国境編 17章
出発直前のバスに飛び乗ると、ガラガラに空いた車内に、アキが一人で座っているのが見えた。アキは俺の姿を見つけると、立ち上がって、俺の隣に座る。運転手が、耳障りな音を立てながらエンジンを始動させると、サンドシティの姿が少しずつ遠ざかっていき、アキは無言のまま、遠ざかるサンドシティと、その背後に見える廃都ジョシュアを眺めている。
「バードさんの店にずっといたのか?」俺がそう聞くと、アキが頷く。
「昔から、変わってない」そう呟いて、アキは視線を自分の膝に落とす。
「バードさんのことか?」アキはその言葉に対してまた頷く。
「子どもの頃から、ソフィアが外を駆け回って、バードは料理の練習。未だにそう」
「昔から、か」俺は、子どもの頃の自分を思い出す。どちらかと言えば内向的な子どもだった。今は頑健そのものだが、小さな頃は体が弱くて、少し無理をすると寝込んでばかりだった。母さんが、心配そうな表情で、寝ている俺を覗き込む様子が、不意に思い出される。
「お前はどうだったんだ」
「何が?」アキが伏せていた目を俺に向ける。
「子どもの頃」
「……あんまり変わらない。と思う」アキはそう答える。
基地に向かうバスの中で、俺はずっと、にわかには信じ難い情報を持ってきたボストの男のことを考えていた。クリス少尉にはそのまますべてを伝えるつもりだったが、あの男の意向が俺にはいまいち見えなかった。ボストの侵攻準備が仮に事実だったとして、それを阻止しようとしているのは解る。しかし、彼らにとって、それが何のメリットをもたらすというのだろう。国境地帯に軍部の連中を膠着状態にさせて、一体何をしようとしているのだろう。俺は、あの男の冷酷な笑い顔を思い出す。あれは、正義感からセルーラや、エイジアを助けようとするような人間にはとても見えない。おそらく、俺たちを罠にかけようとしているか、ボスト軍部の連中を罠にかけようとしているかのどちらかだ。目的を達成するためには手段を選ぶな、と言ったあの男の言葉を俺は思い出す。まさにその言葉通りにあの男は動いているとしか思えない。
基地のゲートに到着したバスは、俺たちを降ろすと、排気ガスを盛大にまき散らしながら、またサンドシティに戻っていった。俺とアキは兵舎まで、菓子や土産の包みを抱えて歩いていく。
兵舎の共有スペースでは、いつものようにクリス少尉があまり真面目には見えない様子でなにやら書類を書いていた。戻ってきた俺たちの姿を見ると、軽く片手を上げる。
「おつかれさまです」俺は荷物を抱えたまま、片手を空けて敬礼をする。アキも同様だ。
「おつかれさま。ああ、報告書、なんて書いたもんかなあ。もうネタがないよ」クリス少尉は頭を抱えて机に突っ伏す。俺はその様子を見ながら、今日は報告書、山ほど書けますよ。と心の中で呟く。いま書けなくて悩んでいる少尉は、あと数十分後には別の意味で悩む羽目になるだろう。俺は荷物をテーブルに置いて、アキが部屋に戻ったのを確認してから、クリス少尉の側に腰掛ける。
「報告があります。少尉」
「ん?なんかやらかしたのか?」少尉は面倒そうな表情で俺を見る。
「違います。サンドシティで、ボスト外務省の人間から接触を受けました」俺のその言葉を聞くと、クリス少尉のだらけた表情が一瞬で引き締まる。
「外務省?ボストの?」
「はい。クリス少尉に伝言を言付かっています」クリス少尉が怪訝そうな表情を浮かべる。
「俺に、か」
「はい。確かにクリス少尉に、と」俺はそう答えてポケットから、レーダーサイトの住所が羅列された紙片を取り出し、クリス少尉に渡す。そして、俺は、あのボストの男が語った内容を覚えている限り正確に報告する。
「……カイル、まだこのことを誰にも言うな」俺の報告を聞いた後、しばらくの間、唇を強く噛んだまま苦々しげな表情を浮かべていたクリス少尉は、小さな声でそう言った。
「了解しました」
「俺は、今から首都に向かう。参謀府に直接報告した方がいいだろうからな。通信は盗聴の危険性がある。いつも通り、皆には戻るまでラルフ曹長の指示に従うよう伝えておいてくれ」クリス少尉は慌ただしげに立ち上がる。
「あと、お前の考えを聞いておきたい。お前、そいつに会ってどうだった?」棚から様々な書類や、資料を鞄につめながら、ふと思いついたように、俺の顔を見ると、少尉はそう聞いた。
「と、いいますと?」俺は質問の意図を掴めず、聞き返す。クリス少尉は呆れた表情を浮かべる。
「そいつの印象だよ」
「……果たしたい目的があるのなら、手段を選ぶな、と忠告を受けました。目的が困難であれば、あるほど、と。まさにその言葉を実践しているタイプの男に見えました」
「そうか」クリス少尉はそう言って、外出の準備を再開する。
「多分、だが、俺が参謀府から戻ったら、ラシュディさんとディルはエイジアに護送する事になる」少尉は身支度を整え終わると、そう切り出す。
「あとは、リーフだ。できれば、カエタナの居住が多い地区に受け入れ先を見つけてやりたい。で、だ。お前の両親、元気だよな」
「はい?」俺は突然の質問に戸惑う。
「お前の親に今日中に連絡して、カエタナの女の子一人受け入れるように頼め。生活費は軍が補助を出す」
「は?」
「は?じゃないよ。亡命の事実は言うなよ。軍のお偉いさんの娘を預かる事になったとでも伝えればいい。絶対に亡命者と言う事に感づかれるな」
「ちょ、ちょっと待って下さい」俺は椅子から立ち上がろうとして、思いっきり躓く。そのまま床に転げそうになるのをなんとかこらえて、クリス少尉を見る。
「じゃあ、お前、リーフがどっかの孤児院とかに放り込まれて、ろくに知り合いもいないような国に一人で放り出される方がいいか?」
「それは嫌です」俺ははっきりと答える。
「じゃあ、腹をくくれ。受け入れ先を上層部に選ばせる気にはならん。そのボストの外交官がラシュディさんがここにいるのを知ってたってことは、上層部にそいつと内通してる奴がいるってことだろう。お前、リーフが内通者の根回しで妙な所に受け入れられることになって、ボストとの取引材料にでもされたらどうするんだ?」少尉は厳しい目つきで俺を睨むと、そう畳み掛ける。
「まずいと思います」俺はクリス少尉の目つきに多少驚きながら、そう答える。
「だろ。幸い、お前の実家はカエタナが多い町にあるし、親戚とでも言っておけば、目立ちにくい。俺の士官学校の頃の教官が今、参謀府にいる。政府にも顔が利く人だ。おそらく、理由を話せば外務省にも根回しはしてくれると思う。内通者が変な動きをする前に、先回りして動いておく必要がある」
「じゃあ、軍のお偉いさんの娘さんを、預かる事になった。という事で話をしておきます。驚かれるとは思いますが……」
「なんなら、結婚するとかでも構わんぞ。リーフが了承すればだけどな」クリス少尉が楽しそうにそう言い放つ。
「少尉、真面目な話なんですよね?こういうときまで茶化すのは止めて下さい」俺は少尉に半ば懇願するように言う。少尉は俺の表情を見てよほどおかしかったのだろう。より一層楽しげな目つきになって俺を眺める。
「まあ、結婚は冗談だが、受け入れはしてもらわないと困る。時間との勝負なんだ。俺はお前の他に、リーフと信頼関係を築けているカエタナを知らんし、俺自身が信頼できるカエタナも知らん。いまさら他を探す暇は無い。ボストの破壊工作班が既に潜入している可能性がある以上、報告と、対処は迅速にやらないとまずいのは解るよな。他に方法がないんだよ。いいな、それで」
「了解しました」俺は腹を決めて、敬礼の姿勢でそう答える。
「よし。これで一つ問題が片付いた。じゃあ、参謀府に行ってくる。今日中に親に連絡しとけよ。今日中だからな」クリス少尉が早口で俺に念を押す。俺は思わず圧倒されて、大きく頷く。
クリス少尉が、半ば駆け出すようにして外に出て行った後も、俺は共有スペースで呆然としながら立ち尽くし、親になんと説明したものか、と考え続けていた。