表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国境の空  作者: SKYWORD
4/96

国境編 4章

 基本的に、国境警備隊の業務は、監視と、訓練の二つである。わが班も例外ではなく、休暇日以外は詰め所でライフルを持って数時間の立ち番か、グラウンドで駆け回って訓練かの二者択一である。俺もこの部隊に来て数ヶ月になり、それらの警備やら訓練やらにようやく慣れ、基地内の色々なしきたりや規則もいちいち指導を受けずにこなせるようになってきていた。班の連中のこともそれなりにわかってきた部分が多い。アキ、ルパード、グリアムからは、特にいろいろな事を教わった。年も同じ、班も同じ。仲が良くなるのにほとんど時間はかからなかった。


「で、どうなんだよカイルは」俺の横で暇そうにライフルを抱えているルパードが聞いてくる。現在我が班のグリアム、ルパード、そして俺は国境警備詰所にて、鋭意国境侵犯の監視中だ。その一環で、俺たちは暇を持て余したグリアムが提案した国境地帯にある野生動物生息地帯への偵察行動案を俺たちは結構真剣に検討していた。こう書くとなにかまじめな任務のように見えるが、実のところはここらに生息するシマウマやらの野生動物を見物に行きたいというグリアムの子どもじみた要望をいかに任務に組み込むかという軍隊としてはあるまじき動機から発した案である。

「いいとは思う。クリス少尉に上申してみろ」俺は国境の地平線をぼんやりと眺めながら返答する。それにしても国境がこんなに暑いとは思っても見なかった。発案者のグリアムは若干日射病気味らしく、ベンチにだらしなく寝転んでいる。

「ラルフ曹長がみたらぶっ飛ばされるぞ」ルパードがベンチの淵をかるく蹴りながら言う。

「大丈夫だよ。兄貴は短期休暇中だから」グリアムは背伸びをして起き上がる。

「昔の上官の葬式だと。首都まで行くらしい。多分戻りは明日だよ」のんびりとした目つきでグリアムは煙草を取り出し、一本を自分の口にくわえると残りの箱を俺に放った。俺はそこから一本を取り出しルパードに回す。

「動物なんか見れるのか。ベルトラインなんだろ。六年前のミサイルやら砲撃やらですごい有様って聞いてるけどな」俺はグリアムを見下ろしながら言う。ベルトラインというのはボストとの国境地区の中でも、六年前の侵攻で特に被害のひどかった地区の事だ。行っても陰鬱な光景が広がっているだけなので、今となっては、戦没者慰霊祭の時以外にはあまり人が出入りする場所ではない。

「それが、結構いるらしいんだよ。水場があるらしくて」

「誰から聞いたんだ」ルパードが横から口を挟んでくる。

「クリス少尉が言ってたんだ。この間士官が大勢で国境視察にいってたろ。クリス少尉は実戦時のための偵察行動のためとかで単独行動を上申したとかいってたけど、たぶんサボリだな。まあ、そのクリス少尉が単独行動でさぼっていらしゃったその横をしまうまが大量に駆けていったそうだよ。いざというときは乗せてもらうかなとか言ってたけどね」一体あの人は何をやってるんだ。

「クリス少尉大丈夫なのか?上からにらまれるんじゃないかそんな事してたら」

「あの人は出世とか興味ないっていってたよ。軍人とかなるんじゃなかったなあとかよくこぼしてるし。今度一緒に酒でも飲みにいってみたら。沢山聞けると思うよ。その手の話」グリアムはベンチから立ち上がると無線機の方に歩いていく。

「国境戦線をまだよく知らないカイル伍長のために、午後の国境巡回の際にベルトライン国境線付近五キロの範囲を視察したい。という感じでどうかな」グリアムが無線機のマイクを持ち上げながら俺とルパードに聞いた。

「いいんじゃねえの。それで」ルパードが水筒にざばざばと水を注ぎながら答える。グリアムはその返事を聞くと、無線機の交信ボタンを押す。

「……こちら国境警備司令部」耳障りなノイズと混じって、先方の声がスピーカーから流れる。

「国境警備一二九班のグリアム伍長であります。一二九班クリス少尉に意見具申があり、連絡いたしました」グリアムが流暢に話す。

「……しばらく待機せよ。無線を回す」スピーカから派手なノイズが響く。こんな無線機で、実戦時は大丈夫なのだろうか。いきなり不通になって、援軍も呼べないまま単独戦闘なんてことはできれば勘弁してほしい。

「こちらクリス」聞き慣れたクリス少尉の声が響く。

「グリアムです。本日の午後の巡回時に、ベルトライン付近で視察をさせていただきたいのですが」

「理由は」

「カイル伍長はまだベルトラインに不慣れです。一度見ておいた方がいいと思いまして」グリアムは俺の方をみて何だか妙にさわやかな笑顔を浮かべている。

「了解した。ボスト国境線警戒ライン一キロ以内には近づかないように。視察時間は二時間。帰隊時間は四時から六時に変更」

「了解しました」グリアムがガッツポーズをし、無線機のマイクを元の位置に戻そうとしたそのとき、スピーカーからクリス少尉の笑いを含んだ声が響いた。

「しまうまを追っかけて国境を越えたり、帰隊時間を過ぎたりといったことの無いように」何もかもお見通しじゃないか。グリアムも、ルパードもほぼ同時に無線機のスピーカーを振り返った。


 目的の地点までは、徒歩で二時間はかかった。いい加減暑さに体が根をあげ始める頃、グリアムの言っていた水場らしきものが見えてきた。

「おい、あれか?」俺はグリアムに聞く。グリアムは最後尾をのろのろと歩いており、とても発案者とは思えないざまをさらしていた。

「多分、あれだ」どうにもこうにも体が動きませんと言う表情でグリアムが答える。あたり一面は岩場であり、動物の影も形も見えなかった。

「野生動物なんて見あんたんねーぞ。どういうことだよ」ルパードがグリアムに不機嫌に言い放つ。ルパードは暑さに強いらしくあまり疲れているように見えない。うらやましい話だ。

「シマウマが走っていったって聞いたんだけどな」グリアムはぜいぜいと聞き苦しい呼吸音まじりに言う。とりあえず休憩した方が良さそうだと俺は判断する。

「ルパード。少し休もう。あそこの岩場の影で何分か休憩ってことでどうだろう」俺はルパードに言う。グリアムはどうせ賛成するだろうから意見は聞かない。

「そうだな」ルパードは日陰の出来た若干涼しそうな岩場を指差す。


 俺、ルパード、グリアムはライフルを地面に放り出し、だらしなく寝転がる。大体どうしてただの国境警備でこんなに俺たちは疲れ果てているのだろうか。詰め所で休んで、国境を歩いて、兵舎に帰っていればおそらくこんなに疲労する事もなかったのに。

「戦争が起きない事を願うよ。絶対こんなとこを延々歩いたり走ったりだろ。たまに止まれば銃撃戦とかな」俺はそう言って水筒を口につける。ぬるい水だが、こんな状況だといつもの数倍美味しく感じられる。

「クリス少尉は単独で動いてここまで来たんだろ。あの人ああ見えて体力あるんだな」グリアムはそう呟いて放ったままのライフルを手に取る。

「あの人、士官学校では結構優秀だったらしいぜ」ルパードは迷彩服の砂埃を払いながら答える。

「なんで優秀な奴がこんなところで班長なんてやってるんだ」俺は疑問を口にする。

「なんでもかんでも思った事をすぐに言っちまうだろ。あの人。めんどくさい事はすぐ後回し。優秀でもあれじゃあな。聞いた噂じゃ、師団演習でも自分の小隊全部でエスケープして猪狩りをしてたらしい」

「なんだそりゃ。ばれなかったのかよ。それ」

「うまい具合に敵師団、味方上官から隠れながら、猪狩りをしてバーベキューだったそうだ。演習終了の直前まで隠れて、最後に敵師団の背面を奇襲して大混乱させたってよ。功績は大きいが、素行に問題ありってところだったらしい。とても三日間の演習をやってた部隊とは思えない動きだったらしいぞ。そりゃそうだよな。さぼって猪食ってりゃ。ほかの師団は戦争ごっこ中だった訳だし」

「懲戒ものだろう。それ」

「それがなあ。敵師団の中枢部を奇襲して最大の勝因を作っちまったらしくてな。功績考えると懲戒できないってとこだったらしい」ルパードは水筒を傾けながら答える。上層部も扱いに困った事だろう。と言いたげな目つきをしている。

「ま、担がれた可能性も高いな。クリス少尉に」俺はグリアムに言う。

「えっ、なんで」

「なんでもなにも、俺たちがどうせ暇を持て余すだろうって事くらい考えりゃわかる訳だし、どうせなら嘘の一つでもついて訓練代わりのハードなピクニックでも楽しませようって腹なんじゃないか」ルパードから聞いたクリス少尉の話が本当であれば、それくらいのいたずらはやるんじゃないかと思う。そんな事を俺が考えていると、


「いくらなんでもそこまではやらないな」


と、いきなり、俺たちが寄りかかっていた岩場の上から声がして、俺たちは一斉に振り向く。そこには今現在の話題の主、クリス少尉が唇の端だけをすこし歪めて笑いながら立っていた。俺たちは上を見上げたまま、ぽかんと口を開けて、クリス少尉を眺めていた。


「で、シマウマは見れたのか」俺たちの所までおりてきたクリス少尉が手頃な岩に腰掛けてグリアムに聞く。

「いえ、岩しか見てません」グリアムは答える。

「俺のうわさ話も結構だが、視察はどうした?地理の調査で土地勘を養うのは大事な事だぞ」クリス少尉はそう言って疲れきっている俺たちをみて笑う。

「そういえば、猪狩りは楽しかったな。あれ美味しいんだよ。食べたことあるか?」次は俺に聞いてくる。

「は?俺は猪は食べた事がありません」俺は突然の質問に驚いてそう答える。

「ナイフでな、猪の後ろからとびかかって首を狙うんだ。脊髄を一撃でやらないと反撃に遭う。いい訓練になるぞ。格闘戦の」なんと答えればいいのかよくわからない事を言われ、俺は返答に困っていた。ルパードがその様子を見ながら口を挟む。

「少尉が捕まえたのですか?」

「無理無理。出来る訳ないだろ。そんなの」クリス少尉は大きな声で笑っている。

「あれ凄いんだぞ。力強いし。中途半端に刺さったナイフ掴んだまま引きずられる奴もいてな。ライフルで狙おうにもあんなに暴れられるとねえ。とんだロデオだ。銃剣で刺し殺してやっとの事で終了だよ」はあ、としか返答のしようがない馬鹿げた体験談を聞きながら、俺は猪を捕まえてこいだとか、それ系のいかれた命令をいずれ聞くはめになるのだろうかと考えていた。

「まあ、いいか。猪は。そろそろ本題に入らないと」クリス少尉は俺たちを見て、すこしまじめな表情を作ると、口調を変える。

「敵兵とおぼしき人影を発見したとの報告があった。人数は三名。国境線付近を移動しつつ、越境している。経路を確認するに、おそらく一時間以内にこの地点付近を通ることが予測されるとのことだ。我が班は現在時間から準戦闘体勢で、当該地点で待ち伏せをする。交戦はなるべく避けた上で確保するのが望ましいが、敵からの攻撃の兆候があれば、戦闘能力を奪う程度に反撃する」いきなりのことで、俺も、グリアムも、ルパードも驚きのあまり何も口に出せない。

「まあ、相手は三人程度だし、なんか強力な武器を持ってそうだったら後退して応援を呼ぼう」口調をもとのくだけた感じに戻してクリス少尉は言う。簡単に言うが、とんでもない武器で武装していたり、特殊部隊の奴だったりしたら、そんな暇はないんじゃなかろうか。

「東の高台に行く。ここから五百メートルほどだ。周辺を四人で警戒する。発見次第相手に気付かれる前に背面に回り込み可能な限り武装状態その他を確認しよう」俺たちはライフルを抱え立ち上がる。なんにせよ、クリス少尉は有能という噂を信じるしかない。実戦でもそうであってほしい。おそらくルパード、グリアムもそう思っている事だろう。


 クリス少尉の指示で移動した高台は、いい具合に複数の巨大な岩が転がっていて、身を隠すのに最適だった。俺たちは岩の影に隠れ、それぞれ官給の倍率の低い双眼鏡で周辺警戒をする事になった。俺の担当箇所は東。それぞれの背中をカバーする布陣とはいえ、いきなり後ろから撃たれたらどうしようなどという臆病な考えを完全に消せる訳もなく、俺はなんとなく落ち着かない気持ちで前方の平原を眺めている。岩、砂、少量の植物から構成されている国境地帯では風が吹く度に細かな砂を巻き上げて俺たちを感触の悪い砂にまみれさせる。俺は口の中に残った砂の破片を感じつつも、唾を吐く音さえ敵に聞かれてはという考えもあり、あまり音を立てないようにライフルの引き金に軽く指を触れる。先に敵を見つければ、そして、相手が普通の兵隊であれば、多分俺の方が射程距離は長い。でも、俺は人を殺せるのだろうか。ためらいなく命令で引き金を引けるのだろうか。訓練と同じように。


「距離およそ三百メートル。敵影を発見」グリアムの声が背後からして、俺は驚く。グリアムの指差す方向から敵に見つからないように岩の影を抜けて、全員がグリアムの所に集合する。

「あれか」クリス少尉が呟く。安堵しているように聞こえたのは俺だけではないはずだ。双眼鏡で見た人影は兵士ではなく一般の民間人の服装だったからだ。スーツを来た初老の男と、若い女。そしてその女に手を引かれる小さな子どもだった。

「民間人に偽装しているのか。それとも、亡命か。微妙だな。奇襲がお得意のボストのことだ。偽装くらいはやりそうだ」クリス少尉がそう呟く。民間人に偽装、かと思う。たちの悪い戦法だが、不意をつくには最適だろう。油断している兵隊を自爆覚悟で殺すのであればなおさらだ。

「散開する。グリアムとルパードは敵背後に回れ。カイルは敵の進路前方に威嚇狙撃。俺も同行する。威嚇狙撃の銃声と同時に、敵に降伏勧告。武装解除する」指示を聞くと俺たちは一斉に動く。音を立てないように、そして可能な限り早く。


「敵前方数十センチに着弾できるか」クリス少尉が俺に聞く。敵までの距離は百メートルをきっているが、銃が狙撃銃ではなく普通のライフルである事を考えると不安は残る。当てろと言うのではなく外せという事だ。おそらく可能だとは思うが、俺は多少の逡巡をする。

「大丈夫です」俺はそう返答する。やれるかではなく、やるのだ。狙撃手なのだから。俺は、銃を構え、狙いをつける。思いのほか敵の影が大きく見える。少しの手のぶれが、着弾地点を大きくずらすだろう。リズムだと俺は思う。狙撃もナイフも体のリズムに会わせる事が出来なければ、ものにはならない。手の微細な揺れのリズムを俺は計る。そして、敵前方の小さな岩を照準がとらえたとき、俺は引き金を引いた。乾いた銃声が響き、敵がおののいて立ち止まるのが見えた。敵のちょうど三十センチほど前方の地面を俺の銃弾がえぐっていた。

「走るぞ」クリス少尉が岩場から躍り出て、敵の前方に躍り出る。銃を敵に向け、良く通る大きな声で叫ぶ。ルパード、グリアムも敵の背後に駆けてゆく。

「手を挙げて、武器を持っているのであれば足下に投げろ」その声は敵にも届いていたようだった。初老の男と、若い女が手を挙げ、こどもだけが何が起きているのかわからないと言った風で立ちすくんでいる。しばらくの間があって、初老の男が口を開く。

「亡命を希望する。私はボスト国立研究所、研究員のラシュディ。この二人は家族のリーフとディルだ」俺は安堵のため息をつく。とりあえず殺し合いにはならないようだ。

「私はセルーラ陸軍少尉 クリス。亡命を希望するのであれば、国境警備隊詰め所までご同行いただきたい。外務省担当課員を呼ぶまでの間、あなたたちを拘束する必要がある」クリス少尉が三人に向けたままそう言う。

「了解した」 ラシュディと名乗った男はそう答える。

「ルパード、グリアム、カイル。三人が武器を持っていないか確認しろ。ポケットの中までだ」クリス少尉がそう命令する。何度か習った身辺検査の手順に従ってやればいいだけのことだが、ラシュディはともかく、女と、こども相手の検査はかなりやりにくく、なるべく目を合わさないように俺は目を伏せていた。別に服を脱がすとかそういう訳ではないのでさっさと終わらせてしまえばいいのだが、なんとなく俺の視線は彼らの目を避けた。リーフと呼ばれた女の肩は小さく震えていて、あげている両手を少し揺らしている。

「失礼した。それでは同行していただく。残念ながら車両はない。詰め所までは歩いてもらう事になる」検査がおわると、クリス少尉が先ほどまでと比べると幾分柔らかな表情で通告する。三人は手を下ろし、俺たちに挟まれる形で歩き出す。そのとき、俺が肩に担ぎなおそうとしたライフルの台尻が隣を歩くリーフという娘の髪に触れ、台尻の金具に絡まった黒い髪が束になって地面に落ちた。驚いて俺がリーフを見ると、さっきまであった腰まで伸びている黒髪がなく、代わりに肩まで伸びた銀色の髪が風にたなびいるのが見えた。リーフは不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、忌々しげに俺を睨む。こんなウィッグで銀髪を隠す理由は一つしかない。カエタナであることを隠すためだ。ボストではここまでして身分を隠さなければならないほど、カエタナに対する迫害が強いのだろうか。

「カエタナか」俺はリーフにそう声をかける。リーフは俺から目をそらさない。そして、落ちたウィッグを拾おうともしない。他の二人、そして俺たち四人も歩みを止める。

「あなたもカエタナ?」リーフから、そう俺は聞かれた。どちらかと言えば敵意のこもった声で。

「ああ」俺は答える。

「セルーラのカエタナは、軍の犬にまでなるのね。民族の誇りはないの?それとも容姿以外はもうカエタナの魂は残ってないのかしら」ゆっくりと、俺を一瞥してリーフはそう言った。俺は犬呼ばわりされたことも、魂を売り払った男呼ばわりされた事もなかった。だからという訳ではないのだが、怒りと言ったものはあまり浮かんではこなかった。日々、侮蔑され続ければ、また違うのだろうが。ただ、俺はこの女に少しくらいは言い返してやろうと思った。言われっぱなしは性に合わない。俺も目をそらさずに冷静さを失わないように口を開く。

「こんなもので身分を隠しておいて、何が誇りだ?」足下に転がったウィッグを拾いあげてそう告げると、リーフは瞬時に目を吊り上げ、怒りに満ちた表情で手を振り上げる。女の小さな白い手が、俺の頬を打った。俺は避けようと思えば避けられたが、あえて避けなかった。叩いた白い手の置き場に困るような仕草をしながら多少の戸惑いを交えた表情でリーフは俺を見ていた。俺も目はそらさない。

「やめろ。二人とも」クリス少尉が短く叱責する。

「出自、関係を偽ると、亡命の申請にも響く。外務省担当課員には、そんな嘘はつかない事だ」少尉の言葉を聴いたのかどうか、リーフは例によって忌々しげな目つきでクリス少尉を睨んでいる。

「セルーラには、カエタナに対する差別はない。カエタナであることを隠すよりも、正直にボストであったことを話すほうが亡命の受け入れの可否にもいい影響を与えると思う」クリス少尉はリーフの敵意のこもった目つきをまったく気にする風もなく、そう言った。

「私は、情けを乞うつもりはないわ」俺たちから目をそらすと、リーフは小さな声でそう呟く。俺は何かを話す気にもなれず、そのまま立ち尽くしていた。

「いくぞ」クリス少尉の声がして、俺たちは歩き出した。そして、そこから基地に着くまで、俺たちは何も話さなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ