「カイルは、どう?」
「狙撃のほうは順調だ。あと、身体の調子も悪くない。アキから見たらどうだ?」
僅かに考えた後に、アキは、動きはよかった、と答えた。
「悪くはない。前と比べると動きも無駄がない。でも……」
「でも?」
「視線が、少し目立つ。狙っている箇所に集中しすぎている気がする」
「……狙撃が本業だからな」
俺は少し間を置いて、そう答える。最近狙撃訓練を集中して行っていることも影響しているのだろうと思う。
「なるほど」
アキは納得したのかしていないのか、微かに頷いてそう答える。
「大尉が、今回のボスト行きが最後だと言っていた」
「大尉が?」
俺がそう呟くと、アキは、大尉が、ともう一度繰り返して、胸に固定されたナイフの鞘に指を触れさせながら僅かに表情を曇らせた。
「少し、気が張りすぎているような気がする。大尉も……あなたも」
言われてみれば、そういう気がしなくもない。大尉は毎日参謀府に出かけては夕方過ぎに疲れ果てた様子で帰ってくるのが日課になっていたし、俺は俺で一日の大半の時間を狙撃訓練に充てていた。毎日寝る前に、訓練でスコープに当て過ぎた右目の縁が微かに傷んだりすることに気付くのも、随分久しぶりのことではあった。こんなに狙撃に集中するのは、狙撃兵基礎訓練過程以来のことだと思う。
「わかっちゃうんだな。アキには」
俺が感心してそう呟くと、アキは、わかりやすい、と呆れたように首を振った。
「少し、気をつけるようにするよ。ボスト行きの前に調子悪くしたら何にもならないからな」
俺の答えに満足したのか、アキは頷きを返して、再び部屋に向かって歩き出す。
部屋に帰ると、皆が揃っていてそれぞれ思い思いの格好で残務処理を行っている。やがて、曹長、グリアム、ルパードが軽く挨拶をして部屋から去り、残務処理が終わった俺も、荷物をまとめて立ち上がった。時計に視線を移すと、ちょうど十九時。帰るにはちょうどいい時間だった。
「では、お先に失礼します」
俺がそう言うと、アキと大尉が顔を上げてほとんど同時に、おつかれさま、と短く答えた。
廊下を抜け、階段を降りる。階段の踊り場には、壁に設けられたはめ殺しの窓からの黄色がかった外灯の明かりが差し込んでおり、むき出しのコンクリートの壁がその色に染まる様は、どうみてもなんらかの不幸を象徴しているようにしか思えない。
「やるしか、ないんだ」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、僅かに胃が痛むような気がした。