首都編 31章
カフェで俺とリーフがパンの話やら、アキと大尉の話などをとりとめも無く話していると、外から、いきなり何かが転がるような大きな音がした。
俺は、半ば反射的に、壁にかけられた時計を確認する。カフェに入ってから約二時間が経過していた。時間が時間だけに、若干の緊張を俺は感じる。ボストの連中がわざわざこんな所に奇襲なんかをかける事は無いとは思うが、万が一という事だってある。
「リーフ、少し待っててくれるか?」俺の言葉にリーフは小さく頷いて、不安げな表情を俺に向ける。俺は腰のホルスターを確認し、音がした方向に向かう。おそらく、玄関の方向だろう。俺は大体の検討をつけて、ホルスターに手を当てたまま、玄関のドアに身を隠すようにして、外を伺う。
「なに、やってるんですか」俺は思わずそう呟く。ゆっくりと開いた玄関ドアの向こうには、どうやらかなりお酒を召している様子のクリス大尉がだらしなく寝転んでいた。
「……あれ?、ひょっとしてカイルですか?」ろれつの回らない口調でクリス大尉はそう言って、おそらく吐き気をこらえているのだろう、マットの上で体を丸めて、ううう、と小さなうなり声を上げ始める。
「弱いくせに飲み過ぎ」いきなり背後からアキの声がして、俺は驚いて振り向く。どうやらアキもかなり酔っている様だった。アキは、体を揺らしながら、壁にもたれかかって、まったく、とクリス大尉を一瞥して呟く。
「アキ、お前が飲ませたのか?」俺がそう尋ねると、アキは、大尉が自分で飲んだ、と短く答えて、はあ、と大きなため息をついた。
「とりあえず、中に運ばないと……」俺がそう言うが早いか、アキは大尉の上着の襟を掴むと、ずるずると大尉を引きずり、フロントの前に置かれているソファーまで歩いていく。
とても人を運んでいるような気遣いなど感じられない運び方で、大尉をソファーまで運んだアキは、疲れたのか、そのまま大尉の隣に座り込み、目を閉じて眠ってしまった。
「大尉、アキ、こんな所で寝ないでください」俺が何度呼びかけても、二人とも微動だにしない。やがて、騒ぎを聞きつけたのか、フロントから年配のホテルマンが目をこすりながら出てきたが、大尉とアキと、そして、側に突っ立ったまんまの俺を一瞥すると、酔ってるだけか?、と短く俺に聞いた。
「まあ、そう、ですね。酔ってるだけ、です」俺がそう答えると、じゃあ、いいや、とそのホテルマンは興味無さげに言って、またフロントの奥に帰っていく。
俺とリーフはとりあえずカフェを出て、大尉とアキの部屋から何枚かの毛布を運ぶと、ソファーにだらしなく寝転がっている大尉と、大尉に寄りかかるようにして眠っているアキにそれを羽織らせる。二人とも結構深く眠っているようで、少しも起きる気配が無い。
「子供みたい」リーフは可笑しそうにそう呟くと、アキの頬を人差し指で軽くつついた。アキはむずがる子供のように寝返りを打つと、リーフの指先から逃れて、毛布に潜り込む。
「本当にガキみたいだな。大尉もアキも」俺は気持ち良さそうな寝息を立てている二人を眺める。さぞかし大量の酒を飲んだのだろう。辺り一面に酒の匂いがした。
「……仲直り、したのかな」リーフが俺を見上げる。
「仲直り、っていってもなあ。まあ、こうやってみてる限りじゃ仲が良いようにしか見えないけどな」
「だよ、ね」リーフは再び視線を大尉とアキに向けると、微笑みながら、そう言った。
俺とリーフは大尉とアキが眠っているソファーの近くの丸椅子に腰掛けて、どちらからという訳でもなく、殆ど同時に小さくため息をつく。
「どうする?展望ベランダにでも行ってみるか?」俺がそう言うと、リーフは、そうだね、と嬉しそうに頷いた。
エレベータを降りて、ベランダまで歩き、木製の大きなベンチに腰掛けると、リーフが、綺麗だね、星、と呟いた。見上げると、雲が殆どない真っ黒な空に、白い砂をちりばめたように沢山の星が浮かんで見える。
「なんか、久しぶりに星なんて見たよ」俺がそう呟くと、リーフは、無言のまま、俺の手のひらにそっと自分の手のひらを乗せた。
「……私は結構見てるんだよ。星」
「家で、か?」俺がそう尋ねると、リーフは小さく頷く。
「カイルが帰ってくるまで、暇だもん。パンの作り方の復習とか、仕込みの準備とかが終わって、それから、お風呂に入って……あとは部屋で星とか、よく見てる」
「リーフ、朝早いんだろ。いっつもちゃんと寝てるのか?」俺が多少心配になってそう尋ねると、リーフは視線を空に向けたままで、少し憂いを帯びた表情を浮かべた。
「……ボストにいるときにね。夜って、ものすごく怖かった」リーフはそう呟くと、手のひらに少しだけ力を込める。
「怖いって……なんかあったのか?」
「うん。カエタナの居住区って、スラムみたいになってるから、夜とかよく、何て言ったら良いのかな、悪い事した人たちとかが、逃げ込んできたりするの」
「居住区、にか?」
「そう。誰かが走る足音とか、お巡りさんが叫ぶ声とか、銃声とか……。だから、私もディルもラシュディさんも、眠りが浅いの。すぐ目が覚めちゃう」
「……そうか」俺は、そう呟いて、ふと、リーフの横顔に視線を向ける。少しだけ伏せられたリーフの長い睫毛が、心なしか潤んでいるように見えた。
「セルーラに来てからかな。夜の足音が怖くなくなったのって」リーフはそう言って、微かに微笑みを浮かべる。
「晩ご飯に行くときのお迎えだったり、カイルが帰ってきた足音だったり……」
「こっちに来てからは、毎晩遅いもんな、俺」
「本当。でもね、知らないでしょ。カイルの足音って、おじさんとかおばさんとかと全然違うんだよ」
「足音、が?」
「うん」リーフは自慢げにそう答えると、俺の顔を見て、憂いを振り払うように明るい笑顔を浮かべた。
「言っとかなきゃいけないことが、あるんだけどさ」俺がそう切り出すと、リーフの細い肩が少し揺れたように見えた。
「……カイルも、行くんだよね。大尉とか、アキさんと一緒に」リーフの言葉に俺は少し驚く。ひょっとすると大尉とアキのさっきのやり取りから、薄々感づいていたのかもしれない。
「たぶん、近いうちに、トライアングルエリアに行く。前線って言う事にはなるんだけど、大尉のスタッフとしてだから、まあ、そんなに危なくはないと思う」俺はそう言いながら、安全ってのは大嘘だな、と自分で思う。大尉が行く以上、のんびり後方で待機なんて事にはならないだろう。優秀な上官ではあるから、滅多な事では戦死したりしないとは思うが、百パーセント安全かと言われれば、確実に今の勤務よりは危険だということは明白だった。
「……ちゃんと、帰って来るんだよね?」リーフは視線を膝の上に落としたまま、不安が入り交じった細い声で呟く。
「帰ってくるよ。約束したろ」俺がそう答えてリーフの肩に手を回すと、リーフは俺の肩に頭を乗せて、小さく頷く。
「アキさんのこと、羨ましい」
「アキが、か?」
「……アキさんみたいに、私が軍人で、強かったら、一緒にいられるから」リーフはそう言って、目を伏せると、自分の小さな手のひらを握ったり、開いたりする動作を繰り返し、やがて、その手のひらを、そっと俺の手に触れさせた。
「……カイルが怪我したりとか、危ない目に遭ったりとかしても、私、役に立てないもん」泣き出しそうな声で、リーフがそう呟く。
「でも、さ、帰ってきて、俺がいつかパン屋になったら、リーフに頼りっきりだと思う。パンなんて、俺全然作れないから」俺が重い空気を振り払うように、明るくそう言うと、リーフが目をこすって、俺の方を見る。せっかく化粧をしていたのに、泣いて、目をこすったせいで、マスカラが落ちて、目の下にちいさな黒い染みが出来ていた。俺はハンカチを取り出して、その染みを拭き取ろうとする。
「……どうしたの?」リーフは、マスカラが落ちていることに気付いていないようだった。化粧なんてものをしたのは、今日が初めてだったのかも知れない。
「泣くから、マスカラ、落ちてる」俺がそう言うと、えっ、とリーフは頬を赤らめ、慌てて両手で顔を隠そうとする。
「自分でやるからいいよ」
「見えないだろ?鏡とか無いんだし。ほら」俺の言葉に、リーフはしばらく逡巡した後、顔を向けると、恥ずかしいのか目を閉じた。
ファンデーションなんてものが必要ないほど、リーフの肌は白い。俺はハンカチを頬に当てながら、カエタナって言っても、リーフは特に色白だな、と思う。血が通っているのか疑いたくなるくらいに、真っ白な頬。墨を一滴落としたようなマスカラの染みを拭き取り終わり、俺はハンカチをしまう。終わったよ、と声をかけると、リーフは目を開いて、俺から目を逸らし、小さな声で、ありがとう、と恥ずかしげに呟いた。
「俺が帰ってきたらさ、ちゃんとパンの作り方とか、教えてな」しばらくの沈黙の後、俺がそう口を開くと、リーフが小さく頷く。
「……私、結構スパルタだよ?」リーフは悪戯っぽくそう答えると、まだ少し赤みの残った目を向けて、笑った。
あとがき:
更新が2週間も遅れて、申し訳ございませんでした。(泣)
最近仕事が半端無く忙しく、なかなか時間がとれません。
書き出すとけっこう早い方なので、時間さえあればといったところなのですが、社会人というのは嫌なものですね……。
メッセージや、評価をくださった方々、ケータイで頑張って読んでくださっている方々(すいません。レイアウトはそのうち直します。)、PCで夜中の更新にも関わらず読んでくださっている方々、これからも国境の空を宜しくご愛読のほど、お願い申し上げます。