国境編 10章
兵舎に帰ってきた俺、リーフ、ディルは踊りの準備があるから少し待っていてほしいというアキの言葉に従って、それまで、それぞれの部屋で時間をつぶす事になった。俺は、クリス少尉から頼まれていた、ラシュディさんについて解った事があれば知らせて欲しいという依頼について少しでも報告しておこうと思い、いつものように共有スペースでだらだらしている少尉の机の前の、くたびれた椅子に腰掛け、ラシュディさんは機械が得意だそうです。という情報にしては粗末な情報を報告する。クリス少尉はその言葉を聞いて、なにやらしばらく考え込んでいたが、顔を上げ、俺の方を見ると、小さなため息をつく。
「今時、機械好きなんて山ほどいるからな。まあ、理系っていうのが解っただけでもいいとするか」
「ですかね。なんでも結構な上級身分の人もパソコンの修理を頼みに来ていたそうですよ」俺はそう補足する。
「身分?なんという身分だ?」クリス少尉が少し身を乗り出して俺にそう尋ねる。
「ラフィルだったと思います」俺のその言葉を聞いて、クリス少尉の目つきが、一瞬にして鋭い目つきに変わる。
「ラフィル、といったんだな。間違いないか?」
「はい。確かにそう聞きましたが。ご存知なんですか?」俺は少尉の突然の変貌に驚きつつ、そう口にする。
「ラフィルってのは軍事分野の上流階級だ。これでラシュディさんが軍と何らかのつながりがあるという所までは間違いない」クリス少尉はなにやら生気の戻った目で、椅子から立ち上がると、ホワイトボードの前まで歩き、俺の方を振り返る。
「ボストの階級差別ってのは徹底していてな、単純に上流、中流、下流って分かれてる訳じゃないんだ」そう話しながら、クリス少尉はホワイトボードになにやら三角形を描き、その三角形に何本もの横線を引いていき、次に縦線でそれを区切っていく。
「上にいくほど身分が高くなるのは解るよな。こういう身分制度ってのは昔からよくあるんだが、ボストの特殊な所はさらにこの身分を職業ごとに区切ってるってとこだ。ラフィルってのは上流の方の軍事関係職の事だ。まあ、簡単にいえば、高級士官ってとこだ」
「少尉みたいな感じですか?」
「俺は単に士官学校を出ただけの平民さ。ボストの高級士官になるには、このラフィル出身でないと難しい。で、この三角形の一番下の部分、ここがクライドだ。単純に考えて、ラフィルの人間が、クライドの居住区までわざわざ出向いて機械の修理だけを頼むなんてことは考え難い」クリス少尉はそう言って唇の端だけを歪める笑みを浮かべる。
「カイル、多分、これは当たりの情報だ。ラフィルの人間が、クライドの人間にいちいち出向いてそんな事を頼むなんて普通はあり得ない。呼びつけりゃすむ事だからな。ということは、ラフィルの人間がわざわざクライドの居住区にまで赴く何らかの理由があったってことだ。おそらく、その理由ってのが、ラシュディさんが亡命認可の取引で使おうとしているカードだよ」
「そんなに、ボストの階級差ってのは厳しいんですか?」俺はそう尋ねる。
「ああ、セルーラとはそもそも国の成り立ちからして違う。あそこはそれこそ中世からそういう制度を堅持してるんだ。いまでも選挙権があるのは中流以上の国民だけだし、そもそも立候補できるのは上流の奴だけと来てる」クリス少尉は、多少落ち着いたのか椅子に再び腰掛けて、机に肘をつく。
「連邦政府本部の人権委員会が何度も是正勧告を出しているが、その度に拒絶しているからな。連邦からの離脱すらほのめかしてきた事もあったそうだ」
「そうまでして守るメリットがあるんですか?その身分制度に。馬鹿ばっかり上流に集まったらそもそも国が成り立たないでしょう」
「そうでもないさ。利権と資本を持っているのが上流、その資本の中で有無を言わず低賃金で働かされるのが中流と下流だ。労働力を安いコストで、しかも、強制的に上流は使用できる。意外と経済的には壊れにくいシステムだとも言えると思う。職業ごとの人口分布をほぼ固定できるということは、産業構造自体を極めて強固にできる。最低限の教育政策さえ間違えなければ、ある意味、極めて壊れにくいピラミッドの出来上がりだ。特に外国への輸出が極めて少ないボストであればなおさらだよ。内需さえコントロールできればほぼ問題ない」
「教育さえ間違えなければ、でしょう。正直、そんな国に暮らしたいとは思いませんよ」俺はそう感想を述べる。
「俺も同感だ。でもな、ボストの上流で、いい暮らしをしている連中はどうだ?下の連中を完全につぶさない程度に搾取していれば、生まれた瞬間から、贅沢三昧だ。教育を間違えなければってのは、なにもいい人間を作るための教育って言う事じゃないんだ。そう言う階級を受け入れられる人間作りをするっていう意味での教育だよ」
「最低ですね」俺は心底そう思う。そんな国に生まれなくてよかった。
「同じ連邦内にあって、この始末だからな。まあ、連邦を作るときに主体となって動いたのは陸軍の強力なボストと、空軍、海軍が強力なエイジアだ。未だに、この二国と、ほかの三国では、発言権が違う。特にセルーラなんてひどいもんさ」クリス少尉はそう言って、自嘲するように笑う。
「亡命、受け入れられるんでしょうか?」俺は少し不安になってそう口にする。
「不思議な事に、これはほぼ確定らしい。どうやら連邦本部の方の意向もそうだと聞いている。俺が想像するに、ボストと反対の立場に立てる国、つまり、エイジアの意向だと思う。連邦内にあって、この二国がおおっぴらにかち合うことは少ないが、水面下では解らない。おそらく、ラシュディさんは、カードを俺たちセルーラではなく、エイジアに切りたいんだ。セルーラが手に入れた所で、大して活用できない類いの情報かも知れない」クリス少尉は椅子から立ち上がると、兵舎のドアに向かって歩いていく。
「外出ですか?」俺がそう聞くと、
「すこし確認したい事がある。国境軍司令部に行ってくるよ。戻りは明日だ。俺の不在中は、ラルフ曹長に従うように皆に伝えておいてくれないか」俺の方を振り向いて、なにやら真剣な表情でクリス少尉はそう答える。俺は、了解しましたとだけ言い、兵舎から出て行くクリス少尉の背中を眺める。足早に歩いていくクリス少尉の後ろ姿に、俺は言葉にできない不吉な予感を感じるのを抑えきれずにいた。エイジア、ボスト、その狭間で、セルーラが自分たちの力ではどうしようもない何かに巻き込まれようとしている。そんな予感だった。