国境編 21章
銃の手入れを終え、俺が共有スペースに戻ると、ソファーで横になっていたクリス少尉が、のろのろと起き上がり、少し目をこする。俺が銃を武器棚に片付け、煙草に火をつけると、クリス少尉が無言で手を差し出してくるのが見えた。俺はその手に歩み寄り、煙草の箱を乗せる。
「亡命受け入れの件、ラシュディさんには、もう伝えた」クリス少尉はそう呟いて、煙草を一本抜き取る。俺は、少尉の憔悴しきった顔を見る。ミーティングのときにはまだ気が張っていたのだろう。今のクリス少尉は本当に気が抜けているとしか形容しようがない表情をしていた。
「何か言っていましたか?」俺がそう聞くと、クリス少尉は自嘲するように微笑む。
「機密、話せなくてすまなかったね。とさ。まあ、エイジアが手に入れた方がいい情報ではあるよ。あの人からすれば、万が一、セルーラがボストと手を組んだらどうしようっていう懸念もあったろうしな」
「そうですね。確かに」俺がそう答えると、クリス少尉はため息をつく。そして、幾分赤みの残る目を俺に向けると、
「参謀府に出仕したら、忙しくなるぞ。覚悟、できてるか?」と言う。参謀府は軍の作戦策定機関。陸、海、空軍のエリートが集う、セルーラ軍の実質上の最高機関だ。士官学校を優秀な成績で卒業し、十分な実績を挙げる事の出来た連中しか、所属できないと聞いた事がある。クリス少尉はともかくとして、俺はそんな所で上手くやっていく自信があまりない。
「少尉は士官学校を出ているからいいですよ。俺なんかが行って大丈夫なんですか?」俺が煙草の煙を吐き出しながらそう言うと、クリス少尉はまたソファーに横になる。
「参謀府って言っても、正式に参謀として所属するのは俺だけだよ。お前たちは俺個人につけられる部下っていう扱いさ。別に参謀になれって言ってる訳じゃないんだ。気を楽にしてもらっても困るが、階級やらを気にしたりする必要はないさ」そう言うと、クリス少尉は目を閉じる。そして、目を閉じたまま、小さな声で、呟くように口を開く。
「ディルとリーフにはラシュディさんから話したいそうだ。糧食班に食事を届けるよう手配している。一緒に食事を取らせてやってくれ」その言葉に俺は、了解しました、と答える。
何となく、気が重いまま、数十分後に届けられた食事を、俺はラシュディさんの部屋に運ぶ。ラシュディさんは食事を運んでくる俺を見て、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「リーフのことを宜しく頼みます」ラシュディさんが、テーブルの上にあらかた食事を並べ終えた俺にそう言った。俺はラシュディさんを振り返る。なにか、ラシュディさんを安心させるような言葉をかけたいと思う。でも、なかなか言葉は浮かばずに、俺は不安の入り交じった複雑な表情のままでいた。ラシュディさんはそんな俺をしばらく無言で眺めていたが、やがて口を開く。
「リーフは、ボストで辛い思いをする事が多かった。セルーラなら、そんな思いをする事はない」俺に言葉をかけているようでいて、それはラシュディさんが自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「了解しました」俺はそれだけを答える。結局、俺は他にラシュディさんにかける言葉を何も思いつけなかった。ラシュディさんは穏やかな、でも、幾分かの寂しさが混ざったように見える微笑みを浮かべたまま、俺に頭を下げる。俺はそれに応えて、敬礼を返す。
ラシュディさんの部屋を出ると、ドアの前で、アキが連れてきたディルとリーフに会った。俺はディルの頭を撫で、リーフに向けて無理に作った笑みを浮かべる。内心の不安や、重い気持ちをリーフや、ディルには、悟られたくなかった。俺のそんな心中を見透かすかのように、すれ違いざまにアキが俺の肩を軽く叩く。
アキは、リーフとディルをラシュディさんの部屋に送り届けた後、共有スペースに戻ってきた。俺の姿を確認したアキが、食事、と小さく呟き、俺はアキと兵舎を出る。俺が気の重さを打ち消せずに俯いたまま歩いていると、先を歩くアキがふと、立ち止まって、俺の方を振り返った。
「どうした?」俺がそう言うと、アキは少し困ったような表情を浮かべた様に見えた。その表情のまま無言でアキは俺を見ている。俺は小さくため息をついて、口を開く。
「なんか、いたたまれないよな。家族がバラバラになるっていうのはさ」俺のその言葉に、アキは無言のまま、同意するように小さく頷く。
「正直、やりきれない。石油が見つかりそうだからとか、昔、ボストのカエタナがセルーラに内通したから、とかさ。なんで、そんな事で、リーフたちが酷い目に遭わなきゃいけないんだ。関係ないだろ」俺は自然とこみ上げてくる怒りで声が大きくなる。一旦口を開いてしまうと、俺の中に溜まっていたボストへの怒りが止めどなく吹き出してくる。
「あなたが、気を落としていたり、沈んでいても、リーフたちは救われない」アキが、俺をたしなめるように呟く。俺は唇を強く噛んだまま、アキを見つめる。アキは俺の目をまっすぐに見て、真剣な表情でさらに言葉を続ける。
「生きてさえいれば、私たちが、ボストからリーフを守りきることができれば、また、リーフはラシュディさんやディルに会える。そうでしょう?」アキのその言葉が俺の胸に響く。確かに、アキの言う通りだ。俺たちがしなければならないことは、沈む事でも気を落とす事でも愚痴をこぼす事でもない。
「アキの言う通りだ。悪かった。取り乱したりして」アキにそう答えて、俺はまっすぐに向けられたままのアキの目を見る。
「気にしなくていい」アキは目をそらさずにそう言うと、前を向いて歩き出す。
食堂に到着し、俺とアキが殆ど無言のまま食事をはじめると、ビクセン軍曹が、あきらかにおかしな様子の俺たちを心配したのか、俺たちのテーブルまで近づいてくる。俺がビクセン軍曹に会釈をすると、ビクセン軍曹は軽く右手を上げて、テーブルの空いている椅子に腰掛け、俺とアキのそれぞれの顔を順に見ると、
「どうしたんだ、カイル。アキの無口がうつったか?」と、言う。アキはその言葉に首を振り、俺は、そんなことはないです、とだけ答える。それっきりまた無口になってしまった俺たちをビクセン軍曹は心配そうに眺めている。
「これ、もっていけ。ディルに」帰り際、俺はビクセン軍曹にその言葉とともに紙袋を渡される。中をのぞくと、まだ揚げてからそう時間が経っていなさそうなドーナツがいくつか見えた。
「今日は、小麦粉が余っててなあ」照れ隠しにそう言うと、ビクセン軍曹は厨房に戻っていく。俺はビクセン軍曹の配慮に感謝する思いで、その背中に頭を下げていた。