首都編 32章
展望ベランダで星と夜景を眺め、しばらく時間が経つと、俺の肩に乗せられたリーフの頭の辺りから、穏やかな寝息の音が聞こえてきた。体を揺らさないように視線をリーフに向けると、リーフは気持ち良さそうに眠っている。
「前線、か」小さく口に出してそう呟いてみた。未だ見た事も無い戦場に、俺は向かおうとしている。
平穏な日々なんて、ほんの些細なきっかけであっけなく崩れてしまう。それを俺はここ数ヶ月で身を以て学んだ。なにかの映画の主人公みたいに、自分だけが運良く生き残れるなんて、無邪気に信じる気分にはなれない。俺が殺したあのボストの兵隊みたいに、俺だって死んでしまうかもしれない。ほんの些細なきっかけで。生き残って帰ってくるつもりなら、それなりの覚悟も、努力も、意思もいる。ただ平穏無事な日々だけを祈っていても、何の足しにもならない。
横で眠るリーフの、真っ白な頬に俺は指先を軽く当ててみる。閉じられたリーフの目がうっすらと開き、やがて何かに気付いたように、その目が大きく開かれた。
「私、寝てたの?」
「少しだけ、だけどな。もう寒いからこんなところで寝てたら風邪引くぞ」俺はそう言って、軽くリーフの頭に手を乗せる。
「部屋まで送ってくよ。明日は水神宮に行くって言ってたし、結構あそこの参道、歩くときついからな。ちゃんと寝とかないと」
「……うん」リーフは名残惜しげにそう呟くと、微かに頷いて、立ち上がる。リーフの銀色の髪が、夜風で僅かに揺れた。
照明が落とされ、非常灯の僅かな明かりだけを頼りに、俺とリーフは廊下を歩いていく。エレベータで俺たちの部屋がある階まで降り、まずリーフとアキの部屋まで向かうと、部屋の前で、リーフはドアノブに手をかけ、やがて、何かに気付いたかのように、手を停めて俺を見上げた。
「どうした?」そう問いかける俺にリーフは何も答えず、白く細い腕を俺の首に回して、軽く力を込める。
「……明日、みんな起きられるかな」数分後、身体を離したリーフは可笑しそうにそう呟いた。確かにそうだと思う。あの酔い潰れ様からして、明日気持ちの良い目覚めがあるようにはとても思えなかった。
一人で自分の部屋に戻って、煙草をくゆらすうちに、俺は眠りにつき、そして、夢を見た。
夢の中で、俺は完全武装の状態で、砂漠のまっただ中に一人きりで立ちすくんでいた。仲間も敵も、一人も見当たらない中で、ふと視線を移した先に、俺の手のひらが見えた。俺の手は、誰の物かも解らない血で真っ赤に染まっていて、指先から滴る雫は、砂漠の真っ白な砂に赤黒い染みを作っている。
銃に弾は残っていない。胸に固定されたナイフの鞘には、血で染まったナイフがおさめられてはいたが、こんな砂漠の真ん中で敵に会えば、接近戦なんかは出来た物じゃない。目についた時点で撃ち殺されてしまうのは目に見えている。俺はわき上がる不安の中で、果ての見えない地平線の一方向に向かって、歩みを進めていく。
空を見上げると、周りは明るいのに、何故か太陽が見当たらない。空だけがぼんやりと光っているのだと気付くのに俺はしばらくの時間を要した。
「カイルさん」細い、小さな声が背後から聞こえて、俺は振り返る。そこには、見覚えのある青い装束、そう、ファルト教団のあの青い衣装を身にまとったリオが立っていた。驚く俺を尻目に、リオは、少し話があります、と簡潔に用件を伝え、白い砂地に座ると、隣に座るよう俺に促す。
「あんたはなんでこんな所にいるんだ?」隣に座るなり矢継ぎ早に質問を繰り出す俺に、リオは無表情な瞳を向けて、唇だけにほんのすこしだけ笑みを浮かべる。
「ここはあなたの夢。私は、あなたの夢に干渉しているのです」リオは淡々と言葉を綴っていく。
「干渉って……俺の夢に?」俺が多少の落ち着きを取り戻しながらそう口にすると、リオは、はい、と静かに答えた。
「一つだけ、伝えておきたい事があります。あまり他人の夢に干渉するのは好きではないのですが、多分、あなたに直接会って話せる機会はもう無いと思うから」リオはそう切り出すと、俺の目を、まっすぐに見る。
「時折、未来が見えると、あなたにお話しした事を覚えていますか?」
「覚えてるよ。信じてるかって言われれば別だけどさ」
「……」リオはしばらく沈黙した後、なにか言葉を探すように視線を上げ、太陽の無い空に向けて顔を上げる。
「私がお話ししたいのは、あなたに見えた、あなたの未来」そう言葉を続けたリオは、何かを問いかけるように俺の顔を覗き込む。
「良い未来ってわけじゃないんだよな。だったらわざわざそんなこと伝えにくる理由が無いし」俺がそう口を開くと、リオは申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別にあんたが悪い訳じゃない」俺はそう答えて、さっきまでリオがそうしていたように空に視線を向ける。雲一つない、そして太陽の無い灰色の空。夢が人の心象風景だとしたら、これはまぎれも無い今の俺の内面だった。不安を象徴するような砂と灰色の空。戦場に向かう不安と、死への不安。まさしくそれらの象徴のような光景だった。
「……廃墟のような場所で、座り込んだあなたが右目を押さえて、流れる血で手を染めている姿が見えました」
「俺が?」
「そう、あなたが」リオはそう言うと、静かに首を振る。
「……他には」
「あなたの周りには何人かの兵士が倒れています。あなたと違う緑の制服を着た兵士達。私の目には……、そう、何と言えば良いか、あなたが、死に瀕しているように見えた」
そこまで話してしまうと、リオは口をつぐんで、視線を地面に向ける。俯いて、黙りこくってしまったリオを眺めながら、俺は宣告された未来を心中で何度も反芻する。
「戦場に行けば、俺は死ぬかもしれないと、そう言いたいんだな」俺がそう呟くと、リオは頷いて、顔を上げた。
「あなたには、恩があります。助けてもらった。私も兄も。だから……」
軍人である以上、死を必要以上に恐れていては、何も出来やしない。それは解っているつもりでいた。ただ、こうやって自分の未来を目の当たりにすると、何とも言えない苦い思いが心中に広がっていく。
「あまり、長くは干渉ができません。もし、他に聞きたい事があれば……」
「未来を、さ。あんたが見た、いままでの未来を、変えようとした事ってないんだろ」
「……ありません。私が見る未来が当る事が、教祖としての地位を固める事にもなる。変えようと動く事は私には許されていませんでした」
「あんたは、どう思う?変えられると思うか?」
「わかりません。ただ、私は……」そう答えるリオの姿が、僅かに揺らぐ。干渉とやらがどんな物なのかは解らないが、どうやら終わりの時間が近づいているようだった。
「変えて欲しいと……願って…い」だんだんとリオの姿は薄れ、声が揺らぎ、小さくなっていく。
「わかった。ありがとう」俺がそう答えると、薄れていくリオの表情にほんの少しだけ安堵の笑みが浮かんだように見えた。
リオが消えてしまったあと、俺は砂地に寝転がり、灰色の空を見上げる。夢はまだ覚めないようだった。自分の赤く染まった手のひらをそっと右目に当ててみると、粘つく血の感触が頬と瞼に感じられる。その血が自分の血なのか、俺が殺した誰かの血なのか、俺は判断がつかないまま、目を閉じた。
「怖いのかい?」自分の耳元で、誰かが囁いているのが聞こえる。いや、耳元ではない。頭の中に響くような誰かの声。
「どうだろうな」俺は目を閉じたまま、その声に答える。
「逃げればいい。なんとでも言い訳はつく。あの娘、リーフにしてもそうさ。軍に任せて、お前は逃げればいいんだよ。お前が招いた事じゃない」
「……」
「死んだら、何も残らない。お前が殺したボストのあの兵士だってそうだったろ?脳漿をぶちまけて、ぶっ倒れて終わり。彼に何が残った?」
「何も残らない、ってそう言いたいのか?」
「そうさ。お前だって同じ。死ねば、ただの肉塊さ。何処とも知れない廃墟で、腐って朽ちていく」
「……だとしても」俺は目を開けて、変わらない灰色の空を眺めながら、答える。
「だとしても、今更逃げる気はないよ。逃げない」
逃げてしまえば、多分、そちらの方が自分にはなにも残らないような気がした。リーフを捨てて、軍を捨てて、どこか別の国に逃げたとしても、俺は一生負い目を背負い続けるだろう。取り返しのつかない負い目を背負い続ける生活が、死ぬよりもマシなのか、俺は自分の心中に問いかける。何度自分に問いかけても、そういう生き方が死ぬよりもマシだとは思えなかった。
身体を起こして、辺りを見回す。声の主は何処にも見当たらない。僅かに吹く風の音だけの、酷く静かな世界。やがて、砂地に薄い小さな染みが増えていく。冷たい雨が、少しずつ雨量を増している。
「好きにすればいい。朽ち果てるなり、逃げるなり」また、頭の中に囁きが響く。
「そうするよ」俺がそう答えると、雨にぬれた砂地から、僅かな振動が響いてくるのが解る。細かな揺れが、やがて大きな揺れに変わり、灰色の空にまるで割れる直前のガラス窓のようなヒビが走っていく。
空が弾け、雨で固まった砂地もバラバラに砕け、俺は真っ暗な空間に放り出された。
「カイル」誰かの声に気付いて、目を開けると、俺はホテルのベッドに横たわっている。視線をベッドの横に向けると、そこには心配そうな表情を浮かべたリーフがいた。窓の外を見ると、日はもうかなり高くに昇っている。
「……みんな起きてるのか?」俺がそう尋ねると、リーフは首を振った。
「アキさんと大尉はまだ寝てた。ジョディさんは何回ノックしても出てこないし」リーフはそう言いながら壁にかけられた時計を指差す。朝というよりは昼に近い時間だった。
「カイルのとこに来たら、鍵あいたままで寝てるし、みんな不用心だよ」リーフが少し困ったような表情でそう呟く。
俺は、身体を起こし、リーフの白い髪に触れると、そのまま手のひらをリーフの頬に触れさせる。リーフは少し驚いた表情を浮かべたが、やがて、小さくため息をつくと、俺のその手に、そっと自分の手のひらを重ねる。
「どうしたの?」
「別に、どうしたって訳じゃないんだけどさ……」俺がそう答えると、リーフは、僅かに微笑む。俺はリーフの微笑みを眺めながら、さっきまで見ていた夢の沈鬱な光景と、心中に残っていた後味の悪い感触が、ほぐれていくのを感じる。あたたかな手のひらの感触が、俺を死から確実に遠ざけていてくれるような気がした。ちゃんと、生きて帰って来れると、何故か信じさせてくれるような不思議な感触だった。
やっと続きが書けました。仕事も一段落ついたので、しばらくはコンスタントに更新できそうです。
これからも宜しくお願い申し上げます。