首都編 8章
男が去った後の商店街を後にして、俺は家に向かって歩き出す。俺は、何度も煙草に火をつけ、ため息まじりの煙を吐いていた。
家に着いた俺は、ふと、腕時計を見る。午前一時。もう母さんも父さんもリーフも眠っているだろう。俺は皆を起こさないように、静かに鍵を開け、リビングに向かう。そのまま納屋に向かっても良かったのだが、せめて、風呂で汗くらいは流しておきたかった。俺はリビングのドアを開けて、電気も点けずに、ソファーにだらしなく座り込む。俺がしばらくの間そうしていると、二階から誰かが降りてくる足音が聞こえてくる。足音はリビングに近づき、そして、ドアが開いた。
「カイル?」リーフの小さな声がした。廊下の明かりがリビングに差し込む。
「まだ起きてたのか?」俺がそう聞くと、リーフは小さく頷いた。そして、そのまま静かにソファーまで歩いてくると、俺の横に座る。
「どうした?」
「……さっき納屋に行ったら、カイルがいなかったから。ちょっと、心配になった」リーフは小さな声でそう言った。相変わらず電気のついていないリビングは、廊下から差し込む明かりだけでかろうじて照らされていて、その明かりの一筋がリーフをかすかに照らしている。リーフは迷子になった幼い子供のような目で、俺を見ていた。
「ちょっと、飲みに行ってた。まあ、酒は飲んでないけどさ。昔の知り合いに会う約束をしてたんだ」俺は、とっさにそう嘘をつく。リーフは、そう、と呟いて、視線を膝に落とした。
「何か、用でもあったのか?」俺がそう聞くと、リーフはかすかに首を振って、俺の顔を見た。
「何かあったわけじゃないけど……」そう言って口ごもるリーフは、しばらく視線を泳がせていたが、やがて、また、視線を膝に落とす。
「心配かけて、悪かったな」俺がそう呟くと、リーフが俺と目を合わさないまま、頷いた。そして、右手をためらいがちに俺の左手に伸ばすと、柔らかい小さな手のひらを俺の手の甲に静かに乗せる。不安だったんだろうな、と俺は思う。あの娘は異国の地で一人です、と言ったボストの男の言葉が不意に思い出される。覚悟を持て、という言葉も。守りたいと思うなら、という言葉も。手の甲から伝わってくるリーフの体温を感じていると、その暖かさがなぜかひどく儚げに思えて、俺は胸が苦しくなる。
「今日、カイルが帰ってきたときにね。私、うれしかった。やっぱり、カイルがいないと、少し寂しいよ」リーフがそう呟いた。恥ずかしいのか、相変わらず俺と目を合わさないまま。
「本当は、もっと早く帰ってきたかったんだけどな。まあ、仕事、いろいろあってさ」
「わかってる」リーフが静かにそう言って、俺の手の甲に乗せていた手のひらを離した。俺の手から、その暖かい感触が離れたときに、俺は何とも言えない寂寥感に襲われる。俺は手を離したくなかった。出来うる限り長く。
気づくと、俺は、ほとんど無意識に、リーフを抱きしめていた。リーフは少し驚いた様子だったが、やがて、両手をそっと俺の背中にまわすと、顔を俺の胸に押し付ける。リーフの温かくて柔らかな感触が俺の腕や、胸に伝わってくる。
「リーフ」俺がそう呼びかけると、なに?、とリーフが俺の胸に顔を埋めたまま、呟くのが聞こえた。
「セルーラとボストは戦争になるかもしれない」俺がそう言うと、リーフは無言のまま背中に回した手に力を込める。
「ひょっとしたら、セルーラが負けて、軍はリーフを保護しきれなくなるかもしれない。でも、さ」俺はリーフを抱きしめていた腕を少しだけ緩める。リーフは、顔を上げ、いまにも泣き出しそうな目で、俺を見る。
「もし、セルーラが無くなったとしてもさ、……俺は、リーフを守るから」俺はリーフの目を見てはっきりと言った。ちゃんとリーフには伝えておきたかった。軍の命令だからとか、そういう理由ではなくて、俺自身が、自分の意志で、リーフを守ると言う事を。
リーフは顔を再び俺の胸に埋めると、背中に回した手にさらに強く力を込めた。俺もそれに応えるようにリーフを強く抱きしめる。リーフのかすかな嗚咽の声だけが、俺の腕の中から、深夜の静かなリビングに響いていく。
二時になったことを告げる柱時計の小さな鐘の音がリビングに響くまで、俺たちはそのままでいた。鐘の音に驚いたのか、小さくリーフの肩が揺れる。俺が腕の力を緩めると、リーフは静かに俺から離れる。気恥ずかしさがいまさらのようにこみ上げてきて、俺はリーフの顔に目を向けられなかった。
「じゃあ、もう寝るね」リーフがそう言って、赤い目をこすった。なんだか、いつも俺はリーフを泣かせているような気がする。
「部屋まで付いてってやろうか?」俺が気恥ずかしさをごまかすようにそう言うと、リーフはそれを冗談とは受け取らなかったようで、俺の顔をためらいがちに見上げると、微かに頷いた。
二階の部屋の前まで来ると、リーフは部屋のドアノブに手をかけて、ふと、動きを止める。どうした、と俺が聞くと、リーフは素早く背伸びをして、俺の頬に顔を近づける。俺の頬にひんやりとした柔らかいリーフの唇が触れて、すぐに離れた。呆然とする俺を尻目に、おやすみなさい、とリーフは呟き、おそらく赤面しているであろう表情を隠すように、俯いたままで、俺の返事を待たずに部屋に入り、ドアを閉める。
俺は、納屋まで戻る途中で、実家の小さな庭から、リーフの部屋の窓を見る。小さな明かりが灯っていて、カーテンにリーフの影が映っていた。その影に向かって、俺は小さく、おやすみ、と呟いていた。聞こえた訳ではないのだろうが、微かにリーフの影が動いたような気がした。
翌朝、なんとか七時過ぎに目を覚ました俺が、急いで軍服に着替え、リビングに向かうと、テーブルの上にはいくつかパンが置かれていた。俺はそのうちの一つを手に取り、リビングを出る。母さんも父さんも、そしてリーフも、もう店で開店の準備をしているのだろう。挨拶くらいはしておこうと思い、俺が店に通じる細い廊下を通って、突き当たりのドアを開けると、焼きたてのパンの香ばしい香りが俺の周りに広がっていく。狭い調理場に、小さな売り場。窓ガラスに沿って配置された三段の展示棚に、棚が重さに耐えきれないのではないかと思うほどの焼きたてのパンが乗せられている。
「なんだ、もう行くのか」父さんが、焼き上がった大量のパンをトレイに乗せながらそう言って、俺を見る。
「基地まで一時間はかかるから、もう出ないと」俺がそう言うと、父さんは目だけを細めて笑顔を作り、母さんはもう首都に納品に行ったぞ、と言った。リーフはどうしたのだろうと俺は思い、狭い店の中を見回すと、店の外の小さな看板をリーフが真剣な表情で拭いているのが、窓ガラス越しに見えた。母さん制作のあの制服ではなく、普通の白い調理服をリーフが着ているのを確認して、俺は安堵のため息を漏らす。
「母さんが戻ってきたら、今日も多分遅いって伝えといてほしい」俺は、ガラス窓の外の、白い調理服がよく似合っているリーフを眺めながら、父さんにそう言った。
「おう」父さんは短くそう返事をすると、俺の背中を多分、平手で叩いた。視線が完全にリーフに向いていて、父さんを全く視界に入れていなかったせいもあって、俺は不意をつかれて大きくよろめく。パンの棚にでも突っ込んだら、どうする気なのだろう。俺はなんとかバランスを整えて、父さんの方に向き直る。
「痛いよ」そう抗議する俺に、父さんは、無言でなにか言いたげな笑みだけを返した。
俺は店を出て、看板を水拭きしているリーフの側まで歩く。リーフは俺に気づいているのか、いないのか、俺と目を合わせようとしない。多分、俺と同じで、気恥ずかしさがあるのだろう。俺もなかなかリーフに話しかけられない。俺は無言でリーフの側に立ち、リーフも無言のまま、手に持った雑巾だけを丁寧に動かし続ける。
「……行ってきます」俺が結局それ以外に言葉を思いつかずにそう言うと、リーフがやっと顔を上げて俺を見た。そして、思わず、俺が軍を辞めてこのままパン屋になっても悪くないかもしれない、と思ってしまうような、明るい笑顔で、いってらっしゃい、とリーフは言った。俺も自分としては精一杯の笑顔をリーフに返す。このまま、リーフを見ていたら、確実に遅刻しそうだと俺は思った。後ろ髪を引かれる、という表現まさにそのものの気持ちで、俺は車に向かう。
基地に向かう車の中で、俺は、今日しなければならない事を考える。クリス少尉への報告、F二五への報告、双方とも、楽な仕事ではなさそうだ。ため息を一つついて、俺はアクセルを踏む。まあ、家に帰って、リーフのあの笑顔が見られるのなら、それも頑張れそうだなと、俺は思った。