国境編 7章
就寝時間を過ぎても、俺はなかなか寝付けなかった。リーフの泣き顔やら、笑い顔、クリス少尉の話がずっと頭の中を駆け巡っていたからだ。リーフの顔を思い出すと、なんだか胸が苦しくなったし、クリス少尉の話を思い出すと、緊張が体に走っていくのがわかった。ナイフの訓練なり、銃の訓練なりを真剣にやっていなかったわけではないが、今後は取り掛かる気持ちにかなりの真剣さが加わりそうだった。
「カエタナ、か」俺はそう口に出してみる。リーフと俺はカエタナだ。同じ銀髪の、同じ灰色の瞳。でも、俺はセルーラで特に虐げられる事もなく育って、あいつはボストで石まで投げつけられるような境遇で育った。生まれもっている、変えられない色々な要素、例えば髪の色や、瞳の色だってそうだ。そんなものが原因で虐げられる暮らし。あいつがあの国境で初めて会ったときに俺に取った態度、あのときは正直言って頭に来たが、今考えると、リーフの気持ちがよくわかるような気がした。よくわかると言っても、話で聞いただけの境遇に、俺の乏しい想像力が加わっただけの理解力な訳で、当然、リーフの本当の辛さや、気持ちが全部わかってる訳じゃない。でも、俺は、同じカエタナとして、あいつの辛さを少しでも多く理解してやりたいと思う。泣いて震えているリーフの小さな肩を見たときから、俺はずっとそんな事を考え続けていた。
「起きてるか?」突然、ドアの外から小さな声がする。俺は驚いてベッドから落ちそうになる体をなんとか立て直してドアを開ける。そこには、少し厳しい表情をしたラルフ曹長がいた。
「少しばかり話がある」ラルフ曹長は付いてこいという仕草で手を動かす。俺はそのまま、ラルフ曹長の後について、歩いていく。
兵舎の外に出ると、ラルフ曹長は兵舎の入り口の三段ばかりの石段に腰掛け、隣に座るよう促す。俺は、ラルフ曹長の厳しい表情を見ながら、何か叱責でも受けるのではと思い、緊張しながら、隣に座る。ラルフ軍曹は胸ポケットから煙草を取り出すと、一本を抜き取り、俺の方にその箱を放る。
「ありがとうございます」俺はそう言って、そこから一本を抜き取る。
「あの亡命してきた三人についてだ」ラルフ曹長が口を開く。
「はい」
「お前、今日、クリス少尉から俺と、アキが夜間巡回をしている話を聞いているか?」
「はい。聞いてます」
「今の所、おかしな兆候はない。まあ、喜ばしい事だ。だが、今後もそうとは限らん」ラルフ曹長はそういうと、煙草に火をつけて、俺を見る。
「お前、あいつらを守ってやりたいって気持ちはあるか?」そうラルフ曹長は俺に尋ねた。俺はラルフ曹長の目を見て、
「はい。あります」と答える。
「そうか」ラルフ曹長はそう言うと、立ち上がって、煙草をもみ消す。俺も、その仕草をみて、自分の吸っている煙草をもみ消した。
「訓練用のラバーナイフを持ってこい。二本だ」ラルフ曹長は軽い柔軟体操をしながら言う。俺は兵舎の共有スペースまで音を立てないように歩いて、ラバーナイフを言われた通り、二本取り出して、また、外に出る。そして、一本をラルフ曹長に渡す。ラルフ曹長は俺を真っ正面から見据えると、いきなりそのナイフを俺の頸動脈めがけて突き出す。俺は、突然の事に多少は慌てたが、ある程度は予想していたこともあって、それをなんとかかわすと、一歩退いてナイフをサーベルグリップで構える。
「予想はしていたか。夜間のナイフ戦闘訓練をした事はないと言っていたな。良くかわせたものだ」ラルフ曹長はそう言って、俺と同じようにサーベルグリップでナイフを構える。
「手加減はするな。訓練用のゴムナイフ、本気で斬りつけた所で擦り傷程度だ。お前の腕を見る」ラルフ曹長は凄まじいまでの殺気を発しながら、無言で俺に突進する。今度は腹だ。俺は身をよじるようにしてそれをかわすと、ラルフ曹長の伸びきった手首の腱を狙う。思い切り跳ね上げた俺のナイフは腱ではなく、ラルフ曹長のナイフに当たり、そのナイフを曹長の手首ごと跳ね上げていた。俺は可能な限り素早く腕を元の位置に戻すと、空いたラルフ曹長の頸動脈を狙って、横薙ぎにナイフを滑らす。もう少しで触れると思った刹那、ラルフ曹長の体が、素早く横にスライドし、俺の首に熱い衝撃が走る。俺の負けだ。俺はおそらく火傷している首を抑え、ナイフを下ろす。ラルフ曹長はしばらく俺のそんな様子を見ていたが、手を小さく動かして、俺に座るように指示をした。
「まあ、合格と言った所か。まだ技量は足りんが、夜間でも日中と同じようには動けている。ルパード、グリアムよりは上かもしれんな。次は一本とれるかもしれんぞ」ラルフ曹長はそう言って、俺を見る。
「でも、負けました。実戦に次はありません」俺はそう答える。正直、アキに言われたリズムという言葉を意識しながら訓練していた事もあって、俺はそれなりに自信をつけてきていた。だが、ラルフ曹長との初めてのこの手合わせで、まだ、本格的な実戦経験者には勝てないという事実に気付かされた思いがした。
「そう言うな。アキよりは劣るが、お前もなかなかのものだ。普通の兵隊じゃああは動けんよ」ラルフ曹長は俺に向かって少しだけ微笑む。
「アキの夜間巡回、一人では少し心配でな。今は俺とアキが交代で一人ずつやっているが、あいつの時はお前がペアを組め。お前とアキで二人一組なら、まあ、安心だ」俺は突然の命令に少し驚いてラルフ曹長の顔を見る。
「他の兵隊には内密にな。ルパード、グリアムにもだ。クリス少尉には、腕を見た上で、俺がいいと判断するなら、と言われている」ラルフ曹長は俺の顔を面白そうに眺めながらそう付け足す。
「了解しました」俺は立ち上がって、敬礼の姿勢で答える。
「今日はもう寝ていい。夜間巡回のシフトと、巡回の方法は明日アキに聞け。ほかに質問は?」俺を眺めながら、ラルフ曹長が言う。
「ありません」俺はそう答えると、もう一度ラルフ曹長に敬礼をして、兵舎に戻る。兵舎のドアを閉めようとしたとき、後ろから、ラルフ曹長が呼び止める小さな声がする。俺は石段の上で立ち止まって、ラルフ曹長の方を振り返る。
「技量を磨け。そのうち、俺からも一本取れるようになる。そう遠くないうちに」ラルフ曹長は俺の目を見ながら、微笑んだままそう言った。俺はその言葉に、ラルフ曹長らしい優しさを感じて、なんだか無性に嬉しくなった。
「了解です」俺はそう答えて、ドアを閉める。ラルフ曹長に付けられた首の火傷が少し痛んだが、その痛みも決して不快なものでは無く、俺は、妙に昂揚した気分のまま、ベッドに横になる。技量を磨けと言ったラルフ曹長の言葉が、いつもと比べると遅い眠りにつくまで、リーフやディルの笑顔と一緒に頭の中を巡っていた。