首都編 10章
ブルームから、レーダーサイトへ通うようになって、二週間が過ぎた。俺はF二五と相変わらず周辺地理の調査を行い、アキは基地内の図面と毎日格闘している。クリス少尉に上げた俺たちの報告は参謀府で検討され、二日前に到着した特殊作戦群はそれに基づいて基地内に配置されていた。ボストからの攻撃はいつなのか、それが解らない日々が続く。クリス少尉は殆どまともに眠っていないようで、目の下に大きな隈を作った不機嫌な表情で、机の上に置かれた大量の書類に毎日目を通している。さすがにいい加減な目の通し方をする訳にも行かないのだろう。こんなに長期間、まじめに書類に目を通すクリス少尉を俺は初めて見た。
F二五はクリス少尉に毎日、国内で潜入が予想される場所を報告していた。ボスト特殊部隊の潜入場所を先に押さえられれば、攻撃を未然に防げるわけで、諜報部は血眼になって国内を探索しているという話だった。俺がF二五から聞いたところでは、グスタフから諜報部へは侵入している特殊部隊の大体の人数しか情報提供が無く、諜報部としても困り果てているのだ、ということだ。どちらにせよ、俺たちはいま出来る事を可能な限り迅速にやるしかなかった。
そんな中で、毎日、俺は十一時過ぎに家に帰り、翌朝七時に家を出るという生活を続けていた。毎日六時間の睡眠というのは微妙な所だと思う。体の中に疲れが少しづつ溜まって行くのが自分でも解る。家に帰ると、朝早く起きて仕込みをしなければならないだろうに、リーフが大抵リビングに降りてきて、その日あったいろいろな事を俺に話してくれた。睡眠時間との取引ではあるが、リーフと話していると、俺の疲れは多少和らいでいくような気がして、俺はリーフの入れてくれた紅茶と、まだ父さんの域までには達していないリーフが焼いたスコーンを口にしながら、毎日十二時過ぎまで起きていた。
「今日は、疲れたな」俺がそう言ってソファーにもたれかかり、背伸びをすると、リーフが紅茶を注いだカップを二つ、テーブルまで運んでくる。おつかれさま、とリーフが笑顔で言って、テーブルにカップを並べると、俺の横に座った。
「お前、ちゃんと寝てるのか。仕込み、早いだろ」俺がそう言うと、リーフは首を振って、大丈夫だよ、と答える。リーフはぎりぎりまで無理をしそうなタイプだけに、俺は時々心配になる。リーフの煎れてくれた紅茶を口にして、スコーンを齧りながら、俺はそう思った。
「なんか、上達したな。スコーン作るのもさ」スコーンは昨日のものと比べると香ばしさが増していて、店に出してもいいのではと思えるレベルだった。
「まだまだ、だよ」リーフは少し照れくさそうに目を伏せて、自分でもそのスコーンを一口齧る。
「もう、パン屋には慣れたか?」俺がそう聞くと、リーフが俺の顔を見上げて笑顔で頷いた。
「一個、聞いていい?」俺があらかたスコーンを食べ終わり、食後の二杯目の紅茶を飲み干そうとしていると、リーフがそう言って俺を見た。
「いいよ」俺の答えを聞いてもリーフはなかなか話しだそうとしなかった。やがて意を決したかのようにまっすぐに俺の顔を見据えると、口を開く。
「カイルは、いつかパン屋さんになるの?」リーフからそう聞かれて、俺は困惑する。母さんあたりに聞けとでも言われたのだろうかとも思ったが、今のリーフの様子を見るにどうもそうではなさそうな気がする。
「今は、どうするか考えてない。まだ父さんも母さんも元気だしさ」なんと答えたものかしばらく逡巡した後、俺はそう答える。
「パン屋さんになるかもってこと?」俺の顔を覗き込んで、リーフがさらにそう聞いてくる。
「解んない、な。俺、軍人だからさ。なにがあるかは解んないだろ」俺がそう言うと、リーフは少し怒ったような目で俺を睨んだ。
「何かあったらって?」
「いや、ほら、戦争、とかになったらさ。怪我するかもしれないし、死んじゃうかもしれないだろ」リーフは俺のその言葉を聞くと、相変わらず怒った目つきのまま、約束は、と呟く。
「約束?」俺がそう聞き返すと、リーフは、もういい、と言って膨れっ面になる。俺は何か怒らせるようなことをしたのだろうか。なんだかよくわからないまま、俺はなんと声をかけたものか戸惑ってしまう。考えてみればリーフが怒るのを見るのは最初あったとき以来、久しぶりのことだ。どうやら、俺はリーフのかんにさわるような事を言ってしまったらしい。
「……守るって言ったじゃない。死んだら守れないでしょ」俺から目をそらしてふくれたままで、しばらくの間黙りこくっていたリーフがやっと口を開いてそう言った。言われてみれば確かにリーフの言う通りだ。
「悪かった。ちゃんと、生きて帰ってこないと、駄目だよな。まあ、パン屋になるかどうかは解んないけどさ」俺がそう言うと、リーフは目をそらしたまま、そうだよ、と言う。泣いたりしていないだろうかと俺は心配になって、リーフの顔を覗き込む。幸い、泣いてはいなかったが、いまにも泣き出しそうな感じではあった。俺が、本当に悪かった、と繰り返すと、リーフはやっと俺の方を向いてくれた。
「ちゃんと生きて帰ってきて。危ない仕事なのはわかってるけど、それでも」リーフは若干怒りが残っている目で俺を見据えたまま、そう言った。
しばらく沈黙が続いた後、空になっていたリーフの紅茶のカップに俺がお茶を注いでやると、リーフは多少は機嫌が直ったようで、ありがとう、といつもの笑顔で言った。俺はほっとしながらポットをテーブルの上に置いて安堵のため息を漏らす。
「なんでパン屋になるか、とか聞いてきたんだ?」俺がそもそもの話の発端に触れると、リーフは首を振って、ちょっと聞いてみたかっただけだから、と呟く。それにしては妙に真剣に聞いてきていたような気がする。
「あのさ、やっぱり俺って軍人に向いてないように見えるのか?」俺がそう聞くと、リーフは俺の顔をひとしきり眺めてから、どうなんだろう、と言う。どうなんだろうと言われても、という感じではあったが、なんとなくリーフの言わんとするところは解るような気がして、俺はため息をつく。
「死んだじいさんがさ、軍人だったんだ。小さな頃から、武勇伝ばっかり聞かされててさ。なんか少し憧れてたとこもあって、高校出た後、軍に志願したんだ」俺は高校を出て、初めて軍の教育隊に入った時の事を思い出す。いきなりのハードな訓練に根を上げそうになったりはしたが、それでも、なんだか妙に楽しかった。
「で、あっという間に三年経って、二等兵から伍長になった。国境に転属になってお前にも会った。軍に行かなかったら、リーフには会えなかった。つらい仕事ではあるし、下手したら本当に危ない仕事ではあるんだけど、それでも、クリス少尉やラルフ曹長とかさ、お前とかアキとか、グリアムとルパードもそうだし、会えた事は本当に良かったなって思うんだ。ビクセン軍曹にしてもそうだろ。国境に行かなきゃあんなうまい飯は食えなかった」
「……後悔、してない?」リーフがためらいがちにそう言って、俺に視線を向ける。
「何を?」
「こんなことに巻き込まれた事」リーフが何かを必死にこらえているような表情で、そう言った。後悔、俺は自分に問いかけてみる。確かに仕事はハードになったし、人に簡単には相談できないようなことに巻き込まれているのも確かだった。でも、と俺は思う。もし、今、リーフの横にいるのが自分以外の誰かだったり、クリス少尉やアキと働いているのが自分じゃなかったら。正直、それはたまらなく嫌だ。
「後悔はしてない」俺ははっきりとそう答える。
リーフは、俺の返答を聞いてもしばらくは何も言わずに黙っていた。俺が黙ったまま俯いているリーフの右手にそっと自分の左手を重ねると、リーフはやっと目を上げて、俺を見た。何かに照れたような笑顔で。
「まだ、何か聞きたい事があるのか?」俺がそう言うと、リーフは、たくさん、と答えた。
「まだ、カイルの事も解らない事たくさんあるし。おじさんとおばさんの事も」
「ゆっくり、少しずつ聞けばいいよ。毎日夜更かしするはめになるぞ」俺がそう言うと、リーフは、そうだね、と呟いて、ソファーから立ち上がる。ふと時計をみると、もう一時になろうとしていた。
「明日、起きられるか?」俺が心配しながらそう聞くと、リーフは、カイルは大丈夫なの、と逆に問いかけてくる。
「大丈夫だよ。二人そろって寝坊なんかしたら面白いけどな」俺がそう言うと、リーフが、大丈夫だもん、と答える。そして、リーフは名残惜しそうな様子で笑顔を浮かべると、おやすみなさい、と言って、リビングを出て行った。
リーフと別れて、納屋に戻り、ベッドに寝転がると、睡魔があっという間に俺を包んで行く。生きて帰ってきて、というリーフの言葉が不意に頭に浮かぶ。必ず生きて帰ってこよう、と俺は思う。それはおそらく、簡単な事ではないのだろうけれど。それでも必ず。