国境編 5章
彼らの処遇は、二ヵ月後に外務省担当官がくるまで、基地にて拘留ということに決定した。状況のヒアリングを兼ねた尋問をクリス少尉は担当することになり、俺たちの兵舎の空き部屋に急遽設けられた二部屋の拘留部屋で彼らと雑談を交わしている。ラシュディという初老の男とは、それなりに打ち解けたようで、時折笑い声が混じることもあったが、リーフという女は一切そのような雑談、尋問を受け入れることもなく、黙秘とまではいかないが、会話らしい会話はほとんどないとのことだった。もう一人の拘留者ディルは、七歳という年齢もあり、尋問の対象外だ。俺はなぜかこの子供になつかれたため、訓練のないときはよく遊んでやっていた。数日後、クリス少尉から許可をもらって、アキと俺がディルを連れて食堂にいくと、ビクセン軍曹はニヤニヤ笑いながら、
「なんだ、お前とアキの子供か?」といい、怒ったアキから見事に無視をされた。その横で、ディルはビクセン軍曹の作る食事を大いに気に入ったらしく、ビクセン軍曹を大いに喜ばせていた。
「おいしい。軍のご飯でこんなおいしいのが出るの?」ディルがそう尋ねると、
「ここだけだ。俺が作ってるからな」とビクセン軍曹が答える。
「ぼうず。おかわりがほしかったら、すぐ言えよ。たくさんあるからな」ビクセン軍曹の言葉にディルが大きく頷く。俺はその様子を見ながら、なんとなく、ディルがボストからの亡命者に連れられてきた理由をいろいろと考えていた。ふと、アキを見ると、いつも通りの無表情でディルの服についたパンくずを払っていた。
「なあ」俺はディルに話しかけた。
「なに?」ディルがにこにこと笑いながら俺のほうを向く。
「おまえ、ラシュディさんの息子さんか何かなんだろ?」そう聞くと、ディルは俺の言葉を受けてしばらく考えていた様子だったが、
「ラシュディおじさんの妹が僕の母さんなんだ。僕が生まれてすぐ、母さんがいなくなったから、ラシュディおじさんのところでリーフ姉ちゃんと一緒に住んでた」と答える。
「リーフっていうのは俺と同じでカエタナ出身だろ。リーフは知り合いか何かか?」
「リーフ姉ちゃんはラシュディおじさんの弟の子供。その人の奥さんがカエタナだった」ディルは俺の手のグレープフルーツをすばやく横取りし、そう答えた。
「差別がハードなボストでもカエタナと結婚する人がいるんだな」俺はそう呟く。
「僕たちはクライドだから。カエタナの人とそんなに変わんないんだ」ディルがグレープフルーツを剥きながら答える。
「クライド?」
「ボストで一番下の身分のこと。カエタナの人たちと住むところが一緒なんだ」ディルはアキに剥いたグレープフルーツを差し出す。アキはすこしだけ笑ったように見える無表情でそれを受け取って、自分が剥いたグレープフルーツをディルに食べさせる。
「カエタナの人たちと、クライドは仲がいいんだよ。どっちも貧乏だし。ほんとにこんなおいしいご飯、久しぶりだ」アキからもらったグレープフルーツをおいしそうに食べながらディルは笑った。気づくと、ビクセン軍曹が俺の後ろに立っている。様子を見るに今の話を聞いていたようだった。
「ぼうず。いっつもどんな飯食ってたんだ」
「だいたい、配給のパンひとつと、具がないスープ。足りなくて、よく山に果物を取りに行ってた。ばれると、おまわりさんにすごく怒られるんだけど」ビクセン軍曹はその言葉を聞いて、なにやら、考え込んでいたが、やがてディルを抱きかかえると、ディルの耳元で、腹が減ったらいつでも食堂に連れてもらって来い。と言った。ディルははじけたような笑顔になって、俺を見る。
「そうだな。ビクセン軍曹の飯が食いたくなったら、俺に言ったらいい」俺はそう答えてやる。
「俺がいないときはアキに頼むといい。それでいいよな?アキ」アキを見ると、アキは小さく頷く。たぶん、クリス少尉の許可も簡単におりるような気がした。あの人はなんのかんのでこういうところは気にしなさそうだ。
それから後は、結構な大騒ぎになった。ビクセン軍曹がなんでもいいから食いたいデザートを言ってみろといい、ディルが希望したドーナツを大量に調理しだしたからだ。俺たちも久しぶりにドーナツなんてものを食べた。大量に作られたドーナツが、食堂にいたほとんどの兵士に振舞われ、揚げたてのカリカリとしたドーナツはやたらと旨かった。ほかの兵士たちもディルを気に入ったらしく、なんのかんのと軽口をたたいてはディルを抱き上げてやったり、私物の菓子をやったりしていた。ディルはあちこちを駆け回りながらひどくうれしそうだった。最後にビクセン軍曹は余った十数個のドーナツを紙袋に入れ、ディルに渡して、
「おじさんと姉ちゃんにも食わせてやれ」と言った。ディルの笑顔がなんだかやたらと眩しく、気づくと、アキまでそんな様子を見ながら笑みに近いものを浮かべているのが見えた。
はしゃぎ疲れたのだろう。ディルは食堂からでてしばらくすると、目をしばたかせながら、眠そうな表情になっていた。俺はディルの前にかがんで、ディルを背負ってやろうとする。
「眠いんだろ。部屋まで運んでやるから寝てろ」俺がそういうと、ディルは眠くないから大丈夫だと言い張ったが、アキから無言で抱きかかえられ、俺の背中に乗せられると、素直に俺に負ぶさって来た。俺は立ち上がって、あまり揺らさないように、少し歩調を落とす。しばらく歩いていると、背中から、小さな寝息が聞こえてくる。
「その子」アキが隣で呟くのが聞こえる。
「ん?」
「すごく軽かった」俺も確かにそう思う。俺の背中にかかっている重さは七歳の子どもにしては軽すぎた。
「なんか、ひどい話だよな。子供にくらい腹いっぱい食わせてやれよって感じだ」アキのほうを見て、俺は言う。
「ボストは決して貧しい国じゃない。クライドとカエタナに対する政策のせい」アキはそう言って、俺のほうを見る。
「あなたは、どう思う」
「なにを?」
「クライドとかカエタナとか、そういうことでこんな目にあうことについて」
「理不尽だな。俺はそんな目にあったことはないし」
「私もそう思う」アキは俺の背のディルの頭を軽くなでると、俺の隣に立って、なにやらポケットを探っている。しばらくしてから、アキはポケットから小さなコインを出した。
「これは、ボストの硬貨。刻印されているのが、今のボストの大統領のロシュビッチ」
「見たことあるよ。テレビで。なんでそんなもの持ってるんだ」俺はそのコインを見ながら答える。
「私の姉、私の母を殺した男だから」アキの言葉はディルを起こさないように配慮された小さな声だったが、それでもなにか俺の中に大きく響いた。
「そうか」
「その子をこんな目にあわせたのも」
「そうだな」俺は小さく呟く。考えてみれば、アキも、ディルも、ボストが取った理不尽な政策で、いろんなものを失ったのだ。
「私は許さない」そう呟いたアキの言葉からは確固たる意思のようなものが感じられて、俺は何と答えていいのかわからなくなる。
「あのリーフという女と、国境で揉めたと聞いた」アキが続ける。
「ああ、なんか言い争いになってさ」
「理由は聞いた。クリス少尉に」なにか表情らしきものが浮かんでいないかと思い、アキの顔を見るが、いつもと変わらない無表情がそこにあった。
「あなたは軍の犬ではないし、誇りがないわけでもない。それは、リーフが間違っている」いつのまにか立ち止まって、アキが俺を見ている。
「そして、リーフは、誇りがなくて、身分を隠していたわけじゃない。そうするしかなかっただろうから」
「だな。それは俺が悪い」
「そう」アキは視線を兵舎に向けると、また歩き出す。
「謝っとくよ。リーフに。このままってのもなんかスッキリしないしさ」俺がそう言うと、アキは、
「それがいい」と簡潔に答える。確かに、リーフとのあのやり取りの後、ボストでのカエタナの境遇を知るたびに、なんとなく罪悪感があった。売り言葉に買い言葉だったとはいえ、俺はセルーラで特に虐げられることもなく育ってきた苦労知らずのカエタナで、あいつは国にさんざん虐げられたカエタナだという点を配慮して考えれば、あいつが軍なんかに入っているカエタナに対して思ったことはわかるような気がする。アキから言われて、俺は、先延ばしにしていたリーフへの謝罪を今日、ディルを部屋に連れて行くときにでもしておこうと思った。
兵舎に戻ると、共有スペースの古いベンチに、クリス少尉と、ラルフ曹長が座っていた。ラルフ曹長は、クリス少尉になにやら真剣な表情で話をしている。俺たちの姿に気づいたラルフ曹長は、まじめな表情をしまいこみ、いつもと変わらない笑みを浮かべると、俺たちのそばまで歩き、俺の背中のディルを覗き込む。
「なかなかいい面構えだな。七歳で国境越えか。いい兵隊になるかもしれん」そんなことを呟いている。
「曹長、まだ七歳ですよ」俺がそういうと、
「関係ない。だめなやつはいくつになっても兵隊には向かんし、向くやつはこのくらいの年でわかる」という。
「この子より、連れの女のほうが兵隊に向いていると思います。ナイフでも教えてみてはどうですか」
「連れ?ああ、あのカエタナの女か?」ラルフ曹長はなにかを思い出したようなそぶりでさらに続ける。
「あれも向いてるな。アキとはまた違う意味で兵隊向きだ。お前、殴られたんだって」すこし楽しげにラルフ曹長は言う。
「すこしひどいことを言ってしまいまして」
「そうか?俺はお前が犬呼ばわりされたと聞いてるぞ。ま、どちらにしろ、カエタナ同士だ。さっさと仲直りすることだな」
「アキにも言われました」俺がそう言うと、ラルフ曹長はすこし驚いた表情で、俺の後ろのアキを見る。アキはラルフ曹長の視線を浴びてもほとんど表情を変えず、まっすぐラルフ曹長を見返している。
「女に謝るのにはコツがある」ベンチに座ったままのクリス少尉が俺を見ながら、いたずらを思いついた子供のような目で語りだす。
「ちゃんと、これこれこういう理由で自分が悪かったです、というところまで考えていかないとだめだぞ。ただ謝っても、何が悪かったと思ってるの、で終わりだ。ちゃんと考えてるか?怖いんだぞ、怒った女ってのは。猪のほうがましだ」
「少尉の猪狩りよりは容易だと思います」俺はそう答える。少尉は俺の返答を楽しげに聞いている。へらへらした笑みを浮かべながら。
「ディルが起きてしまう。早く連れて行かないと」アキが俺の背後で小さくそう言った。確かにその通りだ。俺は兵舎の奥のリーフとディルの部屋まで歩いていく。
ドアの向こうからは物音ひとつしない。隙間から光が漏れていないところをみると、もう寝ているのかもしれない。俺は、かるくドアを二回ほどノックする。なにかが動く音が聞こえて、足音が近づいてくる。ドアが半分ほど開き、リーフが不審なものを見るあからさまな目つきで俺を見た。背が俺と頭ひとつ分ほど違うので、銀髪の下から睨みつける目が、三白眼の上目遣いというなんとも凄みのあるものになっていて、俺はアキに一緒に来てもらえばよかったなどと、臆病極まりないことを思った。
「なに?」不機嫌を絵に描いたような声でリーフが口を開く。
「ディルを連れてきた。寝てるんで、ベットまで運びたい」俺がそう言うと、リーフはドアを開け、手のふさがっている俺が部屋に入ってしまうまでドアを押さえていた。
「電気くらいつけろよ。まだ九時だぞ」俺はディルを急ごしらえの簡易ベットに寝かしながらそう言う。
「……」リーフは無言だ。顔は見えないが、どうせ例の不機嫌な顔のまま、俺を睨んでいるんだろうなと想像する。
「国境で、俺が言ったこと覚えてるか?」俺はそのまま目をあわさずに話を切り出す。あの表情で睨まれると、また喧嘩になりそうな気がしたからだ。
「忘れるわけないでしょう。あなた、そんなこと言いに来たの?不快だから出て行って。すぐに。どうせまた、私に喧嘩を売りに来たんでしょう」本当に不快でたまらないといった声が聞こえた。俺はため息をひとつついてから、口を開く。
「俺はボストのことはよく知らない。カエタナが結構差別されているって話は聞いたことがあったけど、今日、ディルにクライドっていう身分があることやら、配給の話やらを聞いて、カエタナの境遇も少しだけ実感できた。本当に少しだけどな」
「だから、何?。知らなかったから許してくれってわけ?」取り付く島がないっていうのはこういうことなのだろう。
「別にそういうわけじゃない。悪かったって言いたいだけだ。俺の配慮が足りなかったと思う。本当に悪かった」俺はようやくリーフのほうを振り向く覚悟を決めた。どうせすさまじい目つきで睨んでいることだろうが。俺は意を決して振り向いた。リーフは、不機嫌そうな声とは裏腹に、驚いたことに、目が涙で潤んでいた。睨んでいると思った目つきはひどく弱々しげで、肩は小さく震えている。俺は想像とあまりに違うその表情に戸惑う。
「私は、好きで隠していたわけじゃない」声が震えていた。リーフは顔を両手で覆うとそのまま、ベットに座り込む。そして、無言のまま、泣いていた。俺は何をどうしていいものかわからず立ち尽くしていた。リーフが顔を両手で覆ったまま、呟くように口を開く。
「十七年間、この髪を見られるたびに、いじめられた。石を投げられたこともあった。一回も会ったことが無いような人に。私、何にもしてないのに。好きでカエタナに生まれたわけじゃないのに。知ってる?カエタナの銀髪って、白髪染めとかじゃ染まらないのよ。どうしたって、あのまんま」
「……知らなかった」俺はそう答える。
「セルーラじゃ隠さなくていいもんね。クリス少尉から聞いた。こっちじゃまったくカエタナは迫害されないって。よかったね、こっちに生まれて。私みたいにひねくれなくていいもんね。あんな不恰好なウィッグでごまかさなくても、誰もあなたを虐げないから」堰を切ったように小さな呟くような声でリーフが続ける。
「本当に悪かったと思う。俺が全面的に悪い。苦労らしい苦労もしてないような奴にあんなこと言われれば、平手打ちのひとつもしたくなるよな」俺はそう言って、リーフのそばまで歩く。
「横、座っていいか?」俺はためらいがちにそう聞いた。リーフは無言で頷く。
「なんで、ボストとセルーラでこんなにカエタナに対するあたりが違うんだ?」俺はリーフになるべく優しく聞こえるように注意しながら聞いた。
「……四十年前、連邦ができるときに、セルーラはエイジア、ボストと戦争になったでしょう?そのとき、ボストのカエタナはセルーラに内通したの。それがきっかけ。もともと、仲はよくなかった。ボストは身分の厳しい国だし。でも、カエタナに対する迫害がひどくなったのは連邦ができてから」リーフが多少は落ち着いた声でそう答える。相変わらず顔は両手で覆ったままだが。口調を聞いて俺は少し落ち着く。
「そうか。調べりゃわかるようなことを知らずにいた俺が悪いな。まかりなりにも国境勤務なんだし、カエタナである以上は、ボストでおなじカエタナがどんな目にあっているかくらい知っておくべきだった。無知な上に、あんな口を利いて、本当に悪かった」俺はリーフに向かって座りなおすと頭を下げる。
「もういい。わかったから」リーフが頭を下げたままの俺の肩に軽く手を置いたのがわかった。俺は頭をあげ、リーフを見る。俺の背後の窓から、回転式のサーチライトの明かりが差し込んで、一瞬、リーフの銀の髪と白い肌を映し出す。目が真っ赤になっていて、不機嫌な強気そうな第一印象とはまるで別人のような弱々しげな十七歳の年相応な幼い顔が見えた。その顔がなんだかひどく脆い美しさに思えて、俺は胸が詰まるような切ない気持ちを覚えていた。
「私もひどいことを言った。ごめんなさい」リーフが俺から目をそらして小さく呟いた。
「いい。気にするな」俺はそう答える。
「セルーラに生まれたかった。聞いてたの。お母さんから。セルーラではカエタナも普通の仕事に就けて、いじめられたりもしないって。私信じられなかった。また気休め言ってるんだって思ってた」リーフが服の袖で、涙をぬぐいながら口を開く。
「でも、ラシュディおじさんが亡命を決めたとき、とてもうれしかった。セルーラに着いたら、何になろうって考えてた。でもね、国境であなたを見たとき、私、あんなことを言ってた。うらやましいのと、不安なのと、逃げてきた後ろめたさが一緒になって、気づいたら口に出てた」
「もういいって。気にしてないっていったろ」俺はいたたまれなくなって早口にそれだけを口にする。
「……ごめんなさい。犬とか、誇りがないとか。いきなり言われてもわからないよね」
「ほら、いきなり、俺の銃が引っかかってウィッグ落ちちゃっただろ。ずっと隠してたもんが気持ちの準備なしにあんな感じになればさ、誰だって焦る。本当に気にすんな。そこら辺がわかんなかった俺のほうが悪い。年下の相手に本気になって言い返すとかさ。大人気なかった」俺は早口でまくし立てる。まさかこんな展開になろうとは思っていなかった。リーフはしばらく黙っていたが、ふと、気がついたようにディルのほうを見ると、
「……ディルは、楽しんでた?」と聞いた。
「ああ、ご飯がおいしかったらしくてさ。うちの糧食はビクセン軍曹って人が仕切ってるんだけど、本当にうまいんだぜ。あ、そうだ、リーフも来い。明日、ディルと一緒にさ。クリス少尉に許可をとるから。こんな狭い部屋で、電気もつけないでいるから、気分が塞ぐんだよ。な、そうしよう」
「でも、私はディルと違ってカエタナだし、銀髪っておかしいでしょ。あなたは似合ってるけど、私、似合ってない。あんまり、人目につきたくないよ」リーフが下を向いたままそう呟く。
「そんなことないぞ。リーフは、あのウィッグより、いまの銀髪のほうがいい。綺麗だと思う」俺はお世辞じゃなくそう思っていた。さっき、サーチライトが照らしたリーフの顔は、掛け値なしに俺が出会ってきた女性の中でも上位にランクインする。
「本当に?」リーフは俺のほうを見て、不安げにそう尋ねる。
「本当だ。ビクセン軍曹もきっと喜ぶと思う。な、一回行ってみようぜ。気が晴れるから。缶詰ばっかだろ。ここ数日は?」
「うん」リーフが頷く。
「缶詰飽きただろ?」
「少し」リーフがそう言って少しだけ笑った。リーフの笑い顔は、正直、とても綺麗に見えた。
「じゃあ、決まりだ。明日、ディルと一緒に行こう。訓練終わったら、迎えに来るから」俺はそう言って立ち上がる。そのとき、俺はディルの枕元に置いた土産のドーナツの紙袋に気づく。俺はディルの枕元にそっと近づくと、紙袋を手にとって、リーフに渡す。
「これ、ひょっとしてドーナツ?」リーフがうれしそうに俺に聞いた。
「よくわかったな。ビクセン軍曹がリーフとラシュディさんにってさ。食べてみろよ。うまいから」リーフは紙袋を開けて、ドーナツをひとつ取り出すと、小さな口で、ためらいがちに齧る。
「おいしい。ディル、喜んでたでしょう」リーフが懐かしげな目で、ドーナツを見ながらそう言った。
「ラシュディおじさんが一度小麦粉をもらってきたときにね、作ってくれたことがあったの。こんな風にかりっとした感じの。なんだか懐かしい味がする」
「そうか」俺はおいしそうにドーナツを食べるリーフを見ながら、ビクセン軍曹の心遣いに本当に感謝していた。リーフがドーナツをひとつ食べ終わるまで、俺は隣でリーフの顔を眺めながら、自分がなんだか妙にやさしげな気持ちになっていくのを感じていた。
「じゃあ、お休み。また明日な」俺はドーナツを食べ終わったリーフの肩を軽くたたいて、ドアに向かう。そのとき、俺のシャツの背中にほんの少しの力がかかったような気がして、俺は振り向く。立ち上がったリーフが指先でつまむようにして俺のシャツに手をかけていた。
「どうした?」俺はリーフにそう聞いた。リーフは俺から目をそむけたまま、少し恥ずかしげに俯いている。そして、
「明日からは、もう明るく生きようと思う」リーフはそう続けて俺の顔を見る。そして見る間に目をまた潤ませていき、低く小さな声で泣き出した。
時間にして十五分程度だったかと思う。リーフは、泣き止むと俺から離れた。
「ありがとう」とリーフは言った。その声や、表情はなにかを吹っ切ったような感じで、俺は少し安心する。
「もう、大丈夫か?」俺は少しかがんで、リーフの顔を覗き込んでそう聞いた。
「大丈夫。久しぶりに泣いたな。私」そう呟いて、リーフはシャツの胸元の涙でできた小さな染みを触る。
「セルーラで何になるか決めてるのか?」
「?」リーフが首を傾げて、俺を見る。
「決まってないんだったら、俺の田舎に紹介してやるよ。カエタナが多い町だから、きっと親身になってくれると思う。いいところなんだ。本当に」俺はリーフから目をそらして早口で言う。怒ってるリーフは怖くて直視できないが、いまのリーフはなんだか照れて直視できない。何か妙に綺麗に見えるし。
「亡命が認められたら、教えて。場所」リーフは俺のほうをはっきりと見て、そう言った。
「ああ。約束する」俺はそう答えて、ドアに向かって歩く。
「明日の夕方、迎えに来る。ディルと一緒に準備しとけよ」俺はリーフのほうを振り向いて、笑う。
「うん」リーフもまだ赤みがかった目で、俺をみて笑っていた。俺はドアを開けて、部屋から出る。ドアが閉まる瞬間に、後ろから、小さく
「おやすみなさい」とリーフが呟くのが聞こえた。