廃都編 30章
時計の針はとうの昔に日付を超えて、俺の傍らで毛布にくるまっているリーフも、時折、眠たげに目を擦り始めていた。いい加減寝ないと、明日に差し支えるだろう。
「もう、寝るから」
俺がそう呟いて立ち上がると、リーフも無言のまま立ち上がって、くるまっていた毛布を丁寧に畳んだ。
「明日は、父さんと母さんは何時頃帰ってくるんだろう?」
「……お昼っていってたよ」
俺のパジャマの袖をそっとつまんだリーフがそう答える。時折目をしばたたかせながら、俺の視線に気付くと、リーフは優しげな笑顔を浮かべた。袖をつまんだままの指にほんの少しの力がこもるのが解る。
「……あのさ」
そう呟くと、リーフが小首をかしげて俺の顔を見上げた。
「ちょっときついとは思うんだけど、明日は早めに起こしてくれないか?」
「いいけど、どうして?」
「……水神宮とかさ、街とか、ちょっと歩きたいんだ。あの、できれば、リーフも一緒に」
「うん」
嬉しそうな微笑みを浮かべたリーフは、微かに頷いて、俺の腕にそっと自分の腕を絡ませる。
「一緒にお参りしに行こう。どうせ三時過ぎまでは時間があるし、その後は昼ご飯でも食べてさ」
早口でそう続ける俺の言葉に同意するように、リーフは静かに頷いて、晴れたらいいね、と小さく呟いた。
屋根裏部屋まで向かう中庭の小さな敷石を歩いていると、月明かりの中を白い、小さな雪が舞い始めているのが解った。立ち止まって空を見上げると、真っ白な雪の粒が降ってくるのが見える。まるで、星が降ってきているみたいだと俺は思う。
気付くと、母屋の勝手口のドアが少しだけ開いて、リーフが俺の方を見ていた。雪が降り始めた事に気付いたのだろう、寒そうに身体を縮めながらリーフは空を見上げている。
「雪、降ってきたな」
振り向いて、そう声をかけると、リーフが勝手口の戸を閉めて、俺の立っている敷石の所まで歩いてくる。羽織ったカーディガンを風で飛ばされないように両手で押さえながら、リーフは俺の前に立つと、また空を見上げた。紺色のカーディガンと、銀色の髪に白い雪が少しずつ積もっていく。
「積もるかな?」
リーフの呟きに俺は頷きを返す。多分、明日は一面の雪景色になっているだろう。
翌朝、リーフに起こされた俺は、軍服に着替えて、冬用のコートを羽織る。その様子を遠目に見ていたリーフは、俺の横まで歩いてきて、コートの袖をつまむ。
「私は何を着ていこうかな……」
リーフはそう言いながら、俺の顔を見上げた。
突然、けたたましくコートの内ポケットに入れていた軍用携帯電話が鳴り響く。リーフが少し驚いて俺から身を離し、俺が電話に出ると心配そうに俺の顔を覗き込む。
「はい」
『カイルか?』
「カイルです。大尉ですか?」
『お前の上官のクリスだよ。声でわかるだろ、声で』
呆れたような響きが受話器の向こうから伝わってくる。
『あのさ、今日、六時からって言ってたろ』
「そう聞いてます」
『で、お前今日はどうせリーフちゃんと出発まで遊んでるだろ?』
「……悪いですか」
しばらく沈黙した後、半ば開き直って俺はそう答えた。どうせ何を言っても一度はからかうつもりだったのだろう。
『別に遊んでて良いんだけど、ちょっと行って来て欲しい所があるんだよ』
「ブルームで、ですか?」
『ああ。二人で行ってきていい。そこに行けば解ると思うんだけど、一人、軍の監視対象がいる』
「監視対象?」
また物騒な事を言いだしたものだと思う。監視というからには、なんらかの危惧を軍がそいつに抱いているという事だ。そんな奴がいる所にリーフを連れて行く気にはなれない。
『べつに危険な奴じゃない。お前も良く知ってる奴だ。リオだよ、リオ。覚えてるだろ』
何だかずいぶんと懐かしい名前のような気がした。首都でテロを起こそうとしたファルト教団の教祖。そういえば、うちのパン屋で働かせろとか言われたな、と俺は思い出す。
『お前が嫌そうだったから、リオにはブルームの観光協会で働いてもらってるんだ』
忙しい中、そんな事にまで気を配っていたのかと少し感心する。
「別に嫌がってはないですよ」
『まあ、いいんだけどさ。で、観光協会にちょっと寄って来て欲しいんだよ。一応報告は上がってきてて、行動には問題ないってことは解ってるんだ。ただ、さ、報告だけじゃ解んない事もあるだろ?』
「ですね」
『観光協会のファーロングさんっていう課長に話してくれれば、会えるようにしてある。とりあえず近況でも聞いてきてくれ。あと、リーフには本当の事を話してもらっても構わない。ただ、口止めはしておいてくれよ』
「そう言ってもらえると助かります」
心配そうに俺を眺めているリーフに視線を向けて、俺はそう答える。
『気が合うようだったら、リーフとリオとで友達にでもなってくれると助かるんだけどな。知り合いも友達も居ないような環境ってのは精神的にあんまり良いもんじゃない。そんなことはないとは思うけど、リオが妙な気でも起こしたらまた厄介な事になるしね』
「……ただ、確答はできませんよ? 危なそうだったら、リーフには会わせません」
『その辺の判断は任せる』
「了解しました。では、観光協会に行って、リオに会ってくればいい、とそう言う命令ですね」
『そう。飲み込みが早い部下で助かるよ』
おちゃらけた口調で大尉がそう言った。今日の夕方には結構なお偉方と会うというのに随分なリラックスぶりだと思う。
「そういえば、大尉、アキは大丈夫でしたか?」
昨日の晩の、具合が悪そうなアキの様子を思い出して俺がそう聞くと、何故か受話器の向こうに妙な沈黙が走る。
『……あー、ええっと、まあ大丈夫、かな』
「なんか、歯切れ悪いですね」
『……俺から見たら具合悪そうにしか見えないけど、本人は言い張ってる。大丈夫だとさ』
その様子が目に浮かぶような気がして、少し心配になった。
「ちゃんと休ませといてくださいよ? それは大尉の仕事です」
『わかってるんだけど……今日もあいつ朝っぱらから訓練に出ようとしててさ。まあ、足取りとかは大丈夫そうなんだけど、何て言うのかな、雰囲気っていうかさ、少し思い詰めてるような感じがするんだよな』
大尉の言う通りだと俺も思う。
「大尉も今日は夕方まで休まれたらどうですか?」
『休もうと思えば休めない事もないけどなあ。どうしようかねえ』
「俺も大尉のご想像通りリーフと遊んでますので、大尉もアキとゆっくり遊んできたら良いですよ」
受話器の向こうに再び沈黙が走る。
『……なんか、微妙な感じだな。大体、あいつと何して遊ぶんだよ。ナイフで格闘戦か?』
「首都でもぶらついたらいいですよ。それが一番効果的です。言っときますけど、大尉が仕事してたら、絶対あいつは一人で休みませんよ?」
『何て言って誘うんだよ。そもそも』
「視察、とか、情勢調査、とか何でも良いでしょう。遊びにいこうって言いづらいのなら」
『そっか、仕事のふりして休ませればいいんだよな』
「そうですよ。適当に監視対象をでっち上げて、喫茶店とか、公園でぼーっとしてたら良いですよ」
『……意見具申、ありがたく採用させてもらうよ。でも、あいつ勘が鋭いからなあ』
「そこは、大尉の腕次第ですね」
俺がそう断言すると、大尉は、ため息を一つついて、まあいいや、と呟いて電話を切った。
白いコートを羽織ったリーフを連れて外に出ると、昨晩予想していた通り辺り一面が真っ白な雪景色だった。リーフが嬉しそうに道路に駆け出して、十センチ程積もった雪を手ですくうと、俺に向かってそれを見せる。
「すごいね、真っ白だよ」
「だな。こんな積もるとは思わなかった」
リーフの手のひらに乗った真っ白な雪を眺めながら、俺はそう答えた。空を見上げると、灰色の厚い雲が見えて、その隙間から幾つもの雪の結晶が降り続いていた。
「……さっきの電話、何だったの?」
しばらく歩いた後、リーフが俺の手に触れて、そう聞いた。聞かれるだろうとは思っていたので、特に焦りはしない。観光協会に着くまでに説明しておいた方が良いだろう。
「観光協会に、昔、俺と大尉が助けた娘さんがいるんだ」
「助けたって、カイルが?」
「まあ、その娘がリーダーだった宗教があってさ。下の奴が突っ走っていろいろ物騒な事をやろうとしてて、まあ、それを止めたってとこかな」
リーフが感心したような表情で俺を見上げて立ち止まる。
「で、その娘が、ブルームの観光協会にいるんだよ。首都にいると危ないし、また、その娘を利用しようとする奴も出るかもしれないだろ? だから、身分を隠して働いてる。で、軍の監視とか護衛がついてる」
「……なんだか、私に似てるね」
リーフが再び歩き出して、空を見上げながらそう呟く。確かに、境遇的には似ているかもしれない。
「会ってみて、気が合うみたいだったら、友達になって欲しいってさ。大尉が」
「……友達?」
「ああ。気があったら、で良いんだ。無理強いはしない」
俺がそう言うと、リーフは、友達かあ、となんだか嬉しそうに呟く。
「あと、これ口止めな。父さんとか母さんにも黙っててほしい」
「うん。解った」
なんだか、真剣な表情でリーフはそう答えて、すぐに笑顔に戻って可愛らしく頷く。その仕草が妙にまぶしく見えて、俺は気恥ずかしさで目を逸らした。しばらく会っていなかったからだろうか、昨日から何度も、妙にリーフが綺麗に見えることがあって、なんだかその度に俺は気恥ずかしくなる。