首都編 18章
「多少時間がありますね。もう中央広場に移動しますか?」車を駐車場に止め、そう尋ねた俺に、F二五は鮮やかな笑みを返す。俺たちは車を降り、涼やかさが増し、秋というよりも、もう冬の足音が聞こえてきそうな外気の中に身をさらす。もう少し厚着をしてくるべきだったな、と俺は思う。
「早めに着いていた方がいいでしょうね。いきましょうか」そう答えたF二五は俺の手を引いて、通りに面した商店街の喧噪の中を軽やかに走り抜けていく。雑然とした繁華街を抜け、中央街路二番道路をまっすぐに進むと、高層ビルの狭間に、鬱蒼とした森が見えた。首都中央広場の外周を囲む、針葉樹の森。その森の間に通っている細い路地を、F二五は歩調を落とさずに進んでいく。アスファルトからむき出しの地面に変わった路面に、足を取られがちな俺とはまるで違っている。ひょっとしたらブーツでも履いているのかと思い、俺がF二五の足下を見ると、そこにはワンピースの色と合わせた黒のハイヒールがあった。ハイヒールでこんな地面を軽やかに走り抜けるのも、ひょっとしたら諜報員に必要な資質なのかもしれない。
森を抜けた先は、石畳が一面に敷き詰められた広場になっていて、ここを、俺たちセルーラ国民は首都中央広場と呼んでいる。軽く千人を超える人間がいてもまだ余裕のありそうな広々とした石畳の空間の中央には、同じく石造りの豪華な噴水があり、吹き上げられる水の飛沫に日光が差し込んで、うっすらと虹がかかっていた。俺はその光景を見ながら、いまが休日で、一緒にいるのがリーフなら、さぞ楽しいだろうなと思う。残念ながら、いまは業務中で、一緒にいるのは多少二重人格の気がある諜報員だ。俺が足を止めて、ベンチに座ると、F二五はその横に腰を下ろし、俺の顔を見て、きつかったですか、と微笑む。
「はい。それにしても、よくあんなに走れますね。ハイヒールで」俺が多少呆れながらそう答えると、F二五は、不思議ですか、と更に俺に問いかける。
「俺は履いた事が無いですけど、ハイヒールってどうみても歩きにくそうですし」
「コツ、ですね。教えてあげましょうか?」半ば本気でそう尋ねている感のあるF二五に、俺は、結構です、と即答する。この人に指導されるのは演技の仕方くらいでもう十分だ。俺は解析施設から首都に至るまでの苦行に近い車中演技指導を思い出して、そう思う。
俺たちがベンチに座ってから、十分ほど経っただろうか、なにやら大人数の足音と話し声が噴水の向こうから聞こえてくる。特徴的な青の民族衣装。俺がわずかながら知っているファルト教団の信者のユニフォームだ。その衣装の、今にも地面に触れそうな長い裾が、風になびいてはためいている。今日は風が強い。狙撃には、最低の天候だなと俺はふと考える。別になにかを狙撃する訳でもないのだが。俺のそんな考えをよそに、F二五は優雅な笑みを浮かべつつも、目に鋭い光を宿らせ、噴水の真ん前に演台を設置し始めた教団信者に目を向けていた。やがて、F二五は視線を俺の顔に移すと、笑みを崩さないまま、口を開いた。
「もうすぐ、始まるようですね。一般人も増えてきている。なかなか人気のある教団のようです」F二五のその言葉に俺は小さく頷く。
集まった人数は、俺の目算では約四百人程度。俺とF二五は教団の用意した演台を、ベンチに座ったまま観察する。やがて、演台を挟んだ噴水の向こうから、あきらかに集まっている信者の衣装よりも豪勢な装飾があしらわれた衣装を身に着けた一人の女が現れ、ゆっくりと演台に立った。長い黒髪が風になびき、衣装とともに、揺れている。その女の顔には、楕円形の板に目の穴と口の穴だけを空けたようなシンプルな仮面が被せられていた。おそらく、教祖、もしくはそれに準じる幹部なのだろう。仮面のせいで、年齢や、容姿はまるで解らない。
その女はマイクを手に取ると、酷くかすれた、老婆のような声で、語りだす。
「ファルト教団、神の家族になりし信者、そして、家族への門を叩こうとしている皆さん。今日はこの場にお集まりいただき、とても嬉しく思います。私はファルト教団開祖、神の最後の預言者、リオ。皆さんに、偉大なる神の言葉を伝える者です」平坦な、感情の抑揚を感じさせない声。その声がマイクを通じて、質の悪いスピーカーからノイズまじりに吐き出されていく。
「今、セルーラは大きな国難の中にあります。ボストとの戦争、そして、エイジアとの共闘。すべては、神に反する者達の仕組んだ、大いなる罠。反神の者たちが目指すのは、連邦、そして、セルーラの崩壊。私たちは皆、反神の者達の生け贄となろうとしている。戦争の殺戮と、破壊の中で」
また、大きく出たな、と俺は思う。もともと、俺は時折祭りの日にブルームの水神宮を参るくらいの信仰心しか持ち合わせていない。目の前で大げさに語りだした開祖だか預言者だかの言葉はまるで胸に響かない。陶酔するように開祖を見上げる信者達と、その周りで、好奇心に満ちた視線を向ける一般人達。その間の溝は、相当に深いだろうと俺は想像する。
「もうすぐ、雪が降る。ただの雪ではない、争いと血に汚れた、赤い雪が。憎しみを喚起し、夜の暗さを彩るその雪が、連邦を深く包んでいくでしょう。セルーラは、その雪の下で、ただ、冷たさと暗さに覆われた世界に包まれる」
その後、一時間近く、なんだか宗教的な修辞に彩られた警告を、その開祖は並べ立て、やがて最後に、家族よ、警戒せよ、と一言叫び、演台を降りた。幾人かの信者が、ボディガードのように開祖の周りを囲み、何かに追い立てられるように、広場を出て行こうとしている。俺はベンチから立ち上がり、F二五の方を見る。F二五の表情からは笑みが消えていて、ただ静かな視線が、噴水の前に集まった信者と一般人達の群れに向けられていた。
「追わなくてもいいんですか」俺がそう尋ねると、ええ、とF二五は答えて、俺に視線を向ける。
「しばらく、待ちましょう。そのうち信者からのアプローチがあると思います」俺はF二五のその言葉に頷き、再びベンチに腰掛けた。
ベンチから観察するに、どうやら信者達は、一般人に何かが印刷された小さな紙片を配っているようだった。やがて、俺たちの姿に気付いたのか、一人の若い男性信者が青い民族衣装の裾を揺らしながら、こちらに向かって歩いてくる。俺とF二五は座ったまま、その信者が近づいてくるのを待つ。信者は俺とF二五の前に立つと、大きく両手を広げて、どうでしたか、と聞いた。
「感銘をうけました。世に対する警句の数々。あなたがたの志がよくわかります」穏やかな笑みを浮かべながら、F二五がそう答えると、信者は得意げな笑みを浮かべて、そうでしょう、と言った。俺は吐き気を催しそうになる。こういう訳の分からない物に陶酔できる人間には、正直、お近づきにはなりたくなかった。
「これをどうぞ。我々の教団では、常にあたらしい家族を求めています。救いは、われわれファルトの側にあるのです」男はそう言うと、右手に持っていた小さな白い、正方形の紙片をF二五に差し出す。F二五がそれを受け取ると、男は、待っていますよ、と優しげに声をかけ、再び、信者の群れの中に戻っていく。
F二五はその紙片をしばらく眺めて、俺にそれを渡した。その紙には、小さな字で、時は来た、と書かれており、裏側に、酷く簡潔な地図が書かれていた。この教団の教会か何かなのだろう。俺はシンプルなその紙片をF二五に返し、ため息をつく。
「どうしたものでしょうね」F二五が俺に問いかける。その様子は、なんだか俺がどうする気でいるのかを試しているように見える。
「行くか、行かないか、二つに一つでしょう」俺のその回答にF二五は静かに首を振る。
「情報、というのは、相手の懐に深く入り込まなければ、得られないのですよ」俺はF二五のその言葉を聞いて、気分が塞ぐ。予想はしていたが、F二五は、ここに行ってみる気なのだろう。教団の本部に。
「まあ、いきなり暴力を振るわれたりということはないでしょう。そんなに構えなくても大丈夫ですよ、ジョン?」しばらく忘れていたジョンという俺の偽名で呼びかけられて、俺は一瞬戸惑う。その様子をF二五は不満げな表情で眺める。
「……あれだけ練習しても、まだ、慣れないのですか?」俺は、いえ、そういうわけでは、と慌てて答える。また、演技指導などを始められても困る。
「まあ、いいです。広場から信者がいなくなったら、この地図の場所に移動しましょう」俺がF二五のその言葉に頷き、ベンチの背もたれに寄りかかると、F二五は、何かを思いついたのか、急に真剣な表情になって、ジョン、とまた呼びかける。
「なんですか」俺がそう聞くと、F二五は俺の耳元に唇を寄せる。真剣な響きのささやき声が俺の耳に届いてくる。
「ナイフは携帯していますか?声に出して返事をしなくてもいいです。持っているなら頷いてください」俺はジャケットの内ポケットに苦労して固定したナイフの存在を思い出す。それは確かな重みを有したまま、俺の脇にある。俺はその重みをもう一度確認してから、頷く。
「いまから、少し移動します。もし、誰かが付けてきているようだったら、排除をお願いします。殺す必要はありません」F二五はそう言うと立ち上がり、来た時と同じように俺の手を取ると、広場の周りに茂る針葉樹の森に向かって、ゆっくりとした歩調で歩き出した。一体何をしようとしているのかが解らないというのは、不安なものだな、と俺は思う。出来るだけ平穏に事を終える事ができれば言う事はないが、どうも、そういう訳にはいかなさそうな予感が、俺の胸を覆っていた。