国境編 20章
クリス少尉が参謀府に出かけてから、数日が経った日の夕方、少尉は明らかに徹夜明けと解る赤い目で帰ってきた。ちょうど、訓練を終えて共有スペースに溜まっていた俺たちは、まるで幽霊のような有様のクリス少尉が力が抜けたように椅子に座るのを無言で眺めていた。クリス少尉はしばらく目を閉じて、やがてため息をつくと、俺たちに、全員集合してくれ、と短く告げる。
大体、何の話か検討がついている俺と違って、ルパードとグリアムは落ち着かなげな表情でクリス少尉を見ていた。ラルフ曹長も腕を組んだまま真剣な表情でクリス少尉を見つめ、アキは暗い表情で視線を机の上に落としている。
「ある程度、想像がついている奴もいると思うが、亡命してきた三人について、ここで情報の共有を行い、今後の方針を伝える」クリス少尉は鋭い目つきで俺たちを見回すと、リーフ、ディル、ラシュディさん、そして、俺がサンドシティで会ったあの男の情報を簡潔にまとめながら、語っていく。事情を殆ど知らなかったグリアムとルパードはこわばった表情を浮かべて沈黙している。いきなりこんな話を聞かされて、ひょっとすると戦争になるかもしれないなどと言われれば、誰だって表情の一つや二つはこわばるだろう。俺は二人に同情しつつ、クリス少尉の話に耳を傾ける。
「で、今後の方針だが、」二十分ほどで、クリス少尉はいままでの一通りの事情と経緯を話し終えるとそう切り出す。
「質問があります」グリアムが緊張した表情で、手を挙げる。クリス少尉は無言で頷くと、そのまま質問を続けるよう促す。グリアムはゆっくりと立ち上がると、ためらいがちに、口を開く。
「カイルが、サンドシティで会った男の情報ですが、クリス少尉は、いや、参謀府はこれを信用するのですか?」グリアムは深刻な表情で、クリス少尉を見つめている。
「信用するも、しないもない。どっちに転ぶかは解らん」クリス少尉のその言葉にラルフ曹長が素早く反応する。
「どういう事ですか?少尉」丁寧だが、あきらかに威圧するような声色でラルフ曹長が言った。クリス少尉は視線をラルフ曹長に向けると、気分を落ち着かせるように深呼吸をする。
「つまりボストの男の情報をどの程度まで参謀府が信頼しているのか、と言う事だな」クリス少尉が若干、目にこもった力を抜いて、グリアムを見る。グリアムは大きく頷く。
「基本的な姿勢として、参謀府は男の提供した情報を半ば信用し、半ば疑っている。具体的に言うと、現在の国境線上に展開している軍の数をなるべく減らさずに、侵入していると情報提供を受けたボスト特殊部隊を捜索し、可能な限り少ない兵力で叩く、ということだ。もし男の言っている事が嘘だったとしても、国境線上の軍事バランスを崩さないですむ分の兵力のみを国内のレーダーサイト防衛に回しておく、というわけだな」クリス少尉がここまで話し終えると、ラルフ曹長が厳しい表情をして立ち上がる。
「少尉。ボストの特殊部隊はそんなに甘くない。国境線上の軍事バランスを保ちつつなどと言うが、それは詭弁だ。その程度の兵力では、防ぎきれん」
「わかってるよ。曹長。解ってる」クリス少尉は、そう言うと、椅子に座る。そしてさらに言葉を続ける。
「特殊部隊に対抗できるだけの部隊をレーダーサイトに展開しておいて、空振りだったら。その隙に手薄になった国境を突かれる。参謀府はそれを恐れている」ラルフ曹長はクリス少尉のその言葉を聞くと、苦々しげに頷く。確かにクリス少尉の言う通りだ。もし、あのボストの男がセルーラを騙すために来たのなら、間違いなくそれを狙うだろう。
「つまりは、」口を開いたアキが冷静に言葉を続けていく。
「特殊部隊が潜行している、もしくは潜行していないという確証が無いと」アキがそこまで話すと、それに賛同するように、クリス少尉が、その通りだ、と言う。
「俺の報告を聞いた参謀府は、三つの決定を下した。まず一つはラシュディさんとディルをエイジアに早急に引き渡す事。二つ目はリーフの亡命をセルーラで引き受ける事。そして三つ目は、特殊作戦群を国内に戻し、これをボスト特殊部隊の捜索に当てる事。ラシュディとディルをエイジアへ護送するメンバーには、ラルフ曹長、ルパード、グリアムの三名が入っている。リーフをセルーラ国内の某所に護送するメンバーには、俺、カイル、アキの三名が選ばれた。護送終了後は、俺は参謀府に出仕、お前らもそのまま、参謀府で俺の下に付いてもらう」
「少尉。特殊作戦群は確かに精鋭だ。侵入したボストの特殊部隊の殲滅にも適任だろう。しかし、彼ら無しで国境は維持できないぞ」ラルフ曹長が言う。その言葉を聞いてクリス少尉はしばらく沈黙していたが、やがて、少し笑みを浮かべると、口を開く。
「わかってるっていったろ。参謀府だって馬鹿じゃない。国境には、援軍が付く」
「援軍?」いままで俯いたまま黙っていたルパードが顔を上げて呟く。
「何のために俺が何日も徹夜したんだと思う?参謀どもの頭をエイジアに下げさせるために根回しをしていたからさ。これは極秘だが、エイジアの特殊部隊の一部と諜報部の一部が、セルーラ国境の防衛を援助する事になった。エイジアも国内レーダーサイトを狙われている事に変わりはないが、セルーラと違ってあいつらは兵力にそれなりの余裕があるからな。参謀どもが、いざ頭を下げてみればエイジアはずいぶんと協力的だったそうだ。まあ、そうだろうな。こと、今回の件においては、セルーラとエイジアの利害は一致している」クリス少尉は得意げにそう語る。ラルフ曹長はその言葉を鋭い、真剣な目つきのまま静かに聞いている。
「正直、それでも上手く行くかは解らない。でも、最善の策だと俺は思う。セルーラは弱小国だ。だが、振る舞い次第では、勝ちに回れると俺は信じている」クリス少尉は俺たちを真剣な表情で見回すと、力強くそう告げる。
「ラシュディさんとディルの出発は三日後、リーフの出発は四日後だ。皆もそれに合わせて準備を進めるように。装備については、第一種戦闘装備。糧食は一週間分を携帯しろ」その言葉を最後に、クリス少尉は俺たちに背を向け、話を切り上げようとする。俺は、その背中に、一つだけずっと気になっていたことを投げかける。
「少尉。最後に一つ聞きたい事があります」俺のその言葉に、クリス少尉は振り向く。
「ラシュディさんのことだろう?」あっさりと見抜かれている。クリス少尉は小さく笑うと、駄目だった、と付け加える。
「機密だろ。どうやら新式の破壊工作手段の一つらしいが、とうとう口を割らなかったよあの人は。まあ、エイジアには話すだろうと思うよ。本人がそう言う事を匂わせていたし。俺たちセルーラはエイジアには見返りを与えなきゃならない。いい見返りになるさ。できれば、こっちで握りたかった機密ではあったんだけどな」クリス少尉は残念そうにそう続ける。
「そうですか」俺には、それを残念に思うべきなのか、喜ばしく思うべきなのか解らない。俺の心中を察したのか、クリス少尉は俺の横まで歩いてきて肩を叩くと、
「まあいいさ。そんなことは」といって、徹夜明けの赤い目で、明るく笑った。
ミーティングが終わった後、俺は、部屋に戻ると、夕食までの空き時間を、ライフルの手入れに充てた。銃を分解して、磨き油をしみ込ませた布で一つ一つの部品を丁寧に磨いていく。戦争が近づいてくる不安、その不安の中で、俺は何故かリーフが恥ずかしげに俯く姿を思い浮かべる。
例え敵を殺さなければならない日が来ても、リーフだけには俺が人を撃つ姿を見せたくない。俺は強くそう思った。