34 堕ちた天女
天女は本当につい最近まで権力者を誘惑していっていた。時には王を、時には大臣を、時には将軍を。
ちょうど優秀な将軍を肉欲の強い人間にまで堕落させていたところで、天上の神は天女に処罰を下した。死という処罰を下す為、天上から使者を派遣された。
天上からの刺客に殺されそうなり天女は逃げた。
逃げに逃げ、ついに崖から落ちてしまった。天上の刺客はこれで天女は死んだと思い帰って行った。
しかし、崖下に落ちた天女はまだ生きていた。崖下で重傷を負いながらも何とか命をとりとめて。
しかし、かなり弱り果ててしまっているためこのままでは死んでしまう。
崖下には悪魔が蠢き、そいつらの餌にされてしまうだろう。
終わりだと感じたとき目の前に現れた男がいた。
天女はそれが悪魔だと一目でわかった。
男は天女を見て嘲笑った。
「多くの天人や人間の男を誑かし破滅へおいやった天女が落ちぶれたものだな」
その言いぐさに天女はかちんとした。
「うるさいわね。とっとと私を食えばいいでしょ」
天人の血肉は極上の味と言われ、悪魔たちにとっては贅沢なご馳走であった。しかも、それを食すことで力をさらに高めることが可能であった。
しかし、男は天女を食べようとはしなかった。
「まさか、お前なんぞ食べては胃もたれを起こす」
男はふと思いついた。
「そうだ。お前、まだ遊び足りなくないか?」
その言葉に天女は首を傾げた。
「その美しさ、声、甘い香りで多くの男が夢中になるだろう。それで人を誑かし、もっとたくさんの国を零落させてみてはどうだ?」
「楽しそうだけど、さっきそれをやって天に殺されかけたのよ」
「なら、俺が力を与えてやろう。天からの刺客も跳ね除ける力を」
男はそういい天女に手をさしのばした。
天女は男の言っていることにすぐに理解はできなかったが、このまま死ぬのも通りがかりの悪魔に食われるのもいやであった。男の戯言につきあってもいいだろうと考え、その手をとった。
そして天女は男から力を与えられた。天の刺客も手出しできない程の力を。
天女はその男が地上にやってきた魔王であることをすぐに知った。
そして天女は気の向くまま気になる土地へ行きそこの王や領主を誑かし国を滅ぼしていった。
天女が魔王の下で働き、悪魔を操り疫病を流行らせ、自身の美貌で権力者を誘惑させ国の秩序を次々と崩していった。
「魔王についてから十年になるかしら」
さすがに元天女であった彼女も初めは魔王に対して警戒していた。
だが、次第に領土や国の主導者を堕落させ国を崩すことに快感を覚えるようになったキラにはそんなことは些細な問題でしかなかった。
「お前が嫌な奴だというのはわかった」
ラーフはキラに嫌悪感を覚えた。国中の治安が崩れたことは魔王の影響と思われていた。
実際その通りであったが、そこにこのようにおちぶれた天女が暗躍していたとは想像していなかった。
「嫌なやつだなんて酷い。私は欲望のまま生きる人間をみるのが好きなだけど」
キラはぺろっと舌をだし自分の指をなめた。その姿は艶めかしいものであった。
「どんな聖人きどりも私の誘惑の前ではすぐに欲をぶつける俗物になり下がったわ」
キラは魔王に出会って百年の間、各地の指導者に近づき堕落させていった。中には大臣や将軍もいた。
「しかし、驚いたわ。私の誘惑に屈さなかった人の男は初めてよ」
キラはくすくす笑って羽衣を操りラーフに襲い掛かった。羽衣が舞う度に甘い香りがふりかかってきた。それを鼻に嗅ぎラーフは慌てた。頭の中が揺らぎぼやけていくのを感じた。
(しまった)
匂いに関して警戒していたというのになんという失態。
ラーフは急いで口の端を切った。そのわずかな痛みで正気を保ったラーフはキラの方へ刃を振りかざした。ひらりとキラは舞いながらかわしていった。
「あはは……、その程度の痛みじゃ私の香毒から逃げられないわ」
動きが鈍くなっているのに気付いていてキラは揶揄するように笑った。その笑い声を耳にし甘く痺れる感覚を覚えラーフはぞっとした。
(いけない。この女は毒だ)
香りも、声も、姿も男を狂わせる毒であった。
魔王と手を組み、男を意のままに操る能力がさらに向上してしまったのだ。
ラーフは剣を放さないようにぎゅっと握りしめていた。
キラは羽衣を操り、ラーフの腕に羽衣をからませた。羽衣に囚われた右手は思うように動けなかった。
ゆっくりとキラはラーフに近づいた。
「ああ、ここまでして剣を放さないなんてお強いのね」
誘惑されない人の男は初めてであり、キラは内心驚いていた。
「でも、これで終わり……あなたは私のものよ」
キラに首筋を撫でられラーフはぞっとした。離れなければと思っても足が思うように動けなかった。
視線を逸らさなければと思っていても視界の中にキラを留めてしまう。その表情、唇、首筋……すべてがラーフの意識を支配していた。
「さぁ、全てを私に委ねなさい」
キラはラーフの両頬を両手で包み込み自分の傍へと近づけさせた。ラーフはゆっくりと身をおろしキラの方へ自分で近づこうとしていた。
「ラーフ」
突然耳に流れた声でラーフははっとした。
この声に慌てて囚われていない方の左手でキラを引き離した。視界をキラから放し、向けた方向にはレンジュがいた。
呆然とこちらの方を見つめていた。気のせいか涙を浮かべているようであった。
(いや、気のせいではない)
レンジュは泣いていた。
何にと考えてもわからなかった。
そして自分の今の状況を思い出してはっとした。右手から剣を放し、左手で掴みキラを斬りかかった。
キラの左肩から右下へ流れるように線が引かれた。そこから血があふれ出た。
◇◇◇
血があたりに飛び散った。それと同時に女の甲高い叫び声がした。
レンジュは両手で口を覆い驚いた。
キラは首を回しレンジュをぎろっと睨みつけた。キラが右手を翻させると羽衣が舞いレンジュの胸から背中にからみついた。
それと同時にキラはラーフの傍を離れレンジュの方に近づいた。
レンジュが後ずさりをする間もなくキラは目の前まで近づいた。この一瞬でレンジュはキラが敵であることに察知した。
不安そうにキラを見上げるレンジュにキラはふんっと鼻で笑った。
「忌々しい……ここであなたに邪魔されるなんて」
「あの」
「この無欲そうな瞳、本当に腹が立つわ」
ラーフはキラの方へ近づこうとしたが、レンジュの首をキラは左手で掴んだ。
「あぐっ……」
「それ以上近づいたらこの子、殺すわよ」
キラがそう言い笑うとラーフは動けなかった。
「この子を殺されたくなければ、そのまま大人しくして」
そうキラが言うとレンジュの身包んでいない羽衣の端を翻させ甘い香りが流れてくる。
ラーフは慌てて鼻を覆うとするが、キラは左手の力を強くした。するとレンジュは苦しげに呻いた。
「あはは、あなたってあの男に大事に想われているのね。何がいいのかしら? こんな守られてばかりで足を引っ張る娘なんて」
レンジュは首の力が緩んだと同時にラーフに必死に声を出した。
「ラーフ、私に構わずに戦って」
そういうとキラはいらだったような表情を浮かべレンジュの首を力強く締めた。
「いいわね。大事にされて、悲劇のお姫様を気取れて気分いいわね」
「ちがっう」
「違わないわ。純粋で欲のない瞳であの男の庇護欲をかきたてている。あなたも私と同じ男を自由にする嫌な女ね………でも、あなたはそんなのを微塵も思わせようとしないずるい女だわ」
「私は……そんなつもりじゃ」
レンジュは必死に否定しようとした。
だが、ラーフが傍にいてくれるのが自分の欲求であるのに思い出した。
ラーフに傍にいてほしい。
それが自分の一番の我儘であった。今後のことを考え、サーシャはそれを認めた。
自分が役目を終えればこの世からいなくなる。それまでの間、はじめて好きな男に傍にいて欲しい。
「確かに、私の……勝手かもしれない。でも、……でも」
レンジュはラーフをじっと見つめた。涙をこぼしながら口を動かした。首を絞めつけられ声がうまく出なかった。
それでも、ラーフと一緒にいたかった。
「目の前でみてなさい。聖女様。あなたの大好きな男が私のものになるところを」
キラはくすくすと笑いラーフに向かい香毒をあてがわせた。
十分毒はまわってきてキラはラーフを手招きした。キラは甘えるようにラーフの首に両手を絡ませた。瞬間、キラは大きく目を見開いた。
自分の腹に激痛が走ったのだ。みれば自分の腹にラーフの剣が刺さっていた。
「あぐっ」
キラは慌ててラーフから離れた。ラーフは冷たくキラを見下ろした。
(どうした? 俺を自由にするんだろう)
そう言っているようでラーフはにぃっと笑った。その時に口からどろっと血のが零れ落ちた。
舌を強く噛み激痛で正気を保っていたのだ。
「ありえない……私の香毒がまわっていながらそんなことができるなんて」
(自分の力を過信すぎじゃないか)
ラーフは剣を振りおろした。剣はキラの顔にあたり額から頬に深い傷を与えた。
「いやぁ! 私の顔が」
耳が痛くなる程絶叫しキラは逃げ出そうとした。その腕を掴みラーフはキラを押し倒した。
「やぁ……助けて。魔王! あんたの手助けをずっとしてきたんだから」
そう叫ぶが天女に救いの手はさしのばされなかった。
与えられるのは冷たい刃の感触で、それに天女は震える声で質問した。
「なんで、なんであなたは私の誘惑にかからなかったの?」
その問いにラーフは鼻で笑った。
レンジュを泣かせたままで、薄汚れた天女の誘惑に負けるわけがないだろう。
首を絞めつけられ涙を流すレンジュをみてラーフは決して正気を手放すまいと強く思った。
だから舌を強く噛んだ。噛み千切らん程の強さで。
おかげで声がうまく出せなくなった。ラーフの応えを聞かないままキラは崩れ落ちてしまった。




