国境編 2章
午後の訓練。ナイフと近接戦闘。俺はまあ、苦手ではなかった。首都警備隊があまり精鋭ではないとはいえ、それなりに中間層には食い込んでいたし、あのすばしっこいアキにはともかく、ルパードやグリアムには勝てるのではという予想をしていた。
「では、はじめようか」ラルフ曹長はゴム製の模擬戦闘用ナイフにチョークをまぶす。体にあたるとチョークが付着する。首や、その他の急所をやられれば、敗北というシンプルなルールだ。ナイフを俺とグリアムに渡すとラルフは一歩下がってよく通る大きな、それでいて低い声で、
「はじめ」と言った。
グラウンドの中央に俺とグリアムが向かい合う。俺はサーベルグリップに持ち替えたナイフをグリアムの腹を薙ぐように動かした。グリアムはそのナイフを自分のナイフで軽くはじくと俺の首筋にまっすぐ刃を滑らせていく。避けるためにそらした俺の上体にグリアムは的確に心臓を狙ってナイフを突く。触れるか触れないか紙一重で俺は思いっきり背面に飛んだ。
「なかなかやるじゃねえか。狙撃だけって言う訳でもねえんだな」ルパードがアキに話しかけていた。アキは身長差のあるルパードの横顔を見上げて、首を振る。
「もう勝負がつく」それだけを呟いて。
確かに、その通りになった。背面に飛んだ俺の着地するタイミングに合わせて、グリアムが俺の腹部を薙いでいた。黒のタンクトップの横腹に真っ白なチョークのラインが出来ていた。
「終わり」ラルフ曹長がそう言って俺の側まで歩いてくる。俺の顔をしばらく眺めて、口を開く。
「ナイフによる近接戦闘の際に、ジャンプするのは避けるべきだと教わらなかったか。なぜだかわかるか」鋭いが、幾分かの優しさがこもった目つきで俺はそう問われた。
「着地点が正確に予想され、そこに踏み込まれた場合、避ける術がないからです」俺は答える。
「君は知っていながら、飛んだ。まだ、君の意識や肉体にその教訓が刷り込まれていないからだ。わかっていても、目の前にナイフが迫れば、普通の人間であればなんとかしてそれを避けようとする。そのような時にも教訓や鉄則に反した動きをしないように、そして、的確な行動がとれるようにしなければならない」ラルフ曹長は淡々と続ける。俺はこういう説教というのは基本的にまじめに聞かないたちなのだが、なぜかラルフ曹長の話はそのような説教臭さがなく、ただ実戦の経験に裏付けされた確実さのみが感じられて、なんだかひどく素直に俺はその話を聞いていた。
「では、その点に留意して次は動くように。ルパード。次はお前がやれ」どうやら今回は俺と全員をあたらせるつもりらしい。俺はグラウンドの中央に戻りながら、ルパードの方をみる。大柄な体に小さなナイフ。不釣り合いかと思えばそうでもない。結構様になっている。ルパードは唇の端だけを持ち上げて、少し笑った。
「グリアムと俺はまあ、ナイフじゃ五分ってとこだ。遠慮はいらねえ」もちろん遠慮などするつもりはない。グリアムと俺に大した力の差がないことに気付かないほど、俺は馬鹿じゃない。なぜ負けたのか。俺がミスをしたからだ。ナイフの戦闘はチェスの様なものだ。一手間違えると、取り返しがつかない。定石と確実な手を積み重ねて、相手のミスをつく。相手をよく見ることだ。俺は教育隊の教官の言葉を思い出しながら、位置に着く。
ルパードとの一戦は、結構長いものになった。一つ一つの動きに意味を持たせるように、無駄な手を打たないように。そしてミスを犯さないように。俺はそれだけを考えて動いた。何度か激しくナイフ同士がぶつかって、その度に俺は力負けした。筋力では圧倒的に俺が劣っている。スピードで翻弄するしかないのだが、ルパードは結構スピードもあって、このままでは力負けすることは目に見えていた。意表をつくしかない。俺はそう考えた。フェイントを交えながら、腹をえぐると見せかけて、俺は腹ではなくまっすぐルパードの首筋を狙った。伸びきった俺の横腹と、ルパードの首筋にほぼ同時にチョークのラインがつく。
「引き分け」ラルフ曹長が宣言した。
「ただし、実戦であれば、カイルのナイフはルパードの頸動脈まではいかなかったろう。せいぜい皮を裂いた程度だ。狙撃手であっても基礎的な筋力は身につけるべきだ。スピードのみでも筋力のみでも駄目だ。ルパードも同様。筋力に頼ってはいけない。もしカイルにもっと筋力があれば、即死している」ルパードもおとなしくラルフ曹長の評を聞いている。二人並んでこんなことを聞いていると、なんだか学校を思い出す。ふとルパードの方をみると、ルパードもこちらを見ていて、目が合った。すこし、目を細めてルパードが笑う。
「結構力はあったぜ。みろよ。火傷してんだろ。こすれると熱いんだよ」首をさすりながら、ルパードがそう言った。俺も笑いながら、ルパードに答える。
「ナイフ同士で押し合いになるとどうしようもないよ。力負けだ。ナイフならともかく、レスリングでは絶対に勝てないと思う」俺のその言を聞くと、ルパードは少し照れたようなそぶりを見せる。意外と気は優しくて力持ちってやつかもしれない。
「次はアキ」ラルフ曹長の声が聞こえる。ルパードが下がって、アキがナイフを構えて俺の前に立つ。俺は、自分のナイフに改めてチョークを付けながら、アキをみる。こいつのナイフを持った立ち姿はどうみてもルパードや、グリアムとは違った。隙のなさや、殺気の違いなのだろうか。訓練だからというような甘い考えは捨てたほうが良さそうだった。こいつのナイフはゴムでも切れそうだ。
ラルフ曹長の合図と同時に、俺は意表を突くつもりで、アキの右足の真横まで自分の右足を踏み込ませ、体ごと動く形でアキの腹を狙った。アキは俺の突然の突進に慌てたそぶりも見せず最低限の動きで、それをかわす。俺は、その後信じられないほど早く突き出されたアキのナイフを見た。狙われたのがどこなのかもわからないほど、それは速く、残像のみが視界の端に見える位だった。アキの白い腕が鞭のようにしなって俺の首、腹、手首の腱を正確に狙っている。かわすだけで精一杯どころか、見るので、精一杯だ。体感した感じでは、ルパードや、グリアムの二倍から三倍は速いのではといったところだ。俺は結局、首そして返す手で手首の腱にまでチョークを付けられて、あっけなく負けた。
「なぜ負けたと思う」ラルフ曹長はそう俺に聞いた。俺は敗因を分析するが、どうやってもあれほど速くは動けないし、訓練したところであの差は埋まらないような気もする。
「スピードです」俺は答えた。アキが無表情な目で俺をみる。それだけと聞かれているような気がして、俺は言葉を続けた。
「ただ、スピードだけではないと思います。動きとしてとらえられないからと言って、それがスピードの差だけから来るものだとは思えません。まあ、今の自分には体感的には凄まじい速さの差にしか思えませんでしたが」
「リズム」アキが呟く。
「リズム?」俺はおうむ返しにアキに問いかける。
「そう。体にはリズムがある。リズムに反する動きをすれば、スピードは落ちる」アキはそれだけ説明すると、さっさとルパード、グリアムの所に歩いていく。
「まあ、アキには天分もある。君の狙撃と同じだ」ラルフ曹長はそう言って、少し笑った。
「天分?」俺はまたおうむ返しに問い返す。
「アキは軍に入るまでは、セルーラ剣舞の舞い手だった。リズムというのはあながち間違ってないのかもしれん」ラルフが歩いていくアキの背を見ながら答える。
「まあ、訓練だな。狙撃の腕を落とさず、それでいて、自分の身を守れる程度には近接戦闘も必要ということだ。よくわかったろう」ラルフ曹長の言葉はとげというものを感じさせない。
「わかりました」俺はそう答える。