国境編 9章
食堂までの道のりを、俺たちはなんのかんのと雑談をしながら歩いた。主に質問をするのがディルで、俺やアキがそれに答え、リーフが感想を付け足すと言った感じだ。リーフは最初に会ったときの尖った印象が、もう、殆ど残っていない。アキに借りたセルーラの軍服と制帽をかぶって、手をつないだディルを優しげな眼差しで眺めている。
「アキは、どうして軍隊に入ったの?」ディルがそう聞いた。
「……向いてると思ったから」アキはしばらく考えた後にディルの方を見て、そう答える。こいつの無表情は会ったときから相変わらずだが、ディルと話すときや、食堂で一緒に飯を食っているときは、無表情なりにではあるが、時折、なにか優しげな目つきにななることがある。その眼差しを見る頻度が、ここ数日確実に増えてきている。いまディルに向けている眼差しもそうだ。
「女の子で、軍隊についていけるって凄いね」リーフが感心したように言う。
「俺より、強いんだぞ。アキは」俺はディルに言う。
「そうなの?凄いね。アキは」ディルがアキを見上げて、目を丸くする。
「……ナイフだけ」アキは少し照れたような仕草で目をそらす。
「腕とか私より細いのに。筋肉の力だけじゃないんだね」リーフがそう呟いている。
「リズム。力に頼っても限度がある」アキは目をそらしたまま、リーフの呟く疑問に答える。
「俺も、言われたな。最初にアキに負けたときに」俺は頭の後ろで手を組んで、アキに言う。
「今のカイルの動きは、リズムに逆らってない。滑らかになってきていると思う」アキは俺に目を合わさずに、そう答える。確かにそうだ。グリアムや、ルパードには殆どの勝負で勝てるようになった。相変わらず、アキやラルフ曹長には負けっぱなしだが。
「アキさん、ひょっとして踊りとか得意だった?」リーフが何気なしにそう口にする。俺は、昔聞いたセルーラ剣舞の話を思い出す。一人では出来ない、セルーラ伝統の剣舞。もう一度舞いたいと思う事が、アキにもあるのだろうか。ふと、そんな考えが俺の頭をよぎる。
「昔。少しだけ」アキは優しげな眼差しを崩さずに、言葉少なに答える。
「見たい。アキの踊り」ディルがそう言って、つないでるリーフの手をほどいて、アキの脚に抱きつく。アキはディルの頭を小さな白い手で撫でる。
「夜じゃないと、駄目」とアキは言う。ひょっとして、夜なら踊ってもいいって事なのだろうか。もし本当に踊ってくれるなら、俺もぜひ見てみたい。
「私たちの部屋とかでも、踊れるの?」その様子を眺めながら、リーフが楽しげに口にする。
「十分」アキはそう呟く。
「じゃあ、今日。僕たちの部屋で見せてよ。音楽とかいるの?」ディルはおもちゃを買ってもらったばかりの子どものような目でアキを見ている。ひょっとしたら、俺もそんな目つきになっていたかもしれない。
「……就寝時間前に少しだけなら。音楽はいらない」アキが少し迷ったような表情をした後、平坦な声でそう答える。
「俺も見たい。駄目か……な」俺がためらいがちにそう口にすると、
「かまわない」といつも通りの冷静な声が返ってくる。俺はセルーラ剣舞というものを一度も見た事がない。おそらくアキが踊るのも、片割れのいない踊りで、本式のものとは大分違うのだろうが、それでも、俺は、クリスマス直前の子どものころのような気持ちになっていた。リーフと、ディルもそんな感じだ。顔がぱっと明るくなっている。この二人はおそらくそんな踊りを見る事なんて殆どなかったのだろう。辛い暮らしから逃れて、初めて見ることのできる娯楽を、心底楽しみにしているように見えた。
食堂に現れた俺たちをみて、ビクセン軍曹はたいそう喜んだ。特にセルーラの軍装を身につけているリーフの器量の良さを本人を前にして照れる事なく絶賛し、こんな可愛い兵隊がいる部隊なら、もう一度前線に戻りたいとまで言った。
「いいなあ、カイル。お前、軍隊ってのは男の世界のはずなのに、毎日アキやリーフみたいな別嬪さんを連れてお食事か。そのうち闇討ちされるぞ。ほかの兵隊に」照れ隠しなのかどうなのか、リーフと、アキを見て、俺に視線を向けると、そうビクセン軍曹は言う。
「男の世界ですよ。うちの班も」俺はそう答える。ラルフ曹長主催のハードな訓練を受けてみればそれが解るだろうと思う。ほかの班の連中の話と比べてみても、どうみても三割増位はうちの班の訓練量は多そうだった。
「なあ、ディル。どう思う?カイルはいい思いしてるよな」俺のそんな考えをよそに、ビクセン軍曹は幼いディルにまでそんな事を聞いている。
「うん」ディルはためらいなくそう答える。少しは否定しろよ。と俺は思う。ふと、リーフと、アキの方を見ると、リーフがビクセン軍曹のあまりの絶賛に照れて頬を赤くしている横で、アキは相変わらずの冷静な無表情だ。でも、確かにビクセン軍曹の言う通り、町を歩いていれば、殆どの男が美人に分類するであろう二人であることは間違いない。特に、頬を赤らめているリーフは、ちょっと反則気味に可愛かった。なにに反則しているのかと聞かれると答えには困るのだが。
「闇討ちには気をつけますよ」俺はそう言って、いつも通りの空いたテーブルに四人分の席を確保する。早く来ておいてよかったと思う。ディルを連れてきたときも兵隊どもは大喜びだったが、リーフまでこれに加わると、多分、先日の比ではない騒ぎになるだろうと思われた。
「ほら、今日は俺の得意料理だ」ビクセン軍曹はいつもなら絶対にしないであろうが、驚いた事に四人分のトレイをウェイターのように器用に抱えて、俺たちのテーブルに並べていく。料理は、俺とアキが初めてここに来たときに食べた、地鶏の香辛料いためだった。これは今では俺の大好物だ。なんといってもビクセン軍曹の料理ではこれが断トツで一位だ。
「おいしそう」リーフがトレイを眺めて、ビクセン軍曹にそう言う。ビクセン軍曹はいままで見た事のないくらい思いっきり照れた表情になる。
「まあ、食ってみてくれよ」早口でビクセン軍曹が言う。
リーフは、ビクセン軍曹の料理を一口食べて絶賛した。確かに、絶賛に値する味ではあったが、その後のビクセン軍曹の行為は忘れがたいものになった。ビクセン軍曹は作り方を教えてやると言い出し、リーフと、そして、明らかにあまり料理というものに関心がなさそうなアキまでを厨房に連れて行ったからだ。俺も付き合い上、ディルをつれて、カウンター越しの広い厨房まで同行する。
「いいか。こいつの作り方ってのは、こつがあるんだ。ただ鳥を焼いて、香辛料をまぶせばいいってもんじゃねえ。まずな、強火で鳥肉の回りを焼いちまうんだ。ほれ、やってみろ」ビクセン軍曹は、二つの小さなフライパンに鶏肉をのせ、それぞれをアキとリーフに渡す。アキは冷静に、リーフは楽しげに、言われた通りに強火で鶏肉を焼いていく。
「でな、焦げ目が付いたくらいで、中火にする。最初強火で回りを焼いちまうとな、肉汁が逃げねえんだ。あとは中火で肉の中まで火を通す。そして仕上げで俺の作ったこの特製スパイスミックスを振りかけるって寸法だ。分量は気にすんな。これくらいって思う所でいい。そこが個性の出る所ってわけだ」なんともアバウトな指導ではあるが、リーフもアキも言われた通りに、これくらいと思ったポイントで香辛料をまぶしていく。
「で、最後に別に切っておいた野菜を混ぜて、ひと炒めする。おい、野菜もってこい。余ってんだろう」ビクセン軍曹が厨房の奥にいる部下に大声で命令する。たちまち、数人の兵隊が野菜の入ったボールを抱えて走ってくる。置かれたボールから、リーフとアキがそれぞれ一つかみずつ野菜を取り、フライパンに投入する。
「いいぞ。もうすぐ出来上がりだ。よし、皿に盛りつけていいぞ」しばらく二人のフライパンを真剣な表情で眺めていたビクセン軍曹がそう指示をすると、二人は言われた通りに皿に盛りつけていく。俺はこのとき、何気なしにカウンターの向こう側を眺めて、何十人もの兵隊がこちらを見物している姿を発見する。リーフを見て、なにやらぼーっとした目つきになっている奴も入れば、その料理は俺が買うぞと大声で叫んでいる奴もいる。確かに、俺もそう思う。見物する兵隊の数はどんどん増えていく。
「よし、完成だ。ディル、食べてみろ」ディルを抱きかかえるとビクセン軍曹がディルにフォークを持たせてそう言う。ディルは嬉しそうに二つの皿を眺めながら、まず、アキの作ったものを一口食べ、その後で、リーフが作ったものを食べる。
「どうだ。二つとも旨いだろう。俺の指導の賜物ってやつだ」ビクセン軍曹がそう聞くと、ディルはビクセン軍曹の得意げな顔を見上げて
「うん。二つともおいしい。でも味は違うよ。アキのは少しぴりっとして、姉ちゃんのはなんか少し甘い」と答える。その評価がなんだか、料理以外の部分にも及んでいる気がして、俺は思わず笑みを浮かべる。
「それが個性ってやつだ。化学の実験とは違うんだぞ料理ってのは。そういう違いがいいんだ」ビクセン軍曹はディルを下ろすと、そういいながら、ディルの頭を撫でている。
「ほれ、お前もぼーっと立ってないで食ってみろ」ビクセン軍曹が俺にフォークを渡す。俺は二つの皿をそれぞれ一口ずつ食べる。たしかにディルの評価の通り、アキの炒め物が香辛料のぴりっとした辛さでいい感じになっているのに対して、リーフの炒め物は鶏肉の自然な旨味が出ていてこれもまたいい感じがした。
「おいしい?」リーフが俺の顔を覗き込んでそう言った。ふと、顔を上げるとアキも俺の顔を結構真剣な感じで眺めている。
「ああ。でもディルの言った通りだよ。どっちも美味しいけど、なんかタイプが違う。面白いな、俺がつくったらどんな風になるのかな」
「お前は料理に向かん」ビクセン軍曹はそう断言すると大声で笑う。アキとリーフは余っているフォークを持って、それぞれの炒め物を食べ、互いに見つめ合うと、美味しいとほぼ同時に言った。
「でも、味は確かに違う」アキは冷静な口調で呟き、
「アキさんのはご飯に合いそう。私のは、すこし味が薄かったかなあ」とリーフが呟く。
その後、二人が作った炒め物は、ビクセン軍曹の発案で、急遽食堂で行われる事になったアームレスリング大会の優勝者に与えられる事になった。レフィリーをつとめる事になったディルが何やら叫び、兵隊どもがかなり真剣に白熱した争いをくりひろげ、最後に優勝した力自慢の兵隊に、アキと、リーフがそれぞれ皿を運ぶ。歓声が上がり、優勝した兵隊が皿を両手で高く掲げているのが見える。訓練で疲れているだろうに、またもや食堂でこんな騒ぎに興じるのだから、うちの部隊と言うのは、我が班も含めて、元気な奴らの多い所だと思う。よくよくその人の群れを眺めていると、いつもは食堂で一緒になった事のないグリアムやルパードや、なんとラルフ曹長の姿まで確認できて俺は驚く。クリス少尉が、士官用食堂ではなく、ここで食事をとっていたら間違いなく参加した事だろうなと俺は思う。優勝商品の授与が終わったアキとリーフは二人で並んで何やら会話しながら、俺がいつもの通りのグレープフルーツの皮むきにいそしんでいるテーブルに戻ってくる。
「凄く白熱してたな」俺が笑顔を浮かべて二人にそう言うと、リーフは笑い、アキは照れて目をそらす。ディルはリーフの脚にまとわりいて、俺を見る。もちろん興奮覚めやらない笑顔で。
「凄かったよ、あの兵隊さん。腕がものすごく太かった。ラルフ曹長、負けて相当悔しがってたよ」ディルはそう言って、興奮気味に話す。俺が、ラルフ曹長の姿を探して辺りを見回すと、テーブルを五つほど挟んだ向こう側で、軍曹、曹長仲間と一緒に、もっと鍛えないと駄目だなどといいながら、食事をとっているのが見えた。
「楽しかったか?」俺はディルを横に座らせて、皮を剥いてやったグレープフルーツを渡す。ディルはそれを口にしながら、
「楽しかったよ。凄いね兵隊さんたちは。筋肉がこんなだもん」と言って、両手を大きく広げる。アキとリーフはディルのそんな様子を眺めながら、料理も意外と楽しかったねなどと、二人で会話している。この二人も意外と相性がいいのかもしれない。リーフが積極的に話しかけて、アキがそれに冷静、かつ、的確な返答をするという感じではあるが。
俺たちは、みんなで仲良くデザート代わりのグレープフルーツを食べ、翌朝のジュース分のグレープフルーツまで確保すると、ビクセン軍曹や、ルパード、グリアムに軽く挨拶をして、食堂を出る。外はもう暗くなっていて、あまり光源の無い国境地帯特有の澄み切った星空が見える。ディルは食堂に来たときとは違い、帰り道ではアキに手をつないでくれとせがみ、アキはディルの小さな手と自分の白い手をつなぐと、俺とリーフの三歩先位を、ディルの歩くペースに合わせて歩いていく。踊りが楽しみだというディルと、久しぶりだからあんまり期待しないでというアキの会話が聞こえてくる。
「疲れなかったか?」俺は隣を歩くリーフに聞く。リーフは柔らかな笑みを浮かべて俺を見る。
「全然。楽しかったよ。私、久しぶりに料理したなあ。ビクセン軍曹って面白い人だね」
「だろ。すごく喜んでたな。教えがいがあったんだろうな、リーフとアキには」俺は目の前を歩いているアキを眺める。あいつも楽しかったんだろうなと思いながら。
「一番美味しかったのは、やっぱりビクセン軍曹の炒め物だったね」リーフは両手を伸ばして、背伸びをしながらそう感想を言う。確かにそれはその通りだった。アキや、リーフの料理もおいしかったのだが、やはり経験がものを言うのか、ビクセン軍曹の炒め物はそれを上回っていた。
「あの人はそれが専門だからな。でも、ビクセン軍曹は、セルーラ陸軍の中でもトップの糧食班長だと思うぜ。俺が前いた首都の警備隊なんてひどかったからな。まともに料理してるはずなのに、なんかインスタントみたいな味がするんだよ」俺がそう言うと、リーフはおかしそうに笑う。
「セルーラはいいな。私、セルーラに来てよかった」リーフは真面目な表情になってそんな事を言う。俺は、なんと答えたものかしばらく逡巡して、結局気の利いた答えが浮かばず、俺の方を見ているリーフに、笑みだけを返す。
「亡命、受け入れてくれるかな」リーフは不安げな表情で俯いて、そう呟く。俺は、その様子を見ながら、昨日の、泣きじゃくるリーフの姿を思いだす。
「大丈夫だよ」俺はクリス少尉の話を思い出しながらそう答える。
「そうかな」リーフは少し明るい表情になって俺を見る。俺はリーフの目を見て、もう一度、
「大丈夫」と答える。
「ボストではね、私もディルも殆ど笑えなかった」リーフが前を向いて、ディルの楽しそうな姿を眺める。
「外に出ても、家の中にいても。いつもおなかが空いてたし。病気になっても、病院にも行けないし。私も、ディルも親がいないでしょう?みんな病気で死んだの。ときどき、クライドとカエタナの居住区は悪い病気がはやってたから」リーフがディルから目をそらすと、また俺の方に視線を戻す。
「ラシュディおじさんみたいに、才能がある人が保護者だったから、それでも私たちはまだましなほうだった」
「ラシュディさんって、国立研究所にいたんだろ。頭良さそうだもんな」
「私や、ディルは全然だめだけど」リーフはそう言って笑う。それを言うなら、俺も同じだと思うと、俺も笑みがこみ上げてくる。
「ラシュディさんは機械に詳しいの。電子レンジでも、冷蔵庫でも、なんでも自分で修理してた。ラフィルっていう階級があって、かなり上のほうの階級なんだけど、その階級の人がわざわざ壊れたパソコンの修理を頼みにきたりしてた」
「俺も機械は好きだけど、どっちかっていうと、銃とかそんなもんだもんな。パソコンなんて全然だめだ」
「私も」確かにリーフはパソコンとか機械関係全般が苦手そうな感じがする。俺がそう言うと、リーフは少し頬を膨らませ、ラシュディさんの血を引いてるはずだからいずれは得意になるはずだと答える。俺はすこし意地を張るリーフと目の前を楽しげに歩いているディル、そしてディルと手をつないで正確な歩調ときれいな姿勢で歩いていくアキをそれぞれ眺めて、こんな風な日がずっと続くことを、なんだか穏やかな気持ちで願っていた。病気や、飢えに怯えずに、そして、銃やナイフで戦う事のない日が続く事を。