廃都編 31章
観光協会は、水路沿いの煉瓦作りのビルにある。三階建てのそのビルの一階は市民に開放されていて、俺も小さい頃、よくここで備え付けの小さな図書室なんかに通ったりしていた。
「陸軍参謀府付けのカイルと申しますが、ファーロング課長はいらっしゃいますか?」
受付のおばさんにそう言うと、おばさんはゆっくりとした動作で立ち上がり、受付の奥のドアを開け、やがて、初老の人当たりの良さそうな男を連れて戻ってきた。
「御待ちしていました。まあ、こちらにどうぞ」
ファーロング課長はそう言って俺とリーフを応接室に案内する。
「私も、三年前までは軍にいましてね。とはいってもあなた方のように参謀府なんかにいたわけでは無くて、事務仕事ばかりでしたが」
ファーロング課長はテーブルの上の紅茶を俺とリーフに勧めながら、そう切り出した。穏やかな笑顔から発される言葉には軍人というよりも学者や医者といった職業の方が似合いそうな知的な響きがあって、言われなければ元軍人にはとても見えない。
「まあ、クリス君からいろいろ頼まれ事も多くてね。なかなか軍とは縁が切れませんなあ」
苦笑いを浮かべながらそう言ったファーロング課長は、俺とリーフの顔を交互に見て、若いですなあ、と呟く。
「クリス君から聞いてはいましたが、いや、羨ましい限りだ」
「若いのが、ですか?」
俺がそう尋ねると、ファーロング課長は首を振る。
「それだけでは無いですな。例えば、あなたで言えば、可愛いお嬢さんと仕事している所、辺りですか」
リーフが恥ずかしそうに俯く。クリス大尉の知り合いというのは、程度は違えどこういう所がよく似ているような気がする。俺は咳払いを一つして、真面目な顔を作りファーロング課長を見る。
「大尉からは、元ファルト教団のリオと会って欲しいと指示を受けています」
俺の言葉にファーロング課長は深く頷く。
「あなた方もご存知の通り、私はこの街の軍の連中に少しばかり顔が利きましてね。例えば、あなたの実家周辺の秘匿警備等も、こちらで管轄しているのです」
ゆっくりと口を開いたファーロング課長はそう言って優しげな眼差しで俺とリーフを見た。
「で、リオの監視もされている、ということですか?」
ファーロング課長は微かに頷くと、紅茶のカップを手に取って、おいしそうにそれを一口飲んだ。
「そうですな。まあ、監視と言っても、やっている事はそちらのお嬢さんに対する警備と同じです」
「同じ、といいますと……」
「変な連中がうろうろしてないか、いればいかに速やかに排除するか、まあ、そんな所です」
「で、リオはどこに?」
俺がそう尋ねると、ファーロング課長は窓の向こうに見える水路を指差す。
「今日は、水路脇の遊歩道の清掃と点検に出ています。真面目な娘さんですな。あの娘は」
目を細めて、ファーロング課長がそう答えた。
「是非ね、あなた方があの娘の気晴らしになっていただければ、と思います。警備対象に精神的に不安定になられると、なかなか、こちらも苦労が増えるものですから」
「苦労、ですか……」
「そうです。落ち着いて毎日を過ごしていただくというのが、一番なのですよ。妙に不安定になられて、夜な夜な遊び歩き出したり、訳の分からない言動で目立つだけ目立たれたりしたらどうします? 警備する方はたまったもんじゃありません。そちらのお嬢さん、リーフさんと言いましたか、その方の警備は実に楽で良い」
「楽?」
俺の言葉にファーロング課長は、ええ、と相づちをうつ。
「いつも気を配ってくださるあなたのご両親もおられる。警備する方としては、これほど楽な方も珍しい。警戒していたボストの連中も近づいては来ませんし」
「……リオは違うと」
「リオも、真面目な娘です。妙な連中とつるんでいるわけでもありませんしね。ただ、警戒しなければならない対象がセルーラ人という所が、困りどころではあるのです。あの娘に接触してくる可能性があるのはファルト教団の残党ですが、見た目にはセルーラの一般国民な訳ですよ」
「確かに、そうですね」
「ボストの軍人などであれば、まあ、我々から見れば解ります。軍人というのはいかに身分を詐称した所で、どこか、一般人とは違いますからな」
「要は、リオが妙な事を起こそうとすれば、極めて補足しがたいと、そういうことですか?」
「その通りです。我々としては、監視だけではなく、あの娘の精神状態が安定するようにも気を配っているのです。妙な気を起こさせないようにする事が、結果として監視行動の成功にも結びつきます」
「……で、俺達に会ってこいと言う訳ですか」
「あなたはあの娘の恩人と聞いていますし、そちらのお嬢さんは年齢も境遇も似ている。私のようなロートルよりも、リオも心を開きやすいでしょうしね」
ファーロング課長はソファーから立ち上がって窓の向こうに広がる水路に目を向けていたが、しばらくの沈黙の後、もうすぐ帰ってきますから、と小さく呟いて俺たちを振り返ると、まるで孫を労る祖父の様な表情で、よろしくお願いします、と頭を下げた。
遊歩道に出て、リーフと二人でしばらく歩くと、道の向こうに、帚とゴミ袋を抱えて歩いてくるリオの姿が見えた。切り揃えられた黒い前髪が時折風で揺れて、穏やかな仕草でそれを押さえようとするリオは、前に首都で会った時に比べて一回りも二回りも小さくなった様に見える。黒いジーンズに観光協会のロゴが入ったパーカーを着ているその姿は、かつて、教祖として振る舞っていた頃の印象と酷くかけ離れていた。
俺の姿に気付いたのだろうか、リオは立ち止まって、しばらく俺とリーフの姿を眺めていたが、やがて、足を進めると、俺たちの前に立ち、お久しぶりです、と呟いて頭を下げた。
「元気にしてるのか?」
俺がそう尋ねると、頭を上げたリオは、はい、と小さな声で答える。見た目から受ける印象が変わっても、この透明感のある神秘的な声だけは少しも変わっていなかった。
「課長から聞いていました。今日、こちらに来られると」
観光協会の建物に戻る遊歩道を、俺たちと一緒に歩きながらリオはそう呟く。良い意味でいえば落ち着いている様子ではあるが、悪く見れば、少し精神的に落ち込んでいるように見えなくもない。なんとなくファーロング課長やクリス大尉が心配している理由も解るような気がした。
「ご無事でほっとしました」
そう呟いたリオが、安堵したような穏やかな笑みを俺に向けると、遊歩道に不意に雪まじりの強い風が吹いて、リーフが首にかけていたマフラーを舞い上げる。リオは数歩リーフに近づいて、飛んでいきそうになるリーフのマフラーを優しく押さえた。
「あの、私、リーフといいます」
緊張しているのか、固い口調でリーフはそう言った。リオは、どこか哀しげに見えるいつもの微笑みを浮かべて、リオといいます、と短く呟いて、寒くなりましたね、と水路に視線を移しながらリーフに問いかける。
「はい」
いきなり先生に当てられた生徒のような口調でリーフがそう答えると、リオは可笑しそうに微笑んで、喫茶店にでも入りましょうか、と呟く。
「ここは寒いもんな」
俺はリオにそう同意すると、このあたりの手頃な店を思い浮かべる。
観光協会ビルの一階にある小さな喫茶店に入ると、暖房で暖まった空気が心地よく身体を包んでいく。俺とリーフの向かい側に腰掛けたリオはホットミルクを口に含んで、ほっとしたような表情を浮かべると小さくため息をついた。
「……ええっと、この娘はリーフって言って、うちの実家で預かっている娘なんだ。実家はパン屋をやってて、その店も手伝ってもらってる」
「そうでしたか」
リオは優しく笑顔を浮かべ、リーフに向き直ると、はじめまして、と丁寧に挨拶をする。リーフはまだ緊張しているのか、仕掛人形のようなぎこちない仕草で頭を下げた。
「あ、あの、こちらこそ……」
「緊張しなくて、いいのですよ」
幾分楽しげにリオは笑みを浮かべると、リーフにそう言って穏やかに笑いかける。
少し、驚きではあったのだが、リオはなかなか聞き上手なようで、リーフにパンの作り方や、ブルームの話をそれとなく振っては、リーフの話の合間合間で、優しげな相づちをうつ。リーフは大分緊張が解けたようで楽しげな笑顔を浮かべながら、途切れ途切れではあるが、パン屋の話や、ブルームの話を続けている。会話を続けている二人を見ていると、なんだか仲の良い姉妹のようにも見えなくもなかった。
「まだ、解らない所も多くて……。ブルームには」
リーフにブルームの街のいろいろな話を聞きながら、リオがそう呟く。
「休みの日とか、リーフに案内してもらったらいいよ」
俺がそう言うと、リオは、長い睫毛をほんの少し伏せて、リーフに、いいのですか、と問いかける。
「はい。是非。水神宮とか、うちのお店とか……」
「だな。父さんと母さんにも話しとくよ。車、出してもらった方が良さそうだし」
俺たちの返答を聞いたリオは嬉しそうに目を細めて、ありがとう、と呟いた。昔、首都で会った頃には想像もしていなかったけれど、リオはこうして話していると、多少影はあるにしろ、普通の若い女の子にしか見えなかった。リーフも、リオも、この街で、普通の娘の様に、穏やかな日々を過ごしてくれれば、と俺は思う。
そろそろ仕事があるので、というリオの言葉で、俺たちは席を立ち、自分が払うと言い張るリオを押さえて、俺が勘定を払った。
「給料、使う暇ないからさ。俺は」
そう言って笑いかけると、リオは、先に店の外に出たリーフを眺めながら、小さな声で、夢に干渉した時のことを覚えていますか? と俺に問いかける。
「……あれ、やっぱりリオだったんだな」
「はい」
「気をつけるようにしてる。ちゃんと」
「そうしてください。……リーフさんの為にも」
何かを強く願うような、それでいて切なげにも見える表情でリオはそう言った。伏せられた長い睫毛が心なしか潤んでいるようにも見えて、俺は少し焦りを感じる。
「リオも気をつけろよ。まあ、多分、おかしな奴は来ないとは思うけどさ」
「ロイも、時々連絡をくれます。私は、大丈夫です」
しっかりとした口調でリオはそう答えて、笑顔を浮かべる。
「ロイ、かあ。まだ、警察にいるのか? 公安だったっけ」
「一応、いるみたいです。教団が無くなってからは、毎日暇だって言ってましたよ」
公安警察が一般人に暇だとか伝えるのはどうかとも思うが、あんな事件の後だ。ひょっとすると閑職に飛ばされているのかもしれない。
「うちの親とか、リーフにも話しとくから、ブルームでなんか解んない事とかあったら、遠慮なく言ってくれていい。俺も時間ある時は、こっちに顔出すから」
喫茶店のガラス戸を開けながら俺がそう言うと、リオは無言で頷いて、小さく頭を下げた。