首都編 14章
しばらく救護班のテントで休んでいるうちに、俺の右肩の傷からは出血が止まった。痛み止めが効いたのか、何かに焼かれているようだった痛みも、ずいぶんと和らいでいる。
「カイル、今日はもう、家に帰れ」アキの横たわるベッドの横に座ったまま、クリス少尉がそう言った。
「……しかし、状況が、状況ですし」俺がそう口にすると、クリス少尉は俺の顔をまっすぐに見る。
「気持ちは解らないでもない。でも、今は帰れ。変に気が張ったまま仕事をすると、思わぬミスを犯す。帰って、ゆっくり休め」優しいが、有無を言わさない強さがこもった口調で、クリス少尉はそう言った。
気が張っているかと言われれば、そうです、としか言い様が無かった。初めて人を殺した感触から来る感情の混乱もあった。俺の軍服からは、血の匂いが隠しようも無く漂っていたし、目を閉じれば、脳片を散乱させて死んだあのボスト兵の顔が瞼に焼き付けられたかのように浮かんだ。かき消そうとしても消えるものでは無かった。俺は、ラルフ曹長に今ほど会いたいと思った事は無かった。実戦を経験している人間に、一体どうすれば、こんな感情と折り合いを付けていけるのか、教えてほしかった。
「お言葉に甘えて、失礼します」俺はそう言って、クリス少尉に一礼すると、救護班のテントを出る。考えが少しもまとまらないままで。
外に出ると、特殊作戦群のジープが何台も忙しく発車したり、駐車したりということを繰り返しているのが見える。おそらくボスト特殊部隊の残党がこれ以上残っていないか捜索しているのだろう。俺はジープの脇を通り抜け、とりあえず、いつもの情報部別室に向かう。血の匂いが消えないこの軍服だけでも着替えておきたかった。解析施設の玄関をくぐり、電気もつけずに、窓から差し込むジープのヘッドライトの明かりだけを頼りに俺は廊下を歩いていく。部屋のドアを開けると、数時間前にはここにいた筈なのに、何年もここを離れていたような奇妙な感覚が俺を包んでいく。ロッカーから替えの軍服とタオルを取り出し、血と泥で汚れた軍服を脱いで、ゴミ箱に放り捨てる。汚れの無い軍服を着ても、まだ俺は血の匂いを漂わせているように感じる。服だけじゃない、どこか人間の根本的な部分が血で汚れてしまったような気がした。
部屋に施錠して、俺は隣接する寮に向かう。警備の若い新兵に、シャワー室を使わせてくれないかと頼むと、俺とアキの件を知っていたのか、その警備兵は、俺に向かって敬礼し、どうぞ、と短く答える。シャワーの暖かい湯を浴びても、感情の揺らぎは収まる事が無い。頭から湯を浴び、髪から伝う雫がコンクリート張りの床に落ちて行くのを、俺は混乱した気持ちのままでずっと眺めていた。
寮を出て、玄関の脇に停めてある車に乗り込むと、気の乗らないまま、俺は車を発進させる。実家に帰ったら、みんな寝ていてほしいと俺は思った。こんな感情を抱えている姿を、俺は見られたくなかった。ブルームに向かって走る車の中で、俺は、国境にいた時に、人を撃つ姿だけはリーフに見られたくないと思った事を思い出す。その思いが大きく胸の中で膨らんでいく。内臓すべてが圧迫されるような奇妙な感触が、ハンドルを握る俺を包んで行く。
実家に到着した俺は、車を停め、音を立てないように庭を抜け、納屋に向かった。家の窓からはどこからも光が漏れていない、もうみんな寝ているようだった。屋根裏部屋のドアを開け、ベッドに寝転ぶと、柱時計の秒針が進む音だけが部屋に響く。時計は午前三時を指していた。俺はため息を一つつくと、目を閉じる。
どのくらい時間が経ったのだろう、ドアをノックされた音がしたような気がして、俺は驚く。気のせいだろうと思い、無視したままベッドに横たわっていると、また、ドアをノックする音がする。俺は体を起こし、ドアを開ける。ドアの向こうには、目をまっ赤にしたリーフが立っていた。
不安と安堵が入り交じったような目で俺を見上げるリーフを目の前にして、俺は笑顔を作ろうとする。内心の混乱を誤魔化せるだけの完璧な笑顔を。やっと浮かべた笑顔が、そうなっていたかは解らない。気づかせるな、と俺は心の中で何度も呟く。
「……大丈夫だった?」リーフが微かに震える声でそう聞いた。
「ああ、大丈夫だよ」俺は明るく答える。
「テレビで、ずっと基地が襲われたってニュースがあってて、おじさんもおばさんも心配してた」リーフがそう言って目を伏せた。そして、か細い小さな声で、部屋に入ってもいい?、と呟く。
リーフと俺は、ベッドの縁に腰掛けたまま、しばらく互いに無言でいる。時折リーフが俺の顔に目を向けるが、俺がそれに気付いて笑みを返すと、また目を逸らしてしまう。やがて、何か意を決したようにリーフは俺を見ると、なにかあったの、と聞いた。
「何も、ないよ。基地に侵入はあったけど、すぐに全員捕まった。怪我もしてないし」俺は作り笑顔のままそう答える。
「本当に?」そう言って、リーフはなにか吸い込まれてしまいそうな目で俺を凝視する。俺は自分の演技力の無さを憂う前に、リーフの勘の鋭さに驚く。どう返答したものか、俺は戸惑ってしまう。
「気のせいだろ。何も無いって」俺がそう呟くと、リーフは納得がいかないのだろう。俺に対する労りと、不満が半々に混ざった目つきで、無言のまま俺を見る。俺は早く会話を切り上げてしまわないと、と思う。これ以上リーフと話していると、洗いざらい喋った上に、情けなく縋り付いてしまいそうだった。
「朝、早いだろ。もう寝ないと」俺は作り笑顔のままで、リーフに部屋を出るよう促す。リーフは、立ち上がって、部屋を出て行くかと思いきや、何故か、座ったままの俺の前に立つ。いつもと逆で、俺がリーフを見上げるような格好になった。
「……ニュースは大げさだったりするから。そんなに心配するな。大丈夫だから」俺が取り繕うようにそう言うと、リーフは静かに首を振る。
「……今のカイルはすごくつらそうだよ?」リーフはそう言って、さらに言葉を続ける。
「昔、ラシュディおじさんもそんな顔してた。一人の時はつらそうな顔してるのに、私や、ディルが話しかけると笑顔で振り向くの。今のカイル、一緒に見える」
俺は、何も答える事が出来ずに、唇を噛んで、床に視線を落とす。リーフの顔を見れなかった。ボストのあの兵隊を殺した事、右肩の怪我、そして、内心のどうしようもない感情の混乱。どれもリーフだけには悟られたくなかった。何かを言わなければと、リーフを安心させなければ、と思うほど、なんと言っていいのか俺は解らなくなる。
「もう、いいから。部屋に戻って、寝ろ」俺はそう呟いて立ち上がり、優しくリーフの手を取って、部屋の外まで連れて行こうとする。リーフはその手を振り払って、だだをこねる子供のように、何度も首を振った。ふと目に入った俺の右肩には、うっすらと血が滲んできていた。出血が完全には止まっていなかったんだろう。俺はリーフがそれに気付かないように俺は立ち位置を変えようとするが、その刹那、リーフは俺の右腕を掴んで、俺の軍服の右肩を見た。どうしていつもの黒の戦闘用軍装を着なかったのだろうと俺は後悔する。いま着用している薄手の、白い制服の上着では、血が滲んできている事が簡単に解ってしまう。苦い表情を浮かべたまま、俺はリーフから目を逸らし、口をつぐむ。
「怪我、でしょ?」リーフが少し怒ったような口調で言う。俺は、たいした怪我じゃないんだ、と目を逸らしたまま答える。
「どうして、隠すの?」その言葉に俺は何も答える事が出来なかった。
とりあえず怪我を見せろと半ば強引に俺に迫り、救急箱を取りに行ったリーフは、数分後にまた部屋に戻ってくる。上着を脱がされランニングシャツだけになった俺の右肩は、赤黒く変色したガーゼと包帯で、酷くグロテスクに見えた。リーフは眉をひそめながら、ガーゼと包帯を外し、救急箱から取り出した真新しい白いガーゼを傷にあてがい、包帯を巻き付けて行く。
「痛い?」包帯を巻き付けながら、リーフが俺の顔を覗き込んでそう聞いた。
「大丈夫」俺はそう言って、俺の顔を覗き込んできたリーフから目を逸らしてしまう。時々、俺の腕や肩に触れるリーフのひんやりとした柔らかい手のひらの感触が傷の痛みを和らげていくような気がする。
「前に、カイルにも手当てしてもらったね、私」リーフがそう呟く。
「国境にいるとき、か?」俺の言葉にリーフが頷く。俺はあのときの事を思い出す。リーフの手を離さないと、初めて思った日だった。
「カイルは、私の世話は焼くくせに、自分が世話されるのは嫌なの?」リーフが少しからかうようにそう言って、俺の隣に座る。
「リーフは女の子で、俺は男だし、おかしいだろ。俺がリーフに助けてもらってばっかりとかになったら」俺がそう言うと、リーフは頬を膨らませる。
「おかしくないよ。私がつらいときに、カイルは側にいてくれたでしょ。カイルがつらい時も、一緒」そう言ってしまった後で、恥ずかしくなったのかリーフは赤面し、目を伏せた。リーフのその言葉は、何故か俺の胸を打った。作り笑いを浮かべ続ける事も、俺はいつのまにか忘れていた。
「……今日、初めて人を撃った」そう呟いて、リーフを見る。続きを促すかのようにリーフは俺の目を真剣な表情で見たまま無言でいる。
「ボストの兵隊相手に、アキと俺が戦闘になって、俺が一人、アキが一人、射殺した。その時に右肩を撃たれた」
嫌われてしまうのかもしれない。今までと同じではいられなくなるのかもしれない。それでも、隠し通して作り笑いを浮かべ続けるよりは、正直に話した方が良いような気がした。リーフには、特に。
「心配かけたくなくてさ、黙ってようと思ったんだ」俺は自分でそう言っておいて、半分は嘘だな、と気付く。リーフに言えなかったのは、人殺しだと思われるのが怖かったからだ。嫌われてしまうかもしれないと思ったからだ。
「リーフに、人殺しだと思われるのも、嫌だった」俺は、正直な気持ちを最後に付け足す。
「……あのね」しばらくの沈黙の後、リーフがためらいがちに口を開く。
「私、死んだのがカイルじゃなくてよかった。って思った。酷いことかもしれないけど」リーフは俺の手に、いつものように自分の手のひらをそっと乗せる。目を伏せたまま、リーフはそれっきり口をつぐんでしまう。
「聞かない方が、良かったろ?」俺がそう言うと、リーフは首を振る。
「黙っていられる方が、嫌」
「……こんな話でも?」リーフは俺のその言葉に頷きを返し、無言のまま、俺の首に両腕を回すと静かに抱きついて、回した腕に力を込める。
「カイルが人を殺すのはもちろん嫌だけど……、カイルが死ぬのはもっと嫌」リーフは俺の耳元でそう呟く。
俺の体に寄せられたリーフの体の体温や柔らかな感触が、俺の体中に残っていた緊張や圧迫感を、少しずつ和らげていく。俺はリーフを何度も抱き寄せる。その暖かさや柔らかさだけが、俺を人殺しの側ではない普通の人間の側に、留めてくれるような気がした。