廃都編 16章
テントに戻ると、アキは大尉に軽く挨拶をして、自分のスペースまで思いのほかきちんとした足取りで歩いていく。俺はその後ろ姿を眺めながら、アキがここ数日ちゃんと眠れているのか、不安になる。
「……疲れたろ?」
俺とアキがまとめた書類と地図を交互に眺めながら、大尉が俺にそう声をかけた。
「まあ、ですね。でも、ベッドで寝たままよりは、こっちの方がいいです」
そう答えながら、俺は椅子に腰掛ける。大尉は書類から目を上げ、俺を見ると、やがて書類を机の上に放り投げ、ため息を一つついた。
「調べれば、調べる程って奴だな」
天井を眺めながら、大尉がそう呟く。
「どういうことですか?」
「敵の状況だよ。意図が見えているようにも思えるし、騙されているような気もする。かといっていつまでも判断を伸ばす訳にも行かない」
自嘲するように大尉はそう言って、コーヒーでも飲むか?、と提案する。
「ですね。俺が煎れますよ」
立ち上がった俺の背中に、頼むよ、という疲れきった返事が返ってきた。俺は共有スペースの棚の上に無造作に置かれたポットから、紙コップにコーヒーを注ぐ。白い湯気が勢いよく立ち上り、香ばしいコーヒーの香りが広がっていく。
「アキから聞いたか?」
コーヒーを半分程飲み干した頃、大尉はそう言って、俺を眺めた。
「戦闘の件なら聞きましたよ。奪還作戦がいまいちだったって」
コーヒーのカップをテーブルに置いて、俺はそう答える。大尉はしばらくの間紙コップの中のコーヒーに視線を泳がせていたが、やがて、顔を上げると、ひどいもんだった、と呟く。
「現地到着と同時にばかすか弾は飛んでくるし、住民と敵と味方がごっちゃごちゃになってるし……」
そこまで話すと、大尉は椅子から立ち上がり、大きく背伸びをした。そうしながらも、壁に貼られた地図の一点を大尉はじっと見ている。おそらくそこが、激戦のあった村なのだろうと俺は思う。
「……五パーセント」
「え?」
「損耗率っていってな、こっちの兵員がどのくらい怪我して、どのくらい死んだのかパーセントで表す。この戦闘での損耗率は五パーセント」
憤りを隠しきれない、それでいて何か投げやりな口調で大尉はそう言った。
「数字で表してしまえば、たったそれだけだ。あれだけ酷い有様になって、住人がばたばた死んで、部下が怪我して……」
椅子に乱暴に腰掛けた大尉はテーブルに置かれたままのカップを手に取って、残っているコーヒーを一気に飲み干す。
「参謀にも、セルディスの官僚連中にも、届くのはこの数字だけだよ。減った数字を、どう繕うかって所だろうな」
俺は黙ったまま、大尉の独白を聞いていた。この人がただの数字でひとくくりにされてしまった住人や兵士に心を痛めているであろう事は、様子を見ていればよくわかる。ただ、その憤りにどう声をかければ良いのか、俺には解らなかった。
「敵の推定損耗率は三十パーセント、こっちは五パーセント。敵味方の人員数はほぼ拮抗しているとくれば、作戦は評価される。あんな作戦でも」
苛立ちを隠さずに、それでいて、寝ているアキには気を遣っているのか、声のボリュームは小さくしたまま、大尉はそう吐き捨てた。
「ああいう作戦を評価している奴とか、それで満足している参謀とかを見ると、参謀徽章ごと破り捨てたくなることがある」
「……大尉、あまり過激な事は……」
俺はそう口を挟む。本当に大尉が自分の制服の肩に縫い付けられている参謀徽章を破り捨ててしまいそうな気がしたからだ。
「悪い」
大尉はそう呟いて、天井を見上げる。冷静さを必死に取り戻そうとしているのだろう。大尉は何度も背伸びをし、首を振る。
「ラシュディさんの技術も完成した。グスタフのクーデターもうまく進んでる。あとはここで敵をある程度叩けばいい。ゲームなら、そこでクリアだ。ただ、これは……」
「ゲームじゃない」
「そう。絶対に誰かは死ぬ。怪我をする奴も出る。でも、この部隊からは絶対に死人は出したくない。かといって、臆病者にはなりたくない」
大尉の言葉を聞きながら、困った性格だと俺は思う。天才的な頭脳と、時折こちらが驚いてしまう程の迷いを抱えている。大尉は、正直な所、軍人には向いていないのかもしれないと思う。それは俺にも言える事だ。ただ、俺の場合は、迷いだけがあって、大尉のような頭脳はない。大きな違いだと思う。
「チェスなら、コマを取られて悔しいくらいで済むけどな。戦争はそうはいかない。コマを取られればそいつらは死んでしまう」
「ただ、大尉の作戦がなければ、下手をすれば、負けますよ?負ければ、どうなるか解らない」
俺がそう口を挟むと、大尉はため息をついて、俺をまっすぐに見据える。
「負ければ、大事な物も無くなってしまうかもしれない」
「……そう。今更引く訳にはいかない」
何かを振り切るように、大尉ははっきりとそう言った。
「なんか愚痴っぽくなってるな。悪い。疲れてるのに妙な事に付き合わせた」
大尉がそう言って軽く右手を上げる。目の下には隈が浮かび、明らかな疲れがそこには見て取れた。アキと同じで、この人もぎりぎりまで自分を追い込むタイプなのだと今更ながら俺は気付く。
「構いません。ただ、うちの部隊以外でそう言う事を言われるのは止めた方が……」
「解ってるよ。お前らは特別だ」
大尉はそう呟いて、空になった紙コップを潰して、ゴミ箱に放り投げる。
「絶対に今度の作戦で、終わらせてやる。死人も怪我人も、これが最後だ」
目に強い力を込めて、地図の一点を見据えたまま、大尉はそう呟く。俺は、ポットをテーブルまで持ってくると、新しい紙コップにコーヒーを注ぐ。大尉にそれを差し出すと、大尉はそれを口に含んで、ゆっくりと飲み干した。
大尉から、もう休め、と命令された俺は、自分のスペースで横になる。衝立の向こうの共有スペースからの光が、ほんの少しだけ漏れていて、うっすらと暗いテントの中を照らしていた。大尉が書類をめくる小さな音だけが、テントの中にいつまでも響く。俺は目を閉じて、アキと大尉の事を考えていた。あの二人は正反対のように見えて、良く似ていると改めて思う。俺の場合は、結果的に追い込まれる事はあっても、あの二人のように自分自身を追い込んではいないような気がする。
翌朝、俺が目を覚まして共有スペースに行くと、大尉はテーブルに突っ伏して眠っていた。アキが自分のスペースから持ってきた毛布をそっとその背中に掛けようとしている。俺が声を掛けようとすると、アキは人差し指を唇に当て、それを止めた。
「……眠らせてあげて」
囁くようにそう言ったアキは、大尉を起こさないように気をつけながら、毛布を掛けた。足音を立てないように注意しながら、どちらが言いだすでもなく、俺とアキはテントの外に出る。まだ薄暗い冬空に、雪が舞っていた。
「積もりはしなかったみたいだな」
少し安心しながら、俺はそう呟く。アキは入り口の敷石に腰掛けてコートの襟を立て、白い息を吐くと、俺の言葉に頷きだけを返した。腕時計を見ると時間は午前五時三十分を指している。あと数時間で、最初の通信確認が始まる。それまでの短い時間だけでも、アキは大尉をゆっくりと休ませてやりたかったのだろう。
「ちゃんと寝たか?」
俺はアキにそう問いかける。アキは少しだけ力を込めた視線を俺に向けて、寝た、と短く答えた。
「カイルは?遅くまで話していたようだけど」
「そうでもないよ。聞いてたのか?」
アキは目を伏せて、何も答えずにいる。おそらく、聞いていたのだろうと俺は推測する。不意に、ブルームで、アキが大尉に告げていた言葉を俺は思い出す。あなたの刃でありたい、というアキの言葉を。
「参謀ってのも、つらいよな。大尉みたいな人は特に」
俺がそう呟くと、アキは同意するように頷く。大尉は、どちらかと言えば現場向きの人間だ。部下と一緒に汗を流したり、一緒に苦労したりというのが好きなんだろうと思う。現場から上がってきた情報を元に、ゲームでもするみたいに人を動かす仕事なんて、本当はやりたくないのだろうと思う。そういう人に作戦立案の非凡な才能があるというのは、神様の酷い悪戯のようにも思える。
俺は、座り込んだまま、地面を凝視しているアキの横に座る。煙草を取り出して、火をつけようとすると、アキがその様子をじっと見ているのに気付く。
「吸いたい、って訳じゃないんだよな?」
「もう懲りた。でも、そう言う習慣があるのは、正直羨ましい」
視線をそらしてアキはそう呟く。
「確かに、ね。気晴らしにはなる」
俺がそう言うと、アキは、立ち上がり、コートのポケットから、ラバーナイフを二組取り出す。そのうちの一つを俺に差し出し、アキはほんの少しだけ笑ったようだった。
「……煙草、吸ってからでいいか?」
俺の言葉に、アキは、構わない、と短く答える。右手に渡されたラバーナイフ、左手に火のついた煙草を持って、俺はようやく明るさを増してきた空を見上げる。格闘戦訓練が気晴らしというのは、何ともアキらしい気晴らしだと思えた。冷えきった身体を温めるにはちょうどいい運動になるだろう。