サンタクロースをぶっ飛ばせ
ジングルベル、ジングルベル、鈴がなる。
街は色とりどりの煌びやかなイルミネーションに彩られ、子供達はまだ見ぬプレゼントに、胸を希望と期待サンタさん来るかな、という少しの不安で膨らませる。世の親子連れは手を繋ぎながら歩き、家族団らんでキャッキャッウフフとケンタッキーフライドチキンを食す。
胸が、こう、むかむかするね。
アベック共は浮かれ、デートし、前もって予約しておいたレストランで愛を囁き、キャッキャッウフフホテルでイヤン。
おい、ふざけるなよ畜生、こんちくしょう。
そう、今日は所謂、クリスマスという奴なのです。そして僕は、
――クリスマスが、大嫌いだ。
寒さが増した十二月、日は二十四。その日僕の気分は悪かった。二週間ほど前から今日に向けて街が変わっていく様を、バイトに向かう尻目に見つつ。世が段々とその日に向けて気持ちを盛り上げていく中、僕のテンションはだだ下がりであった。
だが、勘違いしないで欲しい、これは毎年の事であり、今年二十一歳になった僕にとっては、当たり前の事。クリスマスは嫌い、気分は良くない。だが、昔と違って最悪では無くなった。あくまでも、良くない止まり。つまりは慣れたのだ。
だから、今年も例年通り、なるべくクリスマスに関係無い一日を過ごすだけの筈だった。そんな大層な望みじゃ無いと思う。ただ静かに、今日と言う一日を大過無く過ごせれば万々歳。ささやかな望みだ。だが、神様はどうにも悪ノリが過ぎる。別に元から信じていた訳ではないし、無神論者とまでもいかないが、どちらにしても酷い。まさかそれこそが……という事なのだろうか。でもそれの中身が何であっても、絶対に、あれだけは言ってやるもんか。それは、半ば意地だった。
前日の夕方から、居酒屋で焼き鳥と苦闘していた僕は、嫌がらせとしか思えない程の大量注文を頼れる仲間達と共に何とか捌き、明け方までの勤めを無事果たした。この時期は忘年会シーズンでもあり、目の回るほどの忙しさだった。兎にも角にも、街が今日と言うイベントに目覚めないうちにと、僕はなるべく街を見ないようにしつつ、全力で自転車をこぎ、自宅である一ルーム五畳、トイレ有り風呂有りの安アパートへと急いだ。
――昼過ぎまで寝ていよう
帰宅した僕はぼんやりとそんな事を考えながら、すばやく寝支度を整え、布団へと潜り込んだ。まったりと過ごすんだ。願望だった。
近頃は大分薄れてきた心的外傷、ようやく、人生そんなに悪くないと思えるようになってきたのだ。
――まあ後で考えれば、この時点でフラグ建ちまくりでしたね、ほんと。
聞きなれた着信音が聞こえる。以前に好きだったバンドの曲で、確か、隠れる場所がどこであろうと、その隠れた自分を中心に世界が広がるから無駄だとか、そんなフレーズだ。好きだった当初は、共感したんだよ。今では大して好きでは無くなったのだが、変えるのも億劫で、結局、ここ数年は同じままだ。
――なんだよちくしょう、まだ全然寝てないんじゃないか?
憂鬱だが、無視する訳にもいかない。最近買ったばかりの温かい羽毛掛け布団から出るのには、強靭な精神力を要したが、腰から半分だけを伸ばして電話を取るという案で妥協することにする。自分と。
「……もしもし」
「おお! 起きてるか~い! ふふふ、私が誰か分かるかな? ヒント君が良く知る人物だよ」
電話口から響く、大音量の渋いバリトンボイス。ここまで声とテンションがミスマッチしている人物を、僕は一人しか知らなかった。
「……店長、何か用ですか」
「シット! 何故ばれた?! 流石は明智君だな」
誰が明智だ。勝手に人の名前を変えるな。
「……店長、盛り上がっているところ大変申し訳ないのですが僕は眠いんです。用件は手短に。あ、ヘルプなら無理ですよ。僕は今日と言う日を休む為に、労働基準法に触れる程の殺人的なシフトをこなしてきたのですから」
「大丈夫、用件すぐ済む一瞬だ!」
どうせ、どうでも良い事なのだろう。この人はいつでもそうだった。どうでも良い事を、さも大事のように言う。僕は声には出さず、そう心の中でごちた。だが。
「君はクビだ」
店長が次に発した言葉は、僕の予想する、遥か斜め前を行く物だった。
「……はい?」
そう返事をするのに、たっぷり十秒は費やした。いやいや、何かの間違いだ。僕の空耳に違いない。もう一度尋ねてみよう、そうしよう。
「……店長、今なんて?」
祈るような気持ちで呟いた。だがその願いは、虚しくへし折られた。
「だからクビだよ。クビ。解雇。朝さー、売り上げを計算してたらさー、何回やっても計算が合わないんだよ。完全に取られたとしか思えなくてさ。で、疑わしきは罰せよの精神で、君ともう一人の新人には辞めてもらうね」
「店長、明らかにその新人が――」
「じゃ、そういう事で、ばいちゃ」
――プツッ
と、僕が何か言い返す前に電話は無慈悲にも切られ、後には寂しさと虚しさを強調するツーっと言う無機質な電子音だけが残った。冗談だろ。
「な……何がばいちゃだ、あのオッサン」
上半身だけ布団から出ていると言う、何とも妙な姿勢から立ち上がり、辛うじてそう強がってみた。だが言葉とは裏腹に身体は動揺を隠し切れず、足元がよろけた。その弾みでリモコンを踏んだのか、昨年、奮発して買った29インチの液晶テレビが出来の悪いコントのように点いた。
「メリークリスマース! フォフォフォ。良い子のみんなには、今年もプレゼントを届けに行くよ」
画面にはサンタクロースの衣装を纏った太り気味のお笑いタレントが満面の笑みで手を振っていた。そう、満面の笑みだ。
「忘れてたよ糞」
トラウマ再びだった。ここ数年鳴りを潜めていた暗い感情が一気に爆発した。ふとテレビの横、小さなテーブルの上にあるデジタル時計へと視線をやる。時刻はまだ朝の九時半。
「場所は……今から行けば昼には着くだろ」
決めた。決意した。目的ができた。
「ここへ行ってサンタを殴ろう。全力で、グーで、助走をつけて殴ろう」
流れるように身支度を済ませると、僕は最悪な日に、最悪な気分で、街へと飛び出した。
電車に揺られながら、僕は何故自分がクリスマス嫌いになったか思い返していた。僕がクリスマスを嫌いになったのには、いくつか理由がある。確かに、三年間真面目に勤めたバイト先をあっさりとクビになったのも十分にむかつくし、ショックだったが、まさかそれだけでサンタを殴ろうとは思わない。今回の件は、要するにただのきっかけだ。今まで積もりに積もった物を爆発させる。導火線のようなものだった。
僕には現在両親がいない。物心ついたころには、父親が死んでいて、母親と、再婚相手がいて、僕らは、相手の家に住んでいた。
そして、その再婚相手の男が最悪だった。暇つぶしに僕を殴るのだ。泣こうが喚こうが笑おうが、とにかく僕を殴り、我慢したとしても何だその目はと殴る。母親は止めなかった。自分達が住んでいるのが男の家で、生活ができるのも男のおかげというのがあったからかも知れない。何よりも、母は心底男に怯えていた。
特に酷いのが、クリスマスだった。男はその日、母親に僕を殴らせるのだ。今でも鮮明に覚えている。母が「ごめんね、ごめんね」と泣きながら僕を殴り、蹴る。手加減は一切無かったと思う。手加減がバレれば、今度は母が暴力の対象となったからだ。そして、僕は朦朧とした意識の中で、薄く笑いながらこちらを見ている男にこう言わされるのだ。
――――と
そんな生活が、近所の住民に通報される小学校五年まで続いた。両親は二人とも捕まり、僕は親戚の家へと引き取られた。
随分と立派なトラウマだろう。えっへん。自慢にもならない。
その後のクリスマスも悲惨だった。痛烈で鮮烈な体験は、僕にとっての強いトラウマになっており、クリスマスが訪れる度に僕を容赦なく打ちのめした。激しい嘔吐が、その代表だった、
――ベリー苦しみます
中学一年の時、嘔吐を繰り返す僕を、叔父夫婦があまりにも心配そうな瞳で見つめていたので、和ませようと蒼白な顔をニヒルに歪め、そんな自虐ネタを一度言った記憶がある。勿論、ピクリともウケなかった。自分では結構シュールな笑いを誘ったつもりだったのだが。反省した僕は、それっきりそんな冗談は言わなかった。
中学三年間、クリスマスは毎年吐いて過ごし、高校に入って少し落ちついてからも、一年の時、クリスマスから骨折入院、二年、インフルエンザ、三年、彼女に振られるといいこと無し。そして、僕は見事にクリスマスが嫌いになったのだ。拍手。何て事だ。
改めて振り返ると、あまりに重かった、主観でも、客観的に考えてみても、斜めにしても透かしてみても、笑ってみても、おどけても、何をしても重かった。僕は頭を抱えた。前に座っている幼稚園位の少年がそんな僕を指差し訝しがった、だが隣に座る丸顔の優しい老婆が微笑みながら少年を制した。老婆は少年にそっとしておきましょうと耳打ちしている。ばっちり聞こえている。どうもかわいそうな人だと思われたらしい。実際その通りで何も言えない。僕はますます惨めな気持ちになると共に、サンタを殴る気持ちを強めた。運転手が間延びした声で目的の駅名を告げた。僕は滑るように電車を降り、ホームを後にした。
そしてやってきましたイベント会場。
先ほどテレビで見ていた通りの景色だった。今日は大規模なイベントがあるらしく、多数の出店に、周りは人でごった返している。テレビの取材と思われるのもいくつか見えた。しかし、右を見ればイチャイチャカップル。左を見ればあったかファミリーと実に楽しそうだ。「嫉妬shit!」気づけばそう叫んでいた。その言い方が先ほどの電話口での店長にナチュラルに似ていたので、僕は軽く自己嫌悪した。あのクソ中年め、まだ僕を苦しめるのか。
ええい、幸せな奴らみんな不幸になれ。等とネガティブな思考全開でうろついていると、不意に、目の前を赤い何かが塞いだ。僕は身構えた、奴か?
「今日、午後三時から特設ステージにてイベントがございまーす。是非見にきて下さい」
ひょっこりと、僕の視界を塞いだのは、サンタの格好をした、可愛らしい女の子だった。年は僕より二つ三つ下だろうか、大量のチラシの束を持ち、この寒い中、イベント用の短いミニスカートを穿いた彼女は、愛くるしい笑顔を振りまいていた。
――むう、可愛いじゃないか
チラシを受け取りながら、そう思ってしまった。馬鹿な、彼女は憎むべきサンタの姿を模しているんだぞ。脳内で葛藤、肯定派と否定派による、熱い議論が交わされる。
二秒で答えは出た。
――セーフ、サンタガールはセーフ。可愛いから。
肯定派と否定派がいたはずだが、終わってみれば満場一致だった。
「寒いけど、頑張ってね」
傍にあった自販機でホットココアを買うと、僕は彼女にそう言いながら手渡した。
「ありがとうございます」
なんていうか天使だった。暗い気持ちが浄化されてしまいそうだったので、僕は慌ててその場を離れた。少し幸せな気持ちになってしまったが、当初の目的を忘れまいと、僕は改めて気合を入れなおした。
気持ちを新たに、僕はまたサンタ探しを始めた。先ほどから至るところにサンタガールはいるのだが、肝心要のサンタクロースはまだ一人も見ていなかった。どうなっているんだ。サンタガールは確かに可愛いが、あくまでもサンタの亜種、派生な筈。何故原種であるサンタがいないんだ。これはおかしい。僕は主催者がそういう嗜好の持ち主に違いないと、独断した。
そんな事を考えながら、歩いていると、
「てい、正拳突き」
「あっ!」
突如尻に鋭い痛みが走った。何なんだ。
尻を擦りながら振り向き視線を落とすと、そこにはショートカットでクリーム色のセーターにジーンズを穿いた、くりくりとした瞳を持つ、十歳位の少年が立っていた。
「何か用かな」
先ほどの少年の言葉を信じるのならば、僕の尻を襲ったこの痛みの正体は少年が放った正拳突きという事になる。正直、結構痛かったので僕は軽く頭に来ていたが、そこは大人の余裕。僕は少年の前で屈み、出来るだけ優しくそう尋ねた。しかし。
「兄ちゃんヒマそうだから、俺が遊んでやるよ」
生意気だった、あまりの生意気さに、いっそ清々しいとまで思った。僕は方針を変える事にした。
「断る。お兄さんは忙しいんだ。他を当たるんだな少年」
「うそだー。さっきから見てたけど、兄ちゃん一人でうろうろしてるだけじゃん。クリスマスなのに家族も友達も恋人もいなくて、でも家で一人でいるのもいたたまれないから外に出た、寂しい大人でしょ」
あながち間違ってもいないから余計に腹が立った。それにしても、よくいたたまれないなんて難しい単語を知っているなと思った。僕は少しだけ感心した。あくまで少しだけ。それとこれとは話は別で、むかつきはしたが。
「だだだ、誰が寂しい大人だ! そういう少年こそ、子供が一人で来るような所じゃないぞ」
「俺はちゃんと家族と来てるよ」
「なら、その家族と遊んでもらうんだな」
僕がそう言うと、少年はため息を吐きながら、よく外人がやる、やれやれと言うようなポーズをとった。
「頭の回転悪いなー。それが出来ないから、兄ちゃんなんかに声をかけたんだろ。俺の家族は今仕事中で、遊べないの」
「なるほど、理由は分かった。だが人を頭の回転悪い呼ばわりするような奴とは、絶対に遊んでやらん!」
付き合っていられない。僕はその場を去ろうとした、だが、服の裾を少年にがっちりと掴まれ、立ち上がれなかった。
「こらこら、離せ少年。服が、伸びるだろうが」
少年はその言葉には答えず、代わりに、にっこりと微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、ぞくりと、僕の全身を悪寒が駆け抜けた。何か致命的なミスをしたような、そんな感覚もした。少年は大きく息を吸い込み――。
「助けてー! 誘拐されるー」
力の限り、そう叫んだ。周りの視線が一斉にこちらに向く。僕は咄嗟に、少年の口を押さえ、抱きかかえた。だが、その絵面はますます誘拐犯じみていて、僕へ向けられている視線はより一層温度を下げた。僕はとりあえず、ごまかしてみる事にした。
「もうーだめだぞー。いくら欲しいおもちゃが買ってもらえないからって。ほら、みんなびっくりしてるだろ? はははは」
棒読みだった。自分には、演技の才能が無いことが良く分かった。気づけば少年は、僕の腕からするりと抜け出し、僕にだけ聞こえるようにこう囁いた。
「兄ちゃんは勘違いしている。俺に声をかけられた時点で兄ちゃんは詰んでるんだよ? 大人は兄ちゃんといたいけな子供の俺、どっちの言うことを聞いてくれるかな? ねえ、どう思う?」
恐ろしい少年だった。僕は今初めて理解した。少年の言う通り、声をかけられた時点で僕に選択肢など無かったのだ。この少年は天才だと思った。何の、と聞かれたら困るが。僕は観念した。
「分かった。遊んでやるよ」
「遊ばせて下さいだろ? 兄ちゃん?」
「……あそばせて……ください」
搾り出すようにそう吐き出し、僕はがっくりとうなだれた。二十一歳が恐らく自分の半分も生きていない少年に完全敗北を喫した瞬間である。僕は、心の中で泣いた。
こうなった以上は半ば自棄だった。僕は少年と共にイベント会場を遊び倒した。的当てに、アスレチック的なアトラクション。年甲斐もなく、周りも引くほど全力で遊んだ。そんな僕を見て、少年は大笑いしていた。ふと気づくと時計は午後三時を回っていた。僕も少年も、遊びすぎて空腹を覚えたので、クレープを買い、ベンチで休憩する事にした。前を見ると、特設ステージでちょうどイベントが始まったようだ。司会者と思しき女性がプログラムを説明している。
少年は僕のとなりで懸命にクレープを頬張っている。そんな少年を見て、こういうのも悪くはないな、と思った。僕に兄弟はいないが、もし居たとしたら、こんな感じなのかな、と。だがすぐに、こんな可愛げのない弟は嫌だなと思い直した。
「なあ、何で僕だったんだ」
疑問だった事を聞いてみた。少年はクレープを食べるのを一旦止めると、こちらを向き、答えた。
「さっきも言ったろ、兄ちゃんがアホ面下げて暇そうにしてたからだよ」
さっきよりも悪い気がする。僕は気にせず続けた。
「そんなやつなら他にもいたろ」
そうだ、そんなに数は多くは無いが、僕と似たような人間は他にもいた筈なのだ、その中でどうして少年が僕を選んだのか、それが知りたかった。少年は少し照れたように顔を背ける。
「あと、兄ちゃんが頑張って、って言ってたからさ」
「は? 誰に?」
「だから、兄ちゃんが寒いけど頑張って、って姉ちゃんに……」
「姉ちゃん?」
瞬間、絹を裂くような悲鳴が辺りに響き渡った。マイク越しに発せられ、思わず耳を塞ぐ程の音量であげられた悲鳴は、先ほどプラグラムを読み上げていた司会者の物だった。騒ぎの中心である壇上に目を向けると、見覚えのある一人のサンタガールと、この日初めて見たサンタクロース。その組み合わせ自体は違和感が無いのだが、問題は三つあった。
一つ、ステージではとある団体が創作ダンスを披露していたのだが、今は蜘蛛の子を散らしたように逃げていた事。二つ、サンタの格好した小太りの中年男性の目が酷く血走っていて、息が荒かった事。三つ、そんなサンタに捕まっているサンタガールの少女。その表情が先ほどの輝くような笑顔ではなく、酷く怯え、その首元にナイフが突きつけられていた事。そしてどうもこの少女は。
「……姉ちゃん」
蒼白な顔でそう呟いた少年の、姉らしかった。ああ、これじゃ四つか。僕は改めて、神様という奴を呪った。何故こんなにも、トラブルばかり起こるのか。
「……助けなきゃ」
呆然と立ちつくす僕を正気に戻したのは、隣にいた少年のそんな一言だった。
少年は騒つく聴衆の合間をするすると抜け、あっという間に遠ざかっていく。
――ええい、くそ!
考える間も無かったが、少年をこのまま放置する訳にもいかない。僕は慌てて少年を追った。
結果。
「姉ちゃんからその汚い手を離せ!」
半身で立ち、右手の人差し指でびしりと相手を示しまるで戦隊ヒーローのような台詞を放つ少年の横に、僕は立っていた。場所は無論、騒ぎの渦中である檀上だ。サンタとの距離は、多分五メートル程。どうしてこうなった。
「なんだ! お前らは!」
サンタは血走った眼でこちらを睨み、叫ぶ。ご最もだ。
「あー、こっちの子は今アンタが人質にしている子の家族で、僕は……その、保護者? みたいなものかな」
落ち着け僕、先ず人質事件説得の基本だ。相手の第一次的要求を聞き出さなければ。
「えーと、どうしてこんな事を?」
「俺はなぁ! クリスマスが大嫌いなんだよ! 仕事もクビになって、彼女もいない、友人もいない。どいつもこいつもイチャつきやがって、俺は頭に来てるんだ。だから、サンタの格好をして、クリスマスをぶち壊してやるって決めたんだよぉ!」
何だろう、僕の心にもダメージが来る。しかし、へこんでいる場合じゃない。とりあえず相手の要求は聞いた。ここから上手く話を持っていき、例えば、食事や他の物で相手の二次的要求を叶え、一時的要求の欲求ストレスを緩和させる。っというか、所詮こちらは素人なので、下手に刺激してしまう前に早く警察とかに引き継ぎたい。ともかく、これ以上はあんまり突っ込んだ事は言わずに、なんとか穏便に――。
「何だよそれ! そんなのただの僻みとか妬みじゃんか! 仕事をクビになったのもおっさんが彼女も友達もいない寂しくて救いようの無い大人なのも、姉ちゃんが巻き込まれる理由になんかなんないよ! このクソサンタ!」
済ませたかったが、少年が吠え、思い切り相手を刺激しました。
「何!」
激昂するサンタは、凄まじい形相で少年を睨みつけた。成人である僕でさえ、恐怖を覚える貌であった。しかし、少年は怯まず、一歩前に出た。
「姉ちゃんの代わりに、俺が人質になる! だから、姉ちゃんを離せ」
そう言い放ち、少年はまた一歩前へと進んだ。捕らわれているサンタガールが少年に向け、何かを言おうとするが、サンタが首元に突き付けたナイフの距離を近くすることでそれを制した。
「ち、近寄るな!」
サンタが叫び、少しだけ後退りした。
「何だよ、怖いのかよ。俺は子供だし、何にも持っちゃいないよ」
少年は両手を広げ、相手に見せつけるように、ゆっくりとその場で回転した。そして少年が後ろを向いた時に、僕と目が合った。その瞳は確かな意思を宿していて、僕に何かを伝えたいのだと、感じた。
回転を終えた少年は、またゆっくりとサンタへ向け歩き出した。その距離は四メートル程か。
――どうすれば良いんだ
先ほど少年から発せられたアイコンタクト。単純に考えるのならば、少年が今から何か行動を起こし、それに呼応してほしいという意思表示だ。
少年とサンタの距離は三メートル程。
今更逃げ出す訳にもいかない。もし、僕が少年と出会わずにこの人質事件に遭遇していたならば、今こちらを恐る恐る遠巻きに見ている野次馬の中に僕は混ざっていただろう。それは何もせず、時が、自分以外の誰かが状況を解決してくれるのを待つ、毒にも薬にもならない傍観者の一人。
考えただけで胸がこう、むかむかしてきた。それが野次馬に対する怒りなのか、無力な自分に対する憤りなのかは分からない。だが確かなのは――。
――僕は、人質になっているサンタガールとも、刃物持ったサンタに立ち向かう少年とも、関わったということだ。
この寒空の中で嫌な顔一つせず、明るく元気にチラシを配っていたサンタガール。僕を見て大笑いしていた少年。二人の姿が脳裏を過り、僕は、覚悟を決めた。
静かに息を吐き出し、大きく吸い込む。
少年とサンタの距離は二メートルを切った。
「く、来るな!」
サンタはサンタガールの首元に突き付けていたナイフを少年に向けた。
瞬間、俊敏な動作で少年がサンタのナイフ持った腕を掴み、思い切り手の甲に噛みついた。痛みに耐えかねたサンタがナイフを落とし呻く。
「このガキ!」
サンタが思い切り腕を振り払うと少年が飛ばされ、舞台の上を転がった。僕は駆け出し、転がった先で少年が起き上がり叫んだ。
「今だよ!」
分かってる。居酒屋勤務を舐めるなよ。サンタと僕の距離が瞬く間に詰まる。近づく僕にようやく気付いたサンタは身構えようとしたがもう遅い。
――なあ、サンタクロース。
正直、目の前にいるこの中年サンタには、少なからず共感できる部分はあったし、同情も無くは無かった。こんな事が起きなければ、僕が騒ぎの中心になっていた可能性だって在った筈だ。
だけど、だけどだ。理由はどうあれ、最初の目的を、目標を、積年の溜まりに溜まった恨みや鬱憤、その他の感情をぶちまけさせてさせてもらう。
そして僕は、右腕を大きく振りかぶり――。
――サンタを殴った。全力で、グーで、助走をつけて殴った。
視界の端で少年が歓声と共にガッツポーズを取り、サンタの横にいたサンタガールは安堵の表情を浮かべていた。
「ごめんね明智君! 朝変な電話しちゃって! 酔っぱらってお金数えてたから間違えたの! 君に辞められたらお店の忙しさで、物理的にも精神的にも私死んじゃう! お詫びに明日も休んで良いから許して! お願い!」
「次やったら、本当に辞めますから、あと朝も言いましたが僕の名前は明智じゃありません」
僕はそれだけ言うと携帯電話を切り、ため息を吐いた。ふと、空を見上げると、もう日が沈もうとしていた。
あれから僕は駆けつけた警官達にこってりと絞られた。幸い、吹っ飛ばされた少年や人質であったサンタガールにも怪我らしい怪我が無かったから良かったものの、最悪の結果を考えると、僕の取った行動は確かに軽率であったと言えよう。
「兄ちゃん、お疲れ」
背中から少年の声。振り向くと、少年の姉であるサンタガールも一緒だった。最も、既に彼女はサンタガールの恰好では無く、、コート姿であったが。彼女は僕と視線が合うと申し訳なさそうな顔で会釈をした。
「本当にありがとうございます。助けて頂いたばかりか、妹の面倒まで……この子、ご迷惑をおかけしたりしませんでしたか?」
「いや、僕も無我夢中でしたし、その子も……え、妹?」
思わず聞き返し、少年に視線を向けた。少年は何故か得意げな顔で胸を張り、
「おう、俺は女だよ」
と言った。
「……何で訂正しなかったんだ?」
「普段から良く間違えられるし、その方が面白そうだから」
「……そうですか」
本当に、この少年、いや、少女は才能が有ると思った。人をおちょくる才能だが。
「あの」
少女の姉が、遠慮がちに声を掛けてきた、心なしか、少しその顔が赤い気がする。
「もしこの後お暇だったら、家に来ませんか?」
「え?」
彼女が発した突然の提案に、僕は面食らった。横にいる少女は両手を頭の後ろで組み、にやつきながらこちらを見ている。
「えっと……良いんですか、お邪魔して?」
「是非!」
と、僕が引くほどの勢いで彼女は即答した。僕が肯定の意思を示すと、彼女は最初に出会った時の、輝くような笑顔を見せ、
「じゃあ、行きましょう! 私、腕によりをかけてご馳走しますね」
と言いながら先頭を歩き出した。結構強引な子みたいだ。見た目は似てないが、こういう部分は少女と姉妹なんだなと、僕は思った。
僕は苦笑しながらもその後に続く。少女がそんな僕に対し小声で耳打ちしてくる。
「兄ちゃん兄ちゃん」
「なんだよ」
「へへへ、結構、脈有ると思うよ?」
「そうか?」
確かに、少女の姉が好意的だとは僕も思った。
「それに」
少女は一度言葉を切り、飛びっきりの笑顔で、
「もし姉ちゃんが駄目なら、俺でもいいよ?」
と言った。先ほどの、この姉妹は見た目は似てないといった考えは訂正する。少女の笑顔は彼女の姉によく似ていて、不覚にも、少しドキリとしてしまった。だが、内心の動揺や気恥ずかしさを悟られないように、僕は少女の頭をわしゃわしゃと少し雑に撫でまわした。
「今いくつだ?」
「十歳」
「なら、そういう台詞はあと六年、いや、世間体的にあと八年経ってから言うんだな、このマセガキ」
「お、言ったな兄ちゃん。言質とったよ?」
こんな馬鹿みたいな話をしながら、僕はとてもあたたかく、満たされた気持ちになっていた。長い間凍っていた何かが、溶け出していく感覚がした。今なら素直に、あの言葉が出せる。そう思った。
――――。
自分だけにしか聞こえないように紡いでみた言葉。あれだけ言うのを躊躇っていた言葉。なんだ、簡単じゃないか。悪くない気分だ。
街は色とりどりの煌びやかなイルミネーションに彩られている。
世の人々よ、今の僕なら素直に、心から楽しい気持ちでこう言おう――。
――メリークリスマス。
神様も、たまには良い仕事をしてくれると、僕は思った。
終