廃都編 35章
ルパードの筋トレ、グリアムとアキの近接戦闘訓練。もろもろ併せて二時間近くを付き合わされた俺は、明日の筋肉痛を予測しながら帰路についていた。雪は止んでいたが、寒さはより一層強くなっているようで、ジープの貧弱な暖房ではカバーできないレベルに達しつつある。
家に到着すると、玄関の明かりが落とされたままになっていて、俺は僅かな違和感を感じる。電球でも切れているのだろうか。小さな不安を抱えて玄関を開け、明かりの付いている居間に向かうと、母さんがなにやら忙しそうに歩きまわっていた。俺の姿を認めると、母さんは水の入った洗面器やタオルなどをテーブルの上に並べながら、ご飯は少し待ってね、と呟く。
「ちょっと母さん大変なのよ。リーフちゃんが熱をだしてね、あんたもあとでリーフちゃんの様子を見てきてくれないかしら」
「熱?」
俺は驚きを隠せずにそう聞き返す。
「あんたが出勤したあとしばらくしてから、倒れちゃってね。なかなか熱が下がらないのよ」
「医者は? 薬とかちゃんと飲んでるのか?」
俺は思わず母さんに詰め寄っていた。母さんは俺をなだめるように無理やり椅子に座らせ、おちつきなさい、と呟く。
「ちゃんと診てもらって、薬も飲ませてるから。そんなに慌てないの」
「慌てないっていってもさ……」
言い返す俺を母さんは、落ち着きなさいっていってるでしょ、と制した。
「あんたがあんまり慌てると、リーフちゃんも気にするでしょ? とりあえずご飯を食べて落ち着きなさい。で、落ち着いたら、これをリーフちゃんの部屋に持って行って」
母さんはそう言ってテーブルの上の洗面器やタオルを指差す。
「薬は夜にもう一度飲まなきゃいけないから、そっちの水差しも忘れずにね」
「わかった。とりあえず急いで食べる」
そう答えた俺に、母さんが呆れた様子でため息をつく。
かきこむように夕食を取り、俺は洗面器やタオルを持ってリーフの部屋に向かう。二階の暗い廊下を抜けて、ドアをノックすると、部屋の中からかろうじて聞き取れるほどのか細い声で、返事が聞こえた。ドアを開けると、俺の部屋にあったストーブが運ばれていて、ずいぶんと温かい。机の上の小さな照明の明かりに、薄く照らされたベットの上でリーフが横になっているのが見えた。
「ええっと、洗面器とタオル、持ってきた。あと、薬な」
リーフは熱がまだ下がっていないのか、少し頬が赤い。それなのに、俺の方を見るとリーフはゆっくりと起き上がろうとする。
「起きなくていい。無理するな」
俺はそう言って、ベッドの横の洗面器を除け、新しい洗面器を置く。
「……ごめんね。ちょっと、体壊しちゃった」
申し訳なさそうにリーフがそう呟いた。そして、ベッドの中から右手を伸ばし、俺の手にそっと触れさせる。
「まだ、熱があるみたいだな。ずいぶん熱いぞ」
俺はリーフの手のひらを軽く握り返す。
「……あのね」
「ん?」
リーフの額に乗せられていた濡れたタオルを洗面器に移しながら、リーフに視線を向けると、熱で辛いのか、すこしうつろな表情のままリーフが口を開いた。
「夢、見てた」
「嫌な夢だったのか?」
「うん」
なんだか泣き出しそうな表情で、リーフがそう答える。
「……病気だからだよ。ほら、薬飲まなきゃ」
俺が水差しと薬を差し出すと、リーフはゆっくりとそれを受け取り、喉が痛むのか幾分つらそうに薬を飲みこんだ。
「ボストにいるときの夢だった。夜で、サイレンが鳴ってて……」
俺は洗面器から新しい濡れタオルを取り出し、きつく絞って、リーフの額に乗せる。熱にどれだけ効果があるのか疑問だが、多少の気休めにはなるだろう。
「でね、家のドアがどんどんって叩かれるの」
まるで小さな子供のようにリーフは呟くと、俺の手を再び握って、怖かった、と囁いた。
「そうか。でも、ほら、ここは安心だから。……ちゃんと寝るまでそばにいるからさ」
俺がそう言うと、ありがとう、と小さな声で返事が聞こえる。弱々しげな笑顔。汗ばんだ頬と額をタオルで軽く拭ってやると、なんだかほっとした表情でリーフは目を閉じた。
「……まだ、寝てないから、もう少し、そばにいてね?」
目をつぶったまま、リーフがそんなことを言う。
「わかってる。手のひら、握ったまんまだしな」
俺がそう答えると、リーフは握ったままの手のひらにわずかに力を込めた。
「ボストにいる時にね。よくこうしてディルの手を握ってたの。怖がってたのは、ディルの方だったけど」
「昔、言ってたよな。ボストの夜のこと」
昔、リーフから聞かされた話を俺は思い出す。クライドの居住区、そしてその中のスラムに逃げこんでくる犯罪者のこと。ブルームと首都、そして国境での生活しか知らない俺にはその恐ろしさがうまく想像できない。幼い頃からそういう環境にさらされていたリーフにとっては、夜というのは不安と恐怖の代名詞であったに違いなかった。
「こういうふうに熱を出しちゃった時とか、ラシュディさんがよく果物を買ってきてくれてね。冷たくて酸っぱい果物……あれ、なんていうんだろう。オレンジみたいだけど、オレンジみたいに大きくないの。皮も薄くて……」
「オレンジとはだいぶ違う感じか?」
俺がそう尋ねると、リーフはこくりと頷く。
「近所の東洋人の人から買ってきてたみたい。あのね、手のひらにちょうど収まるくらいなの。皮は手でむけるくらい柔らかくて……」
「それ、食べたいのか?」
リーフは閉じたままだった目を明けて、俺の方を見ると、ううん、と答えた。
「思い出しちゃっただけ」
「そっか」
俺はまた汗ばみ始めたリーフの頬と額を拭う。薬があまりよく効いていないのかもしれない。
「頭とか、痛くないか?」
「うん。まだ少し……。喉はちょっと痛むかな」
少し、とか、ちょっとという表現は無理をしがちなリーフの場合は無視して考えたほうが良さそうだった。何かにつけて大げさなうちの大尉だったりすれば、二割から三割引で解釈するところだけれど。
「明日になっても続くようだったら、また先生に来てもらおうな?」
リーフはベッドの横に腰掛けている俺の背中にそっと頬を寄せると、小さな声で、ごめんね、と呟く。
何時間くらいそうしていたのか、気付かないうちに俺はそのまま眠っていたようだった。母さんがかけてくれたのか、厚めの毛布に俺はくるまっていて、リーフはベットの横に座っていた俺の背中にしがみつくようにして眠っていた。リーフを起こさないようにそっと立ち上がると、妙な姿勢で寝ていたせいか、背中や腰が軋むように痛んだ。背伸びをした拍子に床がわずかに軋む音が響いて、その音で目が覚めたのか、リーフがうっすらと目を開けて俺を見上げた。
「ごめん。起こしちゃったな」
俺がそう言うと、リーフは、いいよ、と答えた。先刻まで赤みがかっていた頬はずいぶん白さを取り戻しているようだった。
「怖い夢、もう見なかったか?」
「うん。……カイルがいてくれたからだよ、多分」
そう答えたリーフの笑顔が、思ったよりも元気に見えて、俺は安心する。明日はもう先生を呼ばなくても良さそうに見えた。
翌朝、あまり良く眠れたとは言いがたい雰囲気を漂わせて居間に現れた俺に、母さんが朝食替わりのパンを持ってくる。焼き立ての温かいパンをかじると、バターと小麦の香ばしい香りが口の中に広がっていく。
「リーフちゃん、だいぶ良くなったみたいね。誰かさんがずっと一緒にいたせいかしら」
首都に納品するパンの箱を積みながら、からかうように母さんが言った。
「関係ないだろ。薬が効いただけだよ」
照れくささをごまかすようにぶっきらぼうにそう答えると、母さんが急に真面目な顔になって俺を見据えた。
「あなたねえ。本当にリーフちゃんを逃がさないようにしなさいよ。あんないい子なかなか捕まらないんだから」
また妙なことを言い出すものだ。朝っぱらから息子を動揺させてなんの得があるのだろう。
「捕まえるとか、逃がさないようにとか、リーフはペットじゃないんだから」
「まあ、大事にはしてるみたいだから、母さんあまり心配はしてないけれどね」
男でも手こずりそうな大量のパンの詰まった箱を持ち上げながら、母さんはそう続けた。
「そういえば、リーフちゃんのお父さんの具合はどうなの? ちゃんと確認して、リーフちゃんに伝えてあげないとだめよ?」
突然そんな話を出されて、俺はリーフを連れてきたときの嘘話のディテールを急いで思い出そうとする。そうだ。確か病気の父親が俺の上官で、とかそんな話だったはずだ。
「だ、だいぶ良いみたいだよ。具合は。でも、まだまだ軍務に戻るには長くかかりそうだって言ってた、かな? 大尉が」
若干しどろもどろで俺がそう答えると、その様子を眺めていた母さんは、呆れ顔でため息をつく。
「確認してきなさい。リーフちゃん、言葉には出さないけれどきっと心配してるわよ」
言われてみれば、その通りだ。今日、大尉に会ったらエイジアに行ったラシュディさんとディルの近況を確認するべきだろう。
「大尉に聞いとくよ。俺も気になるからさ」
俺がそう答えると、本当に気が利かない子だねえ、と母さんが呟いた。反論のしようがない。まったく、親というのはよくよく子供を見ているものだと思う。本当の所は嘘話なんてとっくの昔にばれているのかもしれなかった。