首都編 1章
ラシュディさんとディルが、エイジアに出発する日の朝、俺とアキとリーフは、身支度を整えたラシュディさんとディルと共に、迎えの車両を運転してくる予定のラルフ曹長、グリアム、ルパードを兵舎の外で待っていた。
「元気で。皆さんに迷惑をかけないようにな」ラシュディさんが、寂しげな、それでいて何かを気遣うような優しげな表情でリーフに声をかけている。リーフは、出来るだけ気丈に振る舞おうとしていたようだったが、心中の寂しさはとても覆い隠せるような小さなものでは無かったのだろう。いくら無理をして笑みを浮かべていても、寂しさの翳りを隠しきれてはいなかった。
俺がリーフの右手の手当をしてやったあの日から、ディルは憮然とした表情のままだった。あの日から三日間、俺が見る限りではリーフがディルに何かを話しかけようとしても、ディルは目を合わさずに、うん、とか、ああ、とか気のない返事をしていただけだったような気がする。
ディルは、俺たちから少し離れた兵舎の石段に座り、いつか俺が土産で買ってきたスケッチブックを抱えていた。俺がディルに近づくと、ディルは俺を見上げて、硬い表情のまま、無言でいる。俺はディルの横に腰掛け、ディルの頭に手を伸ばし、いつものように頭を撫でる。ディルは何も言わず、視線を地面に落としたままだった。
迎えの軍用ジープがだんだん近づいてくるのが見えて、俺はディルの手を引いて、リーフとラシュディさんが立っている所まで一緒に歩いていく。やがて、ジープが、俺たちの目の前に止まり、後部座席からルパードとラルフ曹長が、運転席からグリアムがそれぞれ降りてきた。ルパードが俺たちに軽く手を挙げて挨拶をして、トランクにラシュディさんとディルの荷物を積み込んでいく。
荷物の積み込みが終わると、名残惜しげにリーフを見ているラシュディさんに、ラルフ曹長が、時間です、と告げる。俺たちに背を向けて、ラシュディさんが後部座席に乗り込むと、グリアムがディルの手を引いて、同じ後部座席に向かう。リーフはその様子を無言で見つめていたが、目の前をディルが通り過ぎようとする間際、ディルの前に進み、自分の目線をディルの目線に合わせるようにすこし屈んで、ディルをその細い両腕で抱きしめた。やがて、ディルもリーフの肩に顔を押し付けると、小さな両手をリーフの背中に回す。俺はその様子をただ無言のまま眺めていた。
グリアムに促されたリーフが、ディルを離すと、ディルもラシュディさんと同じように、俺たちに背を向け、ジープに乗り込む。助手席に座ったラルフ曹長が、運転席に物憂げな表情で乗り込んだグリアムに目配せをし、ジープを発進させる。動き出したジープの後部座席の窓から、ディルが俺たちの方を向いて、泣くのを必死で堪えているような表情で、小さく手を振っているのが見えた。
俺たちは、ジープが遠ざかり、小さな点にしか見えなくなっても、その場を動かなかった。それからしばらくして、クリス少尉が戻り、俺たちを兵舎に戻るよう促すまで。
そして翌日、俺は自分の個室を片付け終わると、班員の私物が無くなり幾分広くなった共有スペースに向かう。俺は椅子に腰掛け、出発までの時間を待つ。そうしていると、なんだか、最後にビクセン軍曹の飯が無性に食べたくなった。
俺が無為に時間を過ごしているその目の前で、クリス少尉は書類にペンを走らせ、配属の転換に関する書類をぎりぎりになって作成中だった。時折頭を上げては俺を眺め、いいよなカイルは伍長で、と言う。俺には、それが半ば本気で言っているように聞こえた。クリス少尉は短い髪の毛を、俺が赴任してきたときと同じようにぐしゃぐしゃとかき回しながら、乱暴な字で書類を作成していく。日頃から、少しづつやっておけば良いのにと、まるで親みたいな事を俺は思う。
「溜めるからですよ、書類」俺がそう言うと、クリス少尉は書類から目を上げずに、
「書類書きは軍人の仕事じゃないよ。本当に馬鹿馬鹿しい。士官なんてこんなことばっかりだよ」と早口で答える。本当にそうなのかを俺は知らない。厳格さを示さなければならない上官という立場にいるのに、こんな発言をするところが、クリス少尉の長所でもあり、短所でもあるのだろう。俺は半ば呆れたような目で少尉を見る。少尉はそんな俺の視線に気付く事も無く、迫る出発の時間を気にしながら、眉間にしわを寄せ、心底うんざりしたといった表情で書類を処理し続ける。
「アキはどうした?まだ片付け中か?」しばらくして、クリス少尉が書類を書く手を止めて思い出したように俺に問いかける。俺は廊下まで歩いて、アキの部屋のドアが閉まったままなのを確認し、共有スペースに戻る。
「まだ、準備中ですね。リーフもです」クリス少尉は俺のその返答を聞いて、ため息をつく。
「女の身支度は長いよな。本当に」とクリス少尉はそう呟くと、椅子から立ち上がり、大きく背伸びをして、どうやら出来上がったらしい書類一式を封筒に詰め込み始める。俺には、そう長い時間アキやリーフが支度をしているようには思えなかった。おそらく、このひとはせっかちなのだろう。数ヶ月の付き合いで、その辺りの少尉の性格はなんとなくわかるような気がした。
「まだ出発までは間があります。少尉も休まれてはいかがですか?」俺のその言葉に、そうするよ、とクリス少尉は答える。そして、士官室まで歩いていくと、ドアを開け、俺の方を振り返る。
「……リーフ、大丈夫だったか?」クリス少尉のその言葉を聞いて、俺の脳裏に、昨日のディルとリーフの様子が浮かんでくる。
「いきなり明るくはなれないでしょうが、大丈夫だと思います」出来うる限り気丈に振る舞おうとしていた、リーフの姿を思い浮かべながら、俺はそう答える。
「あと、お前の親は何か言っていたか?」
「昨日電話をしたときは、なんだか楽しんでいるようでしたが」俺はそう答え、昨日の電話口での母のどこか楽しげな口調を思い出す。
「そうか。お前の親には俺も面会する。俺が事情を説明するから、お前はそれに合わせてくれ」クリス少尉は含み笑いをしながらそう言うと、部屋に戻っていく。
出発の三十分前になって、アキとリーフは準備を終え、共有スペースに来た。リーフは、カモフラージュの意図もあるのだろう、食堂に行くときと同じ、セルーラの軍装を着用していた。見るたびにいつも思うが、リーフにはこの軍装がよく似合う。
「準備、終わったか?」俺がそう声をかけると、アキとリーフが頷く。
「……カイルのお母さんってどんな人?」リーフはソファーに腰掛けると少し不安げに俺に問いかける。いつかは必ず聞かれるだろうなと思っていたが、十八年間一緒に住んでいた親を簡潔にどう表現したものかと、俺は悩む。変な風に伝えると、リーフの不安が倍増する可能性だってある。
「普通、だよ。母さんは少しお節介だけど」俺がそう答えると、リーフは微かに微笑む。
「カイルの親だからな。多分、カイルと好みのタイプは同じだろうし、心配しなくていい」士官室の扉が開いて、クリス少尉がそう言いながら俺の横まで歩いてくる。そして、なあカイル、と俺の顔を覗き込んで言う。また、盗み聞きしてたのか、と俺は思う。リーフは少し顔を赤くして視線を俺からそらす。
「いろいろ教えてもらったらいいさ。家事でも料理でも。あ、カイルの家って何やってたんだっけ?」クリス少尉が楽しげな口調でさらに続ける。
「パン屋です」俺は簡潔に答える。
「いいじゃないか、パンかあ。リーフ、どうだ?毎日焼きたてのパンが食べられるぞ」クリス少尉があまりに楽しそうに話すからだろうか、俺も、リーフも、アキも、緊張がほぐれ、顔に笑みが浮かぶ。アキの場合は、無表情ながらかろうじてといった感じの笑みではあるのだが。
「いろいろ、教えてもらえたらいいな」リーフはそう呟いて、俺の方を見た。その顔には微かではあったが、何かを楽しみにしている様子が伺える。なんだか、リーフのそんな表情を見るのはずいぶんと久しぶりのような気がした。
「教えてもらえよ。多分、喜ぶよ、母さんも父さんも」俺がそう答えると、リーフが嬉しそうに笑った。
リーフの護送には、ラシュディさんのときと同じく、五人乗りの古い軍用ジープが用意されていた。昨日のうちに本部で車両を受領し、兵舎の横まで車両を移動し終えていた俺は、四人分の荷物をトランクに詰め込んでいく。十分ほどで、荷物を積み終えた俺は運転席のドアを開け、エンジンをかけようとする。
「カイル、俺に運転させてくれよ」いつのまに兵舎から出てきていたのか、クリス少尉がそう言って、運転席の窓を叩く。
「駄目ですよ少尉。少尉が運転して、下っ端がお客さん状態だったら、確実に俺とアキが首都で説教をされます」俺はクリス少尉の思いつきを一蹴しようとするが、クリス少尉はしつこく食い下がってくる。
「首都まで八時間はかかるんだぞ。交代で運転しよう」
「俺とアキで運転します。少尉は後部座席で書類の整理でもしておいて下さい」
「書類は嫌だってさっきいっただろ。いいじゃん。上官命令ってことにしておいてくれよ。命令書、書こうか?」なかなかあきらめようとしないクリス少尉はそう言って不敵に笑う。俺は観念して、運転席を出て、車を降りる。
「首都に近づいたら、俺とアキが運転します。それまでは少尉が……ということで」クリス少尉は俺のその言葉を全く聞かず、運転席に乗り込むと、嬉しそうに機器類をいじり、やがてエンジンをかけると、兵舎の入り口前に横付けする。ちょうど、ホテルの車寄せに入ってくるタクシーのような感じで。俺はその様子を眺めながら、この人はなかなか出世できないだろうな、と思った。
助手席には、アキが無言で乗り込み、後部座席には俺とリーフが乗り込んだ。クリス少尉はふざけた表情で後部座席の俺とリーフを見ると、どちらまでお連れしましょうか?、などと口にする。見かねたアキがクリス少尉の顔を無理矢理前に向けさせると、クリス少尉は首を抑えながら、痛い、と呟いた。
出発の時間が来て、車がゲートに向かって走り出すと、見慣れた何十もの兵舎が窓の外を流れていく。短い間ではあったが、国境での数ヶ月間は首都で過ごした三年間よりも何倍も密度が濃い日々だったような気がする。リーフたちとの出会いにしても、うちの班の連中との出会いにしても。俺は遠ざかっていく我が班の兵舎を眺めながらそう思った。
基地のゲートで一時停止をすると、クリス少尉は窓を開け、近づいてきた警備兵に退出命令書と辞令書を渡す。短い事務的なやり取りをクリス少尉と警備兵が交わしていたその時、ふと視線をあげた俺の視線の先のバックミラーに、後ろから誰かが走ってくる姿が映った。その誰かが、なにか大きな包みを持ったビクセン軍曹である事に気付くのに、そう時間はかからなかった。俺もアキもクリス少尉もリーフも、車を降りる。
荒い息をつきながら、ビクセン軍曹は手にしていた大きな包みをアキとリーフに渡す。そして、クリス少尉の方を見ると、唇の端を釣りあげて、にやりと笑う。
「首都まで八時間、都合四人の二食分だ。ちゃんと考えて配分しろよ少尉」少尉はビクセン軍曹のその言葉に、いつもすいません、などと言って、頭を下げる。俺はその様子を見ながら、ふと、ある疑問が頭に浮かぶ。
「クリス少尉、ひょっとして、いつも士官用食堂で食事とって無かったんじゃないですか?」俺がそう言うと、少尉はぎくりとした表情を顔に浮かべ、苦い表情をする。ビクセン軍曹はその様子を見ながら俺に笑いかける。
「少尉様は士官用食堂の自分の分だけ、一般兵用の食事に差し替えさせてたからな」ビクセン軍曹の言葉を聞いて、俺もアキも、そしてリーフもクリス少尉の顔を見る。
「……まずいんだよ。士官用は。大体、士官用食堂の方がまずいっていう基地のあり方の方がおかしい」クリス少尉が俺たちから目をそらして小さな声でそう答える。リーフがその様子をみて思わず吹き出すと、ビクセン軍曹にも、俺とアキにも笑いが伝染する。
「リーフ、教えた料理、ちゃんと練習しろよ。毎日の練習が肝心だ」ビクセン軍曹はリーフにそう言うと、次はアキの方をみて、お前もナイフばっかりじゃなくてたまには包丁も握れ、と言う。アキはその言葉に対して、いかにも不本意ながらといった感じではあったが、小さく頷いた。俺と少尉がまるで娘二人を見送る過保護な父親のような様子のビクセン軍曹をぼんやりと眺めていると、ビクセン軍曹は、アキとリーフから名残惜しそうに視線をそらし、次は俺とクリス少尉に視線を向ける。
「少尉、カイル、お前らはちゃんと体を鍛えろよ。だいたい細いんだよお前らは。筋肉をつけろ筋肉を」俺と少尉はその言葉に笑顔のまま黙って頭を下げた。
警備兵から促され、ビクセン軍曹の見送りを受けながら、俺たちはまた車に乗り込む。助手席のアキと後部座席のリーフがそれぞれ抱えている弁当の包みから、ビクセン軍曹の得意料理の鶏肉炒めの香りが広がっていく。やがて、クリス少尉は運転席の窓から頭を出すと、ビクセン軍曹に手を振り、ありがとうございました、と大きな声で挨拶をし、車を発進させた。
俺は、窓から少し頭を出してビクセン軍曹に手を振っているリーフの表情に、幾分かの明るさが戻ってきている事に気付いて、少しではあるけれど安心していた。思えば、ビクセン軍曹には世話になりっぱなしだったような気がする。また、首都のまずい糧食に戻るかと思うと、なおさらビクセン軍曹のありがたみが身にしみてくるような気がした。
ゲートが遠ざかり、やがて見えなくなると、首都への長い一本道と荒涼とした岩地だけが目の前に広がる。おそらく首都に着くのは夜遅くだろう。俺はおそらく今日の夜半には会う事になる自分の親の顔を思い出す。リーフならきっと気に入ってくれるだろうな、と俺は思った。クリス少尉が言っていたように俺と親の好みが似ているかどうかは別として。