1 聖女の印
ラーフはじっと目の前で寝息をあてる少女を見つめた。
純白にもみえる水色の長い髪を持つ少女であった。彼女は無防備に四肢を投げ出し横たわっていた。
目の前に成人の男がいるとも知らずに。
ラーフは年頃の少女とは思えない無防備さにあきれ果ててしまった。
「おい、起きろ」
声をかけ少女の肩をゆすった。
「うーん」
少女は重たい瞼を開き、ラーフを見つめた。昨日と同じ空色の瞳であった。
「おはよう、ラーフ」
少女はにっこりとほほ笑んだ。
ラーフはその能天気な表情を見てイラつき、彼女の首に手をかけた。勿論力を入れていない。
「どういうことだ。何故、お前は俺を助命した」
「君を死なせたくなかった」
「ふざけるな」
聖女の気まぐれで命を救われた。
はたから見ればそうみえるだろう。だが、ラーフには余計なお世話だった。
手に力を加えようとした瞬間、ラーフの頭に衝撃が走る。その瞬間、ラーフは手を放した。
あとから来たギーラがラーフの無礼を見て憤り蹴りをくらわせたのだ。
「無礼者! レンジュ様になんということを」
ギーラは急ぎレンジュの傍によりレンジュの無事を確認した。
「ああ、レンジュ様。大丈夫ですか。やはりこのような罪人はあなたに相応しくなどありません」
「大丈夫」
レンジュは微笑んでラーフの傍へと寄った。
「どうしても気になったの」
レンジュはじっとラーフを見て笑った。そしてラーフの頭を撫でた。
すると不思議と頭の痛みは和らいでいった。
「ラバナ将軍を殺した男がどんな男か。世間で言う程の悪党か、どうか」
「悪党? 悪党なのはラバナの方だ!」
ラーフはレンジュの言葉に憤りを覚え怒鳴り散らした。
「あいつはな、俺の妹を誘拐して犯したんだ! 俺が助けに行った時妹はラバナの子を孕まされて、いたたまれなくなり自害した。俺の目の前で」
「そう……妹君も辛かったね」
「あんたに何がわかる! 知ったように同情して、救世神の聖女は随分慈悲を安売りするようで」
赤の他人に安い同情を押しつけられたと感じたラーフは苛立ちを覚えた。それにギーラは何と無礼な奴だと睨みつけた。
「だいたい、救世神の聖女なんて伝承の中の人物だろう」
不審の眼差しを送るラーフにレンジュは胸元に手をかけた。しゅるりと衣ずれの音と共に彼女は胸をはだけさせた。
その行為にラーフは驚いた。
そして彼女の胸元を見てさらに驚いた。
レンジュの胸には薄紅色の蓮の印が刻まれていた。
それはあまりに美しい蓮の印であった。
救世神を信仰する女性は伝承の聖女がつけているとされる印を手背や肩につけていた。印を胸につけ聖女を騙る者もラーフは会ったことがある。
そのどれも明らかにただの刺青や絵であることがすぐにわかる程度のものであった。
しかし、このレンジュの胸元の印は今までみた印とは違った。目を惹き思わず見とれる程のものである。神がみが住まうと言われる天上に咲く花がそのまま少女の胸元に咲いているように見えた。
思わず触れたがそれは本物の花ではない。
ラーフの行動にギーラは拳を振り上げようとしたがレンジュがそれを制止した。
「ラーフ、私が本物の聖女であるのかは私はわからない。でも、この印があるというのは救世神が私を選んだということ。私は私にしかできないことのために旅をしているの」
「お前しかできないこと?」
訝しげにラーフはレンジュを睨みつけた。レンジュはそれを物とも言わずにじっと見つめて応えた。
「この枯れ果てた世界を蘇らせる」
「っは、馬鹿なことを」
ラーフは馬鹿にしたように笑った。
「この世界は一部を除いてすでに死んでいる。それを蘇らせるなんて無理だ」
「それが可能なのだ」
ギーラは今までのレンジュがしてきたことを説明した。
「レンジュ様は今までいくつもの村や町を訪れた。どれも作物の実らない荒れ果てた大地であった。しかし、レンジュ様がそこで禊を行うと大地は息吹を取り戻し、作物が実るようになった」
「馬鹿な」
「本当だ。なら、今までレンジュ様が訪れた場所へ行くと良い。そこでお前は奇跡を見るだろう」
ギーラがあまりにまじめな表情をしているのでラーフは否定する気持ちが削がれていった。
「でも、それだけじゃまだダメなの。また大地は枯れてしまう。魔王がいる限り」
レンジュは思いつめた表情で口にした。
魔王というのは大地を荒らし多くの悪魔を生みだす者である。名前を呼ぶのも恐ろしく憚れる為、誰も口にしない。書に記すのも憚られた。
その為、魔王の名を知る者はいない。
百年前から世界に現れ、悪魔を放っては人々を恐怖と絶望へ導いた。
彼らのせいで荒らされた大地は作物が実らなくなった。最悪湧き出る水も毒と化し人が生きられる場所ではなってしまうこともあった。
多くの者が軍を募り魔王退治を試みたが誰も魔王の元へ辿りつくことができない。もし出来る者がいるとすればそれは神の使いのみである。すなわち救世神の聖女である。
だが、救世神の聖女は五百年昔に登場したっきり現れることはなかった。次第にそれは夢物語に過ぎないと人々は落胆した。
「魔王のすることを止めなければ折角蘇った大地も再び荒れてしまう。だから私は魔王の元へ行かなければならない」
ラーフはそれを聞き眉を潜めた。
「お前、魔王を退治するつもりか?」
こんな華奢な体で獰猛で恐ろしい魔王と戦おうなど自殺行為である。救世神の聖女だったとしても。
「成程、俺を御所望というのは戦力の欲しさか」
ラーフの言葉にレンジュは悲しげに俯いた。図星かとラーフは内心落胆した。伝承の聖女も結局は他人の力を借りなければならないただの小娘ということだ。
「いいぜ。迷惑なことだがお前は一応俺の命の恩人だ。一緒に行ってやるよ」
その言葉にレンジュは顔をあげぱっと明るくなった。
「ありがとう」
そう言いレンジュはラーフに抱きついた。
自分に飛んできた少女の肢体に触れラーフはどきっとした。
少女はあまりに軽かったのだ。
妹のシャーリーはもう少し肉付きがよかった。
なのにレンジュはそれとは対で肉付きは貧相で軽いものであった。
身につけているひらひらした衣装のせいで気付きにくかったが。
「と、とりあえず服を着ろ!」
ラーフは怒鳴りレンジュを突き放した。