国境編 22章
食堂から戻った俺とアキが、兵舎のドアを開けると、共有スペースのソファーにグリアムが一人座っていた。グリアムは力なく微笑むと、早かったな、と言う。俺とアキがグリアムの向かいの古いスツールに腰掛けると、グリアムはため息をつきながら、首を振って、俺たちを見る。
「ディルがぐずってたみたいだったよ。ラシュディさんの部屋で」俺はその言葉を聞いて、無理も無いな、と思う。幼いディルからすれば、リーフは従姉妹というより本当の姉のようなものだ。いきなり離ればなれになると言われれば、ぐずっても不思議ではない。俺は駄々をこねるディルを、ラシュディさんとリーフがなだめる様子を想像して、目を伏せる。
「なんか、食器下げに行けなくてね」グリアムはそう呟いて、ソファーの背もたれに寄りかかると、またため息をつく。俺は、背後の壁に架かっている時計を見る。食事時間の終了まで、あと三十分ほど時間があった。
「時間一杯まで、待とう」俺がそう口にすると、アキとグリアムが頷く。
「疲れてるんだろ、食器下げるのは俺がやるから、いいよ」三十分が経ち、ラシュディさんの部屋へ食器を下げに行こうとするグリアムに、俺はそう声をかける。共有スペースを出て、個室のドアが並ぶ暗い廊下を歩き、ドアの隙間から光が漏れているラシュディさんの部屋の扉の前まで俺は歩いていく。いつもと同じはずの廊下の距離が、幾分長くなったように感じる。ラシュディさんの部屋の前まで来ると、中からは、ディルがなにかを強く訴えている声が聞こえてきた。俺がドアの取っ手に付けられた頑丈な錠前を解錠し、軽くノックをすると、部屋の中が静まり、どうぞ、というラシュディさんのいつも通りの落ち着いた声が聞こえた。
ラシュディさんの部屋に入ると、明らかに不貞腐れた様子のディルが、憮然とした表情で椅子に腰掛けている姿が目に入った。その様子を直視できなくなった俺が目をそらした先には、ベッドの縁に腰掛け、沈んだ表情をしているラシュディさんと、ディルの向かいの椅子に座り、顔を伏せているリーフがいた。
「すいません。時間なので」俺がラシュディさんにそう声をかけると、ディルは椅子から飛び降り、制止しようとするリーフの手を力任せに振り切って、そのまま部屋から駆け出していく。廊下を走る足音と、隣の部屋のドアが勢いよく閉まる音が聞こえる。俺がディルの後を追って、廊下に出ると、隣の部屋のドアの前には、アキが立っていた。
「ディルは?」俺がそう問いかけると、アキは部屋のドアを指差す。
「私が、話す。カイルは食器を下げて」アキはそう言うと、ディルの駆け込んだ部屋に入っていく。
部屋に戻ると、リーフは椅子に座ったまま、ディルに振り切られた手を寂しそうに見つめていた。俺はなんと声をかけていいか解らず、目を伏せたまま、食器を積み上げ両手に抱える。ベッドに腰掛けたままのラシュディさんは、俯いたまま、何も話そうとしなかった。
兵舎の外の石段の隅に抱えた食器を降ろすと、俺は、ラシュディさんの部屋まで戻り、放心状態のまま俯いているリーフを外に連れ出す。廊下に出ると、リーフは、ごめんなさい、と目を伏せたまま呟いた。
「リーフは悪くない」そう答えると、リーフは微かに首を振る。まだ、アキはディルと何か話をしているようで、リーフとディルの部屋からは、アキの小さな声と、ディルがすすり泣く声が漏れてくる。俺はラシュディさんの部屋に施錠し、俯いたままのリーフを共有スペースまで連れて行く。
共有スペースには、もう誰もいなかった。俺はリーフをソファーに座らせると、紅茶を二人分用意する。テーブルに紅茶のカップを置くと、リーフは紅茶に角砂糖を落とし、ぎこちない手つきでスプーンを手に取る。
「あっ」リーフが小さく声を上げ、スプーンが床に落ちる。俺はスプーンを手に取った時のリーフのぎこちない手つきを思い出す。
「手、見せてみろ」俺がそう言うと、リーフがためらいながら、おずおずと右手を差し出す。リーフの右手の甲に、何かに強くぶつかったのか、青い痣ができていた。おそらく、ディルに振り切られたときに、テーブルか、壁に手をぶつけたのだろう。俺はソファーから立ち上がり、武器棚まで歩くと、救急箱を取り出して、包帯と、湿布をいくつか選ぶ。俺がそれを持ってリーフの横に座ると、リーフは微かに首を振る。
「いいよ。大丈夫だから」リーフは俺から目をそらすと、そう言って、砂糖と紅茶がまだよく混ざっていなさそうな紅茶のカップを左手で持ち、一口だけそれを啜って、テーブルに戻す。
「いいから。手」俺は少し強い口調でそう言って、リーフの右手を引き寄せる。改めて見ると、リーフの右手の腫れは結構酷く、見ているだけで痛々しかった。俺は湿布を腫れの中心に貼り、あまりリーフの指を動かさないように、包帯を巻きつける。クリップで巻き付け終わった包帯を留めると、リーフはそらしていた目を俺に向け、微かに弱々しい笑みを浮かべ、ありがとう、と呟く。
「腫れが引くまで、無理するなよ」リーフは俺の言葉を聞くと、視線を自分の膝に落とし、小さな声で、ディルが泣いてた、と言った。
「お前のせいじゃない」俺のその言葉に何も答えずに、リーフは視線を膝に落としたまま、沈んだ表情を浮かべている。しばらく、沈黙が続き、やがて、リーフの膝に置かれた右手の包帯に一滴、二滴とリーフの涙が落ちる。リーフは手を目頭に押し付け、涙を止めようとするが、そうすればするほど、リーフの目から流れる涙は量を増していく。やがて、小さく嗚咽すると、リーフが涙でぬれた瞳を俺に向けた。
「私、さよならばっかりだよ」そう言うと、リーフは目を閉じる。長い睫毛に涙が伝って、頬を流れていく。リーフの右手に、俺が自分の左手を重ねると、包帯越しに、リーフの温かな体温が伝わってきた。やがて、リーフは倒れ込むように俺の胸に身を預けると、いつかのように、俺のシャツの胸元に顔を押し付け、小さく嗚咽し続ける。
包帯を巻かれたリーフの右手に、自分の左手を重ねたまま、俺は、リーフが望む限り、この手を離さないでいようと思った。ボストと戦争になったとしても、例えセルーラがリーフを保護することを止めたとしても。神にでも、悪魔にでも無く、自分自身にそう誓った
『この手を離さない。』と。