廃都編 6章
ヘリのハッチを注意深く開け、完全武装の俺と、雨よけの外套を着たルカは、ヘリポート脇の鉄柵を絶縁ナイフで注意深く切断し、高圧線に触れないよう索の外に出る。柵の外はかなり急な斜面になっていて、その斜面の先には、広大な沼地が広がっていた。俺は先に斜面を滑り降り、ルカがゆっくりと降りてくるのを、沼地のほとりで待つ。やがて、ルカが斜面を降り、俺とルカは普段であればまず入るのを躊躇うであろう沼地にゆっくりと足を踏み入れる。
「雑草が生えているところを伝って歩いて。じゃないと、沈んじゃうから」ルカのアドバイスに従って、俺は沼地の脇に生えている雑草を掴み、ずぶずぶと気持ちの悪い感触をブーツ越しに感じながら沼地に足を踏み入れた。俺が沼地に入ってしまうと、ルカも同様に沼地に入り、俺とルカは、雑草伝いに、ゆっくりとヘリポートを迂回するルートを進む。土手の斜面を見上げた先には高圧線が張り巡らされた鉄柵が続き、時折、沼地に足を取られがちになるルカを俺は何度も支えた。戦闘訓練や演習の無い空軍整備兵のルカには、ずいぶんと厳しいことをさせてしまっている。
「大丈夫か?」そう聞いた俺に、ルカは鋭い目線を向ける。
「余計な気を遣うな」そう言いきったルカを眺めながら、俺は、ひょっとしたらルカはアキと気が合うかもしれないなと、ふと思った。
数十分の時間をかけて、やっと俺とルカは目的の監視塔の側までたどり着く。斜面から見上げた先には、鉄柵と、高さ二十メートル程の監視塔があった。
「ルカ、ここまででいいよ。このまま斜面に身を伏せていれば、敵には見つからない。あとは一人でやる」俺がそう言うと、ルカはまた厳しい目つきを俺に向ける。
「……わかったよ」ルカはそう呟いて、言われた通り、斜面に伏せて、俺から目を逸らした。
監視塔の下まで、柵から小走りに走り、梯子に足を掛け、俺は出来うる限りの早さで、それを昇る。雨天で助かったと何度も俺は思う。この天候なら、よほどの事がなければ敵も外には出ない。特に、格納庫に篭城しているような連中であれば尚更だろう。監視塔の頂上の監視スポットまでなんとかたどり着いた俺は、ライフルを設置し、鉄製の冷たい床に匍匐する。銃口とスコープ以外はリュックから取り出した遮光布で覆い、俺自身の身体も全て、黒い遮光布に潜り込ませると、ビニール製の遮光布でもある程度は寒気を遮断するんだなと、俺は気付く。ライフル先端に銃声を消す為のサイレンサーを装備し、スコープからヘリの方向を観察すると、まだ、周辺に人影は見えない。俺は安堵のため息をついて、ライフルの安全装置を外し、スコープに降り掛かる雨を拭う。
どのくらい時間が経っただろうか、立ち並ぶ格納庫の一つのドアが開き、五人の兵士が外に出た。スコープで確認すると、それぞれ、揃いの軍服を着用している。ボストの軍服でも、エイジアの軍服でもない。ひょっとすると、あれは、ラルカスか、アーベルの軍服かもしれないと俺は思う。だとすると、ボスト対エイジア、セルーラという構図が大きく狂ってくることになる。
「まずいな」俺は思わずそう呟く。彼らがヘリに向かわない事を願うしか無いが、どうやら、その願いが通じる事は無かったようで、五人はまっすぐに滑走路をヘリポートに向かって歩いていく。俺はスコープの向こうの、五人の男達にそれぞれ照準を合わせ、彼らが滑走路をある程度歩き、格納庫から離れてしまったのを確認してから、一番先頭を歩いている一人の足首に照準を合わせた。
引き金を絞ると、僅かな反動とともに、ライフルから銃弾が放たれ、男の足に命中する。男が倒れ、銃声なしに起きたいきなりの事態に彼らは混乱しているように見えた。倒れた男に駆け寄るもう一人の男に俺は照準を合わせ、男の右腕に照準が重なった瞬間、再び引き金を引いた。弾かれるように男が倒れると、残りの三人はさすがに狙撃に気がついたようで一斉に辺りの遮蔽物に身を隠す。うめきながら倒れている二人に俺は照準を合わせ、足を撃たれ、動けない様子の兵隊の肩に狙いを定めると、再び、引き金を絞る。突っ伏すように雨の溜まった滑走路に男は身を伏せると、声にならない叫び声を上げた。
これは、狙撃戦のセオリーとしては古くからある類いの物だ。一人を殺さずに、命に関わらない部分を徐々に攻撃する。そして味方を助ける為に駆け寄ってくる仲間を狙撃していく。目の前で、撃たれて苦しむ仲間を作ってしまうことで、敵の部隊の注意力をそこに集中させてしまうのが狙いだ。古典的ではあるが、敵が組織的であればある程、そして、敵部隊の絆が深ければ深い程、効果が高くなる。そして、なにより、敵の命を必要以上に奪う必要がない。釘付けにしてしまう事が目的である以上、命を奪えば、逆効果になるからだ。俺はスコープから見える、敵兵の様子を観察し、彼らが指差す方向や、向かおうとしているポイントが監視塔から外れている事に安堵する。雨と、断続的に響く雷の音も、功を奏している。俺はスコープをのぞきながら、しばらくの間を置く。攻撃が止んだと思わせ、負傷した兵隊に再び近づかせなければならない。
五人が戻ってこなければ、じきに敵の応援が来る。ヘリの奪取にどのくらいの時間がかかると見ているのかを俺は考える。おそらく、往復で三十分もあれば良い方だろう。という事は、あとの一時間半を俺は稼がなければならない。俺はスコープを覗き、駆け寄ろうとしてドラム缶から身を乗り出している無傷の兵士に狙いを定める。肩か、腕か、照準を定めて、俺は考える。揺れる照準はやがて肩の辺りに定まる。俺は引き金を絞り、三人目の兵士に銃弾はまっすぐに向かっていく。銃弾は正確に男の肩を貫き、男は肩を押さえ、その場にうずくまり、何事かを大声で叫んだ。
肩を押さえた男が指差して何事かを叫んでいる方向は、俺がいる監視塔から大きく離れていた。無傷の二人が指差された方向に駆けていく後ろ姿を見ながら、俺は安堵のため息をつく。彼らが戻ってくるまで、とりあえずは時間が稼げるからだ。俺はスコープを覗きながら、倒れうずくまった兵士達の様子を順に確認していく。
全く見当違いの方向に駆けていった二人の兵士のうちの一人が、困惑した表情のまま、遮蔽物の影を辿りながら、また同じ場所に戻ってこようとしているのが見えて、俺は彼の太ももに照準を合わせる。引き金を引き、兵士が崩れ落ちるように倒れるのを確認すると、俺はもう一人の兵士が戻ってくるのを待つ。あと一人だ。とりあえず全員を負傷させれば、多少は時間が稼げるだろう。
最後の一人の足を撃ち抜き、取り合えず全員の戦闘継続能力を奪った後、俺は監視塔からの引き上げを開始した。さっさと場所を移してしまった方が良い。次の狙撃ポイントを俺は監視塔から探す。五人の兵士達はそれぞれが居場所の解らない狙撃手に怯え、動きを止めている。俺は滑走路脇の小さな窪地に目をつけ、音を立てないように注意深く荷物をまとめると、監視塔を降り、窪地に向かって小走りに走った。
窪地にライフルを設置し、再び俺は五人の姿を確認する。沼の泥で原色が解らないくらいに汚れてしまった制服は、ちょうどいい迷彩になっていた。顔に泥を塗り、白い髪が目につかないよう、俺は制服のフードを被る。泥の感触は全身を覆っていて、とても快適とは言えなかったが、しょうがない事だ。俺は、動きだそうとしていた負傷した兵士に、照準を合わせ再び引き金を引く。太ももを撃ち抜かれた兵士はその場に崩れ落ち、おそらくは、姿の見えない俺に対して、大声でなにかを叫び、罵倒していた。
時計を確認し、俺はクリス大尉との最後の通信から一時間が経過しているのを確認する。まだ格納庫から応援の兵士がかけてくる様子はない。助けを呼ばない所を見ると、彼らもそう大人数ではないのかもしれない。格納庫に監視用の人員を配置し、その上での余剰人数をヘリ奪取に回しているのだとしたら、五人という人数は妥当な人数だとも考えられた。基地警備部隊との戦闘で、彼らも無傷という訳には行かなかった筈だ。とすれば、思いのほか早くケリがつく可能性も高い。
そんな甘い観測を立てていた矢先、不意に、俺の背後で撃鉄を起こす嫌な音がした。俺は反射的にナイフを抜き、その場から飛び退く。さっきまで俺が伏せていた場所に銃弾がめり込み、俺の視線の先には、俺と同い年くらいの若い兵士が立っていた。兵士の目にはありありと怯えの色が浮かんでいる。俺が狙撃した兵士達と同じ制服を来ている所を見ると、この兵士も敵だという事に間違いはなかった。大声を上げて仲間を呼ぼうとする仕草を見せたその兵士に、俺は飛びかかり、銃をナイフで叩き落とすと、雨で濡れた草地に男を引きずり倒し、ナイフを振り上げる。
俺の左手は殆ど反射的に男の口を押さえつけ、馬乗りになった俺の振り上げる右手にはナイフが握られている。俺は、絶望感に彩られた兵士の瞳がまっすぐに俺に向けられている事に気付く。このままナイフを振り下ろせば、多分、俺はこの兵士を叫び声を上げさせる事なく殺せるだろう。ただ、俺は、この期に及んでも、そのナイフを躊躇無く振り下ろす事が出来ずにいる。俺は下唇を強く噛んで、ナイフを鞘に納めると、右肘を全身の力を込めて男のみぞおちに叩き込む。気持ちの悪いうめき声を上げて、その兵士が気絶したのを確認してから、俺はその場を駆け出す。
数歩走り出した俺の右足に、何の予兆もなく、熱い衝撃が走った。絡まる足で倒れた俺は、銃声のした方向に振り返る。そこには俺が気絶させた筈の兵士がよろよろと半身を起こし、銃を構えているのが見えた。俺は自分の甘い判断を後悔すると同時に、咳き込みながら俺に再び発砲しようとしているその兵士に向けて、ナイフを思いっきり投げつけた。
ナイフはまっすぐに男の左胸に吸い込まれ、短く鈍い音を立て、突き刺さった。男は何が起きたのか解らないと言った表情で自分の左胸に突き刺さったナイフを眺めていたが、やがて大きな声で誰かの名前を叫び、倒れる。俺は何度も転びながら、男に駆け寄り、刺さったナイフを抜く。抜いた傷口から、血液が溢れ、俺の手は泥と血で汚れていき、雨は容赦なく俺を身体の芯から冷やしていく。倒れたままの男は、うつろな目で、小さく何かを呟き、何かに縋るように手を伸ばして、指を震わせた。俺はその手を振り払い、周辺を見渡す。誰かが気付いて近づいてくる気配はない。天候の悪さにひたすら感謝するしかない。
立ち上がり、力の入らない右足を引きずりながら、その場を離れようとすると、男の震える指先が再び俺の制服の袖に触れた。もし、命の火なんてものがあるとしたら、目の前の男の命は今まさに消えようとする直前に見えた。男は自分の泥まみれのポケットから、一つの小さな封筒を取り出し、俺の手に握らせようとしているようだった。俺がその封筒を受け取り、自分の制服のポケットに突っ込むと、男は安堵の笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じ、そして、動かなくなった。
男が俺に何かを託そうとしたのは、はっきりと解った。目の前に倒れた男を見ると、緊張感で埋め尽くされていた心の僅かな余白に、押さえきれない罪悪感が止めども無く沸き上がる。俺はそれを押し殺し、周辺を再度見渡すと、滑走路脇の柵まで身を低くして駆け抜ける。右足には痛みが走り出し、やがて、感覚が奪われていく。泥と雨ではっきりは解らないが、かなりの量の血液が流れているように思えた。全身に嫌な汗が流れ、寒気と吐き気が身体を覆い尽くしていく。
柵の脇に俺は倒れ込み、そして何度も咳き込み、胃液まじりの吐瀉物を吐き出す。雨は、俺の身体についた泥と、血と、そして体温を容赦なく流していく。やがて、少しずつ俺の視界はぼやけていき、暗闇が俺を覆っていった。その暗闇は底のない絶望に彩られていて、俺はその絶望の中に、沈んでいく。
意識が途切れてしまうその間際に見えたのは、泣き出しそうな表情のリーフの姿だった。そこに手を伸ばそうとしても、俺の手は、リーフに届かない。俺は例えようのない絶望の中で、目を閉じ、恐ろしく深い眠気に身を任せる。もう覚める事がないのではないかと思われる程の、深い眠りに。