さんまが襖の溝に挟まった日
さんまが襖の溝に挟まった日
訪問看護師の加奈ちゃんが、私の左腕に血圧計のカフを巻いた。面ファスナーが肘の上で短い音を立て、管の先で空気が送られ始める。私は台所の方を見たまま、膨らんでいくカフに腕を任せた。
「少し締まりますよ。はい、力を抜いてくださいね」
七十を過ぎると、週に二度の訪問は、体調を診てもらう時間であると同時に、人と顔を合わせて話す時間にもなった。加奈ちゃんは血圧を測りながら、私が前回話した大根の煮物を覚えていてくれる。今日は玄関を開けたとき、買い物袋から出し忘れた長ねぎを見つけて笑った。
「上が百十八、下が七十二。今日はいいですね」
「じゃあ、あの梨を出しても大丈夫かな」
「梨と血圧は別のお話ですよ」
加奈ちゃんがカフを外す間に、私は食器棚の横の段ボール箱を指した。近所の人からもらった新高梨が三つ、新聞紙に包まれて入っている。一つは今日の夕飯に切るつもりで、もう一つを帰りに持っていってもらおうと思っていた。
「立派なのをいただいたの。一つ、持って帰らない?」
「わあ、梨ですか。私、好きなんですよ」
加奈ちゃんは新聞紙の上から梨を持ち上げ、両手で重さを確かめた。髪を後ろで一つに結んでいて、耳の横に短い毛がはねている。いつも動きが早い人だが、梨を見ている間だけは、子どもが縁日の景品を選ぶときのような顔をした。
私は以前、加奈ちゃんが離婚していると聞いたことを思い出した。誰から聞いたかも曖昧な話だし、本人に尋ねることではない。そう思ったのに、口が先に動いた。
「加奈ちゃんと別れるなんて、前の旦那さんはもったいないことをしたね」
言ってから、私は湯呑みを持つ手を止めた。加奈ちゃんは梨を新聞紙へ戻し、消毒液の乾いた手を膝に置く。少し間があったので、謝ろうとした。
「もったいないと思っていたのは、私もです。さんまをひっくり返されるまでは」
「さんま?」
「座卓ごとです」
加奈ちゃんは両手で四角い卓の形を作った。私は台所に置いた味噌汁の鍋を見た。今日の昼はごぼう、大根、にんじん、しめじ、油揚げを入れ、仕上げに青じそとみょうがを散らしてある。
「そんなことをする人が、本当にいるの」
「いました。しかも、さんまが焼けた直後に」
結婚して二年目の秋だったそうだ。加奈ちゃんは仕事が休みで、夫の好きなものを作ろうと朝から魚屋へ行った。脂ののったさんまを二尾買い、冷蔵庫に残っていた大根はおろしに使った。
味噌汁にはごぼうとにんじんと豆腐を入れた。きゅうりとわかめの酢の物も作り、糠床から茄子の漬物を出す。近所でもらった梨は皮をむき、食後に出せるよう冷蔵庫の奥へしまった。
「台所にずっといたので、自分では匂いが分からなくなっていたんです。でも夫が帰ってきたら、さんまの焼ける匂いで驚くかなって」
「聞いているだけで、お腹がすくよ」
「私もそう思って、二人分のお茶碗にご飯をよそいました」
夫は帰宅すると、上着も脱がずに座卓を見た。さんまの皿、湯気の立つ味噌汁、小鉢が三つ並んでいる。加奈ちゃんが「ご飯できたよ」と言うと、夫は椅子のない卓の前で立ち止まった。
「……なんで、こんなに作ったんだ」
「好きなものばかりにしたの。お味噌汁も温かいうちに」
「全部食べろってことかよ」
加奈ちゃんは残してもいいと答えた。翌日の朝食に回せるものもあるし、梨は冷蔵庫へ入れてある。けれど夫は、並んだ皿から目を離さなかった。
「疲れて帰ってきたのに、これじゃ食べなきゃ悪いみたいじゃないか」
夫が座卓の端を持ち上げた。加奈ちゃんが声をかける前に卓が傾き、味噌汁の椀が倒れる。さんまの皿は滑って襖に当たり、一尾が下の溝へ落ちた。
汁は畳の目に沿って広がり、酢の物のきゅうりが座布団の上に散った。夫は持ち上げた卓から手を離し、ようやく自分のしたことを見たという。加奈ちゃんは足元の熱い汁を避けて、夫に台所へ下がるよう言った。
「火傷してない?」
そう尋ねたのは、看護師だからというより、目の前で熱い椀が倒れたからだった。夫は手を見せず、「そういう話じゃない」と言った。加奈ちゃんはタオルを取りに行き、戻ってきてから、畳に膝をついた。
襖の溝からさんまをつまみ上げた。魚の皮は破れ、溝には塩と細い骨が残っている。加奈ちゃんは皿へさんまを戻し、タオルで汁を押さえたが、ごぼうと鰹出汁の匂いは畳から消えなかった。
そこまで話して、加奈ちゃんは私の湯呑みに目をやった。私はひと口も飲んでいなかった。彼女は少し笑って、自分の喉を指さした。
「お茶、いただいてもいいですか。しゃべりすぎちゃった」
「もちろん。私の方こそ、聞いてしまってごめんね」
私は急須からお茶を注いだ。加奈ちゃんは湯呑みを持ち、湯気が落ち着くのを待ってから飲む。梨の入った段ボール箱は、二人の椅子の間に置いたままだった。
「その晩、夫は謝ったんです。でも次に言ったのが『今度から総菜一つでいいから』でした」
「卓をひっくり返したことより、献立の話を?」
「ええ。私はあのあと、畳を何度も拭いて、襖の溝を綿棒で掃除したんですけどね」
加奈ちゃんは湯呑みを両手で包んだ。夫が少ない夕飯を望むなら、話し合って量を変えることはできたと思う。けれど、皿を投げたあとの片づけまで、一人でする暮らしは続けられなかったという。
「次の日も、座ると味噌汁の匂いがしたんです。好きな匂いだったのに、部屋へ入るのが嫌になってしまって」
加奈ちゃんはしばらく夫と別に暮らし、その後、離婚した。今もさんまは好きで、秋になると魚屋へ寄る。自分のために一尾だけ買い、大根おろしをたっぷり添えるそうだ。
「もう一つ、好きなものが増えました。梨です」
「梨は前から好きでしょう」
「そうでした。じゃあ、今日もう一つ増えるのは、新高梨ですね」
私が笑うと、加奈ちゃんも笑った。彼女は湯呑みを流しへ運び、訪問の記録を確認してから鞄を閉じる。帰りに梨を一つ渡すと、重みで紙袋の持ち手が伸びた。
「私の今日の夕飯も味噌汁なんだよ。ごぼう、大根、にんじん、しめじ、油揚げ。庭の青じそも入れた」
「みょうがは?」
「もちろん。薄ピンクがないと寂しいもの」
加奈ちゃんは紙袋を片手に持ち替え、玄関で靴を履いた。戸を開けると、外から少し涼しい風が入ってくる。振り返った彼女の前髪が揺れた。
「お味噌汁、残してもいいですからね。明日もおいしいです」
「うん。まずは一杯、食べてみるよ」
加奈ちゃんを見送ってから、私は鍋の蓋を開けた。ごぼうと油揚げの匂いが湯気に混じり、青じそが汁の上で緑を濃くしている。小さな椀によそい、みょうがをもう少し載せて、卓へ運んだ。




