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第7話 迎える者たち

伴野は、濡れた段ボール箱の匂いが苦手だった。


水を吸った紙は、持ち上げる前から重さが分かる。角が丸くなり、底が抜ける。中身が食料でも、衣類でも、毛布でも、濡れた箱は人の手を迷わせる。どこを持てば破れないか。何から先に運べばいいか。誰に渡せば、次の人へ届くのか。


迷っている間に、間に合わなくなる。


その感覚を、伴野は身体の奥に持っていた。


九月二十四日、午前五時過ぎ。


青森市内の古い貸し会館は、まだ夜の湿りを引きずっていた。天井の低い集会室には蛍光灯が三本だけ点き、白い光が長机の上を平たく照らしている。窓の外では、雨が細かく降っていた。舗装路を走る車の音が、水を踏むたびに薄く広がる。


机の上には、折りたたまれた地図、印刷された道路規制情報、避難所一覧、青いビブス、養生テープ、油性ペンが並んでいた。奥の壁には、神代が配信用に使う白い布が掛けられている。布の前に、黒い三脚と小さなライトが置かれていた。


宗教の集会というより、災害対応の打ち合わせに見えた。


そう見えることが、伴野には少し安心だった。


「伴野さん」


神代が、折りたたみ椅子から立ち上がった。


白いシャツは雨の匂いを吸っていない。細い黒紐のペンダントだけが、胸元で静かに揺れている。神代はいつも清潔だった。人が濡れ、迷い、怒鳴り合う場所でも、彼の声だけは濁らない。


「眠れましたか」


「少しだけです」


伴野は答えた。


自分の声がかすれている。昨夜から、避難所の受付時間、道路冠水、施設周辺の規制、配信コメントへの返信、支援物資の搬入調整をずっと見ていた。眠ったのは、椅子に座ったまま三十分ほどだと思う。まぶたの裏に、雨の映像が残っていた。


市社協から回ってきた搬入計画では、臨時閉館中の三内丸山遺跡センターの駐車場と搬入口Aが、西側の高齢者施設へ向かう物資の一時中継と照合場所に指定されていた。市街地側の道路が冠水し始め、広い駐車場と屋根のある搬入口を持つ公共施設として条件を満たすのが、そこだったからだ。


一般の来館者ゲートは閉じている。縄文時遊館から展示側へ抜ける動線も、臨時閉館の告知と一緒に止められている。それでも、災害対応の車両と職員車両だけは管理門を通る。閉じた施設ほど、開いている入口は少なくなる。少なくなった入口へ、救援物資、報道、警備、文化財管理、道路規制の連絡が集まる。


六つの、雨が落ちない場所。


柱がある。


その言葉を、彼は何度も消した。


現地へ行かないでください。


水位が上がっています。


映像ではなく、安全確認を優先してください。


そう書き続けた。そう書きながら、自分でも分からなくなった。人を止めることと、置き去りにすることは、どこで違うのか。


「あなたのコメントを読みました」


神代は言った。


「止めようとしてくれていましたね」


「行ったら危ないので」


「ええ。正しい」


正しい、と言われると、伴野は肩の力を少し抜きそうになった。


神代は、その瞬間を待っていたように続けた。


「でも、正しさだけで救えない時がある」


伴野の喉が狭くなった。


会場の隅にいた数人が、動きを止めた。青いビブスを畳んでいた女性。印刷物に穴を開けていた若い男。段ボール箱の数を数えていた中年の男。誰も神代の言葉へ飛びつかない。ただ、聞く準備だけをしている。


若い男の雨具の袖には、油性ペンで小さく「慎」と書いた養生テープが貼られていた。配信のコメント欄では《西・慎》と名乗っていた男だ。彼の端末には、《それなら僕も行きます》と書いたあとで伴野から送られた西側施設の搬入確認先が、何度も開かれた跡を残していた。


その静けさが、伴野には怖かった。


「先生」


「あなたは、名簿を待っていた」


神代の声は穏やかだった。


「確認を待つべきだった。許可を待つべきだった。全体の安全を見なければならなかった。だから、あなたは待った」


「やめてください」


伴野は言った。


声が思ったより小さかった。


神代は止まらなかった。


「その間に、助けられなかった人がいる」


集会室の湿った空気が、急に重くなった。


伴野は机の端を握った。古い会議机の天板はざらついている。指先に、ささくれた木目が触れた。


相談フォームに、書いた。


一行だけ。


名簿の確認を待っている間に、助けに行けなかった人がいます。今度は間に合わせたいです。


書かなければよかった、と思ったことは何度もある。だが、書いた時、伴野は本当に救われた。神代が配信でそれを笑わなかったからだ。見知らぬ誰かが、分かる、と返してくれたからだ。災害のあと、善意のはずの行動が責められ、動かなかったことも責められ、結局何をすればよかったのか分からなくなった夜、天杭講のコメント欄だけは彼の言葉を捨てなかった。


拾われた言葉は、拾った人のものになる。


そんな言い方を、知らない誰かにされたら、伴野は怒ったかもしれない。


でも今、その意味が少し分かった。


「今度も待ちますか」


神代は聞いた。


「名簿と、許可と、発表を。彼らが、何をどこへ運ぶのか、何を隠すのか、何を柱から外したのか。それを全部、決めてくれるまで」


「隠しているとは、まだ」


伴野は言いかけた。


神代は、そこで初めてわずかに微笑んだ。


「あなたは優しい。だから、彼らも悪人ではないと考える。私もそう思います。彼らは嘘をついたのではない。見えなかっただけです」


その言葉は、いつもの神代の言葉だった。


やわらかく、相手を許す形で、相手の足場を奪う。


神代は机の上の紙を一枚、伴野へ向けた。


公開された施設告知、道路規制情報、救援物資の搬入口案内、報道陣の待機位置、臨時閉館の告知、周辺道路の冠水情報。管理門の使用予定と、旧倉庫を資材退避に使う可能性まで、別々の紙の隅に小さく出ている。その断片を、赤マーカーの線で結んだものだった。


正確な移送経路ではない。


だが、いつ、どの方面の車両が減速し、どこで報道陣が待ち、どの屋根付き搬入口が救援物資と文化財管理の両方に使われる可能性があるかは、見えてしまう。どの門が閉じ、どの門だけが開くのかも。


公開情報だけで。


神代たちは、ルートを知っていたのではない。文化財側が避けるはずの時間、報道陣が張るはずの場所、豪雨で使えなくなる道を、公開された断片から逆算していた。そこへ、伴野が市社協経由の登録ボランティアとして持つ物資照合名簿と、臨時車両証の控えが重なる。


伴野が渡したつもりはない。


ただ、朝の受付では、濡れた透明袋が何度も手から手へ渡る。車両証の番号。業者名。照合済みの控え。袋を替える一拍、箱数を読み上げる声、机の端を押さえる手。


そのどれもが、隠れてはいない。


神代の紙には、その番号があった。


救援物資の箱に紛れれば、携帯発電機は仮設照明に見える。三脚は記録用の備品に見える。白い布も、濡れた荷を覆う養生に見える。閉館中のゲートを破る必要はない。開けられた管理門を、正しい番号と名前で通ればよかった。


伴野は、透明袋に入ったその控えを見た。


そこに自分の名前がある。


自分の名前があるというだけで、車両が一台、誰かの目の前を通れる。


それを理解した瞬間、胃の底が冷えた。


「先生、これは」


「迎えに行くのではありません」


神代は言った。


「柱へ据えていただくんです」


伴野は、昨日から聞き続けたその言葉の違和感を、まだ飲み込めずにいた。


迎える。


据える。


言葉が少しずつ変わっている。


最初は、天浮船を迎える神宝だった。今は、柱へ据えるものになっている。竹内文書の図版や文字表と円盤の刻線が合わないことを問われるたび、神代は、文書の方が歪んで伝わったのだと言った。実物を失った人間が、あとから船や文字や王統の物語で包んだ。だから、合わない部分こそ、実物が文書より古い証しなのだと。


何を迎えるのか、どこへ据えるのか、神代は明確には言わない。明確にしないからこそ、聞く側が自分の失ったものをそこへ入れる。


伴野は、失った人の顔を入れてしまう。


「円盤を動かしたら、雨が止まるんですか」


彼は聞いた。


神代はすぐには答えなかった。


窓の外で、雨脚が強まった。細い雨が、会館のガラスを斜めに叩く。遠くで救急車のサイレンが鳴り、すぐに建物の陰へ消えた。


神代の指が、胸元の黒い紐へ触れた。ほんの短い動きだった。伴野には、彼が一瞬だけ、この部屋にはいない誰かを見たように見えた。


「雨を止める、と言うと、安い奇跡になります」


神代は静かに言った。


「私たちが戻すのは、失われた順番です。天と地が正しく開かれる順番。柱が、柱として立つ順番。閉じられたまま置き去りにされたものへ、もう一度、道を開く順番」


伴野は息を吸った。


分からない。


分からないのに、胸の奥だけが熱くなった。


「私に何をしろと」


「あなたが持っている信用を、使ってください」


神代は言った。


「人を押しのけるためではなく、人を助けるために。救援搬入の名簿を整え、車両を正しい場所へ導く。道路が詰まれば、危険な場所にいる人を退かせる。誰も傷つけない。誰にも乱暴をしない」


「でも」


「その数分で、私たちは本来あるべきものを、本来あるべきところへ近づけます」


神代は、机の上の紙へ視線を落とした。


「神宝は、隠し持つものではありません。本来の座へ戻し、天と地が応じるところを見届けるものです。あとで取り上げられても、一度開いた道は、なかったことにはできない」


伴野の指先が冷えた。


「それは、盗むことでは」


神代はまっすぐに伴野を見た。


「盗まれていたものを、戻すのです」


その言い方を、伴野は信じたかった。


信じたくない自分もいた。


それでも、伴野は臨時搬入補助の欄へ自分の名前を書いた。


ペン先が紙に触れる時、少しだけ震えた。線は曲がった。曲がった線を見て、伴野は書き直さなかった。書き直せば、迷ったことまで消えてしまう気がした。


集会室の隅で、誰かが救援物資の箱にラベルを貼っている。水、レトルト粥、タオル、携帯トイレ。どれも必要なものだった。必要なものの中に、別の目的が混じる。善意と計画は、紙の上では分けられる。現場では、濡れた箱の底のように一つにふやける。


「先生」


伴野は小さく聞いた。


「柱って、人のことではないですよね」


神代の目が、一瞬だけ止まった。


ほんの一瞬だった。


ライトの白い光が、彼の瞳に小さく映る。神代はその光を瞬きで消し、いつもの顔へ戻した。


「人は、柱にならない」


伴野は息を吐いた。


その安堵が終わる前に、神代は続けた。


「ただ、人が柱の意味を引き受けることはある」


言葉が、また少しずれた。


伴野はそのずれを捕まえられなかった。


外で雨が強くなった。


濡れた段ボール箱の匂いが、集会室の入口から流れ込んできた。


* * *


午前八時二十六分。


遥は、父のノートを見つけた夜の最終便で青森へ戻っていた。


父資料の撮影データと追加解析が必要な箇所のメモは、羽田へ向かう前に青森側へ送ってある。朝までの時間は、電話と資料照合と、移送案の再調整で潰れた。


東京の母の家を出た時、手首の赤い筋はガーゼの下でまだ薄く熱を持っていた。今日午前の移送案は、もともと昼前の枠で仮組みされていた。夜のうちに、救援搬入の予定、道路規制、報道陣の待機、神代の追加配信が重なり、そこから後ろへずらすほど読まれる情報が増えることが分かった。


豪雨を避けて翌日に送れば、神代の「柱へ据える」という言葉が一晩分だけ固定される。午後へ回せば、救援搬入と報道の動線がさらに膨らむ。結局、昼前の移送枠は残し、状態確認と再封緘の手順だけをできる限り前へ詰めた。


青森県埋蔵文化財調査センターの会議室には、紙と機械の匂いが混じっていた。


窓の外は灰色だった。雨はまだ細いが、空は低く、建物の向こうの木々が霧に沈んでいる。蛍光灯の光が長机の上に落ち、資料の白だけをやけに明るくしていた。机の中央には、円盤の出土時写真、移送前の状態調書案、温湿度ログ、衝撃センサーの仕様、警察への連絡記録、県教委管理品としての引渡書式が並んでいる。


遥は右手首に白いガーゼを巻いていた。


傷ではない。痛みもない。だが、むき出しのまま人に見られるのが嫌だった。自分の身体が資料の一つとして机に置かれるような感覚が、まだ消えない。


「手首は」


佐伯が聞いた。


「経過観察中です」


遥は答えた。


「接触性の炎症、血管反応、圧迫痕、照明の誤認。可能性を消す順番はあります」


「水野さん」


真壁が画面越しに言った。


「自分にまで、それを言わなくても」


「自分に言わないと、他人に言えません」


真壁は黙った。


オンライン画面の中で、彼の顔色は昨日より悪い。背景には、解析画面がいくつも開かれている。雨雲、道路カメラ、施設周辺の時刻同期、SNSで拡散された切り抜きの保存時刻。画面の端に置かれた水のペットボトルは、半分も減っていなかった。


玖村は、神代の配信資料を紙に印刷していた。


彼の赤ペンは、いつものように多くを語らない。丸をつける場所より、斜線で消した場所の方が多い。フゴッペ洞窟の図像は斜線。手宮洞窟の直接証拠扱いも斜線。八咫鏡めいた比較図も斜線。残されているのは、円盤刻線の右下の一画と、雨筋の六点、それから「柱へ据える」という神代の言い換えだけだった。


「神代さんは、かなり近いところまで来ています」


玖村が言った。


遥は顔を上げた。


「褒めているんですか」


「怖がっています」


玖村は紙を一枚、机の中央へ滑らせた。


神代の配信画面から切り抜いた円盤画像。その下に、玖村が手書きで二つの言葉を書いている。


開く。


閉じる。


「彼は、天浮船を迎えると言っていた。でも昨夜から、柱へ据える、本来の場所へ戻す、という言葉に寄っています。迎える話から、閉じていたものを開く話へ変わっている。円盤が六点と関係することには、たぶん気づいている」


「だから危険なんです」


遥は言った。


「意味を先に固定される」


「はい。ただ、彼の危険は、全部間違っていることではありません」


玖村は、赤ペンの先で右下の一画を示した。


「形は読めている。でも機能を逆に読んでいる。開くものとして読めば、道になる。閉じるものとして読めば」


彼はそこで止めた。


誰もすぐに続きを言わなかった。


閉じる。


六つの点を、一つの面として留めるもの。


鍵というより、留め具。


その言葉は、ノートの《留》と、父の《人を柱と読むな》の横に置くには、まだ早い。早いのに、置かずにはいられない。


遥は出土時写真を見た。黒緑色の面。わずかな傾き。上下面の記録。土の湿り。


現場で残した数字が、今になって別の意味を持ち始めている。


それが嫌だった。


「円盤は、今日動きます」


成田が言った。


行政職員の声だった。疲れを中へしまい、判断だけを前に出している。


成田は昨日まで、豪雨が引くまで待つべきだと言っていた。いまも、その考えを捨てたわけではないのだろう。チェックリストを持つ指が、紙の端を強く押していた。


「発見後、円盤は県教委管理品として県側の一時保管に入りました。異常確認と現地封緘のため、九月二十二日の夜に三内丸山遺跡センター内一時保管室へ戻しています。今日はそこで状態確認を行い、県埋文の保管庫を経由して、大学共同利用分析施設へ運びます」


「警察は」


佐伯が聞く。


「現品確認済みの県教委管理品として、盗難・妨害・道路規制側の連絡窓口に入ってもらいます。随伴は出発時に表側で合流予定です」


成田は一度だけ息を吸った。


「午前十時四十分に状態確認。十一時十五分までに再封緘。封印テープ、引渡書類、ロガー、衝撃センサー。破られた時に、何が破られたかを残します」


成田の声は、そこでわずかに低くなった。会議室の窓を叩く雨音が、一拍だけ大きく聞こえる。遥は紙の余白に並んだ確認欄を見て、番号ではなく、破られる順番を読まされている気がした。


「公開は」


佐伯が聞く。


「臨時閉館継続と、悪天候による関係車両出入りの告知だけです。移送先、時刻、ルートは出しません」


「市社協側は、遺跡センターの駐車場と搬入口Aを救援物資の一時中継・照合に使うと出しています。西側の高齢者施設へ回す水と衛生用品です。これは災害対応の案内なので、こちらでは伏せられません」


代替案は、朝の段階で一度ずつ潰れていた。別搬入口は冠水で大型車が回せない。夜へ送れば道路規制と報道滞留が増え、照明も警備員も足りなくなる。救援搬入を止める権限は文化財側にはなく、警察の屋内立会いも、表側の道路規制と報道柵を同時に抱えていて常時は出せない。囮車両を出す案は、救援車両をさらに混乱させるとして成田が退けた。


「出していなくても、読まれています」


佐伯の声には、抑えた怒りがあった。


「救援搬入の受付時間、報道陣の待機位置、道路規制、施設名。全部、別々には普通の情報です。でも重ねれば、動く時間帯が見える」


「だからこそ、今朝しかありません」


遥は言った。


その言葉が出た瞬間、佐伯が彼女を見た。


「水野さん」


「一時保管室で待てば、神代の解釈だけが外で増えます。ここへ置き続けるのは、ただ止めることではありません。救援搬入と報道と天杭講の視線が集まる施設の中に、読めないまま置き続けることです。保管室にある限り、神代側にとって目標は施設そのものになる。待てば待つほど、救援本便と冠水対応で管理門の開閉回数が増え、警備も職員も人流へ割かれます」


遥は、円盤の出土時写真を指で押さえた。


「県埋文の保管庫と大学共同利用分析施設なら、入退室管理と装置と遮光条件を一本化できます。父のノートは断片です。閉じる仮説も断片です。円盤本体の追加解析をしない限り、こちらは断片のままです。今日の昼前の枠を逃せば、救援本便と雨のピークに食い込みます。移送を止めても安全になるわけではありません。公開断片だけが残って、こちらの確認は止まる」


「移送には人員がいります」


「分かっています」


「豪雨が来ます」


「分かっています」


「救援搬入の動線と重なります」


「分かっています」


佐伯は、そこではじめて声を少し荒げた。


「分かっていても、重なるんです」


会議室が静まった。


雨の音が、窓の外で少し強くなっている。


「守ることと止めることは違う。だけど、今朝は文化財車両と救援搬入と報道対応と道路規制が同じ狭い場所に集まる。そこで何か起きた時、人を先に動かす判断を僕はします」


「それは当然です」


遥は言った。


「当然なら、その当然が隙になります」


佐伯の言葉は、遥の胸に残った。


当然が隙になる。


正しい判断が、悪化の入口になる。


最初に円盤を取り上げた時も、手続きは正しかった。湿潤状態を保つことも、発見届も、警察での現品確認も、県教委管理の一時保管も、どれも正しい。正しいことが、何かを外した。


遥は、右手首のガーゼの下で、赤い筋がゆっくり熱を持つのを感じた。


痛みではない。


記録欄が、皮膚の下で待っているような感覚。


「それでも」


遥は言った。


「動かします」


佐伯の顔から、怒りが消えた。


消えたあとに、疲れが残った。


「分かりました」


彼は言った。


「なら、隙を前提に組みます。救援搬入列とは時間をずらす。搬入口を分ける。文化財車両は屋根付き搬入口に入れたら、外箱固定を二名で確認する。封印テープ、署名欄、衝撃センサーは移送前後で写真。警察への直通連絡を、搬入側にも立てる」


「外箱が濡れた時の一時退避は」


「覆い屋側の安全域に、緊急保護槽と受け材を置きます。戻すためではありません。外箱が破れた時の退避です」


「私も立ち会います」


遥が言うと、成田が首を振った。


「水野さんは状態確認と記録側。外の導線調整には出ないでください。専門職が一人しかできない仕事を優先してもらいます」


それも正しい。


正しいことが、また彼女を一箇所へ縛る。


真壁が画面越しに言った。


「雨のピーク予測を五分刻みで出します。ただし、現地の六点付近は予測から外れる可能性があります」


「予測から外れる可能性」


遥は繰り返した。


真壁は苦い顔をした。


「嫌な言い方なのは分かっています。でも、通常の雨量ピークと、例の空白の発生がずれる。そこを同じものとして扱うと危ない」


「分かりました」


玖村が静かに言った。


「言葉の方も見ます。迎える、据える、戻す、柱。どの語を選ぶかで、彼が何を捨てたかが見える」


「捨てた?」


佐伯が聞いた。


玖村は、印刷された神代の資料を見た。


「円盤の刻線と竹内文書の文字表は、完全には合わない。彼は気づいている。だから、ズレを言葉で隠す」


玖村の赤ペンが、印刷された円盤画像の右下を軽く叩いた。


「神代さんの中では逆なんです。合わないから退くのではなく、合わない部分を、文書が歪んだ痕にしている。竹内文書が円盤を証明するのではなく、円盤の方が、竹内文書に隠れていた神宝の現物だと」


遥は神代の顔を思い出した。


穏やかで、柔らかく、声だけで人の孤独を拾う男。


神代は、完全な嘘つきではない。


だから危険だった。


* * *


午前十時五十八分。


三内丸山遺跡センターの一時保管室は、いつもより狭く感じられた。


室内の温度は低い。空調は正常。湿度も管理範囲内。低い機械音が壁の奥から続き、白い床には、昨日まで何度も拭き取ったはずの土の匂いがまだ残っていた。棚には封緘された保管箱が並び、ラベルの黒い文字が冷たい照明の下で均一に見える。


均一に見えるものほど、いまは疑わしい。


円盤の入った保管箱は、中央の作業台に置かれていた。


外箱番号。内箱番号。仮資料番号。ロガー番号。封印ラベル番号。発見時写真番号。警察受付番号。県教委管理品移送管理番号。


番号が、対象を囲んでいる。


読み上げるたび、円盤そのものは遠ざかるはずだった。物体を名前と番号の網の中に固定し、人の思い込みから離すための作業だった。それなのに、番号の輪が増えるほど、中央の黒緑色だけが息をしているように見えた。


封印テープ、固定ベルト、箱番号。


現代の留め具が増えるほど、遥は逆に、円盤の形を考えていた。あれも何かを閉じるために置かれた留め具だったのではないか。六つの点を、名前と番号ではなく、面と傾きで縛るためのもの。


今回の箱は二重だった。


内箱と、白い外箱。盗まれて困るのは円盤だ。だが今は、どの箱のどの封印が破られたかまで残さなければならない。


遥は、その囲いを一つずつ読み上げた。


葛西が復唱し、成田がチェックし、佐伯が横で写真を撮る。警備員が入口に立ち、もう一人が廊下側を見ている。外では雨が強くなっていた。保管室の壁を伝って、屋根を叩く音が低く響く。


「封印テープ、切断なし」


「切断なし」


「外箱表面、結露なし」


「結露なし」


「内箱開封、記録開始」


遥は手袋を替えた。


ニトリルの青い指先が、冷たい空気で少し固くなる。手首のガーゼが袖の内側で擦れた。彼女は反射的に袖を下ろしかけて、止めた。


父と同じ動作をしたくなかった。


内箱の蓋を開ける。


湿った冷気が、薄く上がった。


円盤は、黒緑色のまま、緩衝材の中に横たわっていた。表面は濡れていないのに、乾いてもいない。水を弾くのではなく、水という状態を必要としていないように見える。刻線は斜光の中で浅く浮き、右下の一画だけが、角度を変えても決まらない。


遥は息を吐いた。


「状態、変化あり」


葛西のペンが止まる。


「どこですか」


「右下刻線周辺。前回斜光写真F2-014との比較で、線の端部が約一・五ミリ内側へ短く見える」


「見える、ですね」


「見える、です。実測はまだ」


声は平坦に保てた。


円盤の表面に、照明が細く反射している。そこへ、一瞬だけ別の色が混じった。


青。


誰も動かなかった。


青は、見えたと言うには短すぎた。だが、見えなかったことにするには鮮やかすぎた。保管室の白い壁も、手袋も、端末の黒い画面も、その青の出所にはならない。


遥は瞬きをした。


次には消えていた。


「水野さん?」


佐伯が言った。


「今、表面反射に青が出ました。照明、服、端末画面、外光の反射を確認してください」


葛西がすぐに周囲を見た。


「外光なし。作業者の服に青なし。端末画面はオフ。照明は白」


「記録します」


遥は言った。


記録する。


怖い時ほど、その言葉は短くなる。


「内箱へ移します」


成田が時計を見た。


「十一時十三分。再封緘予定まで二分」


外から、無線の声が入った。


《搬入口、救援車両二台到着。受付予定より早いです。道路側、報道車両も一台増えています》


佐伯の顔が強張った。


「救援搬入は十一時半のはずです」


《冠水で迂回した車両が、先に入っています。受付確認中》


佐伯は成田を見た。


成田の表情は変わらない。だが、手に持ったチェックリストの端が少し折れた。


「文化財車両は予定通り」


「搬入口を分けます」


佐伯が無線を取る。


「文化財移送車両は屋根付き搬入口B。救援搬入はAで止めてください。歩行者導線を分ける。報道は柵の外へ。警備員、B側を増員」


《了解。ですが、A側に高齢者施設向け物資の確認でボランティアが入っています。名簿確認が必要とのこと》


遥は、円盤から目を離せなかった。


名簿。


その言葉だけで、父のノートの《名》が、濡れた紙の上に浮かぶ。


「伴野さんですか」


葛西が小さく言った。


佐伯が無線へ聞く。


「そのボランティアの氏名は」


少し間があった。


《伴野修。市社協経由の登録ボランティアです。避難者個人名ではなく、搬入先と必要物資、施設担当者確認欄だけの照合名簿を持っています》


保管室の空気が、また一段冷えた。


「彼を中へ入れないでください」


遥は言った。


佐伯が頷く。


「A側受付で止める。文化財車両と接触させない」


無線の向こうで、別の声が重なった。雨音。車両のバック音。誰かが大きな声で受付表を求めている。高齢者施設の名、搬入先の確認、道路が冠水する前に出たいという訴え。


「外箱固定を優先します」


成田が言った。


「水野さん、内箱移し替えを」


遥は頷いた。


ここで外へ出ることはできない。


自分ができる仕事をする。


その正しさが、また胸を締めつけた。


* * *


屋根付き搬入口の空気は、雨と排気ガスと濡れた衣類の匂いで濁っていた。


午前十一時十九分。


佐伯は、搬入口Bの黄色い線の内側に立っていた。雨具のフードから水が落ちる。耳元で無線が鳴り続け、別の声が携帯端末から入り、目の前では文化財移送車両のバックランプが赤く点滅している。


B側は文化財車両。


A側は救援搬入。


見学用のゲートはすでに閉じている。だが、搬入口と管理門は、車両を止めるためではなく、必要な車両だけを通すために開いていた。閉館中の施設は空ではない。むしろ、誰が中にいてよいのかを、その場で何度も決め直す場所になっていた。


B側の奥には低いシャッターがあり、その向こうは資材置き場へ続く短い通路だった。通常は閉めておく場所だが、冠水でA側の転回が詰まり、朝から一時的な車両逃がしとして開けていた。さらに奥には、使われなくなった旧倉庫と北側の管理用園路がある。ブルーシートを被せた資材と工事用フェンスが見え、雨の白さで奥はぼやけている。


線は引いた。柵も置いた。警備員も立てた。名簿確認の机も分けた。臨時車両証と業者名札はA側受付で照合することにしていた。警察官は表の道路規制と報道柵に回り、正式随伴は移送車両が表へ出る時に合流する。B側奥の導線責任者は佐伯だった。そこまでは、警備員の目と佐伯の無線で持たせるしかなかった。


灰色の作業服の男が、朝から二度、同じ業者名の車両証を見せてB側奥の資材を動かしていた。業者名は資材退避の受付控えにあり、車両証の番号も合っていた。ただ、誰がその車両証を首から下げているかまでは、A側の混乱の中で追いきれていなかった。違和感はなかった。違和感がないように作られているものほど、混乱の中では見えなくなる。


それでも、人の声は線を越える。


「すみません、確認だけです」


伴野は、A側の受付机の横にいた。


青いビブスの肩は雨で濃くなり、髪は額に張りついている。手にはクリアファイルがあり、その中に濡れを防ぐための透明袋へ入れた名簿と臨時車両証の控えが見えた。腰には、市社協から貸し出された小型無線が下がっている。表情には、焦りはあるが敵意はない。


右の袖口が濡れて皮膚に張りつき、手首の内側に細い赤さが見えた。雨具で擦れた痕か、赤ペンのインクが移ったのか、佐伯には判別できなかった。伴野はすぐに袖を引き、名簿を胸へ抱え直した。


敵意がないことが、佐伯にはいちばん厄介だった。


「伴野さん、こちらは文化財車両の導線です。A側で待機してください」


「高齢者施設向けの搬入が一件、名簿に載っていません。道路があと二十分で通れなくなるかもしれないんです。確認だけさせてください」


「市の公式受付へ回してください」


「回したんです。でも返事が遅い。前にも」


伴野はそこで止まった。


止まったが、何を言いたかったかは分かった。


前にも、間に合わなかった。


佐伯は、ほんの一瞬、言葉を選んだ。


その前に、伴野がA側の誘導員へ名簿を差し出した。


「この便だけ先に確認してください。西側施設です。前に、名簿待ちで遅れたんです」


受付机の反対側から、段ボール箱を数えていた中年の男が手を伸ばした。


「袋、替えます。濡れると読めなくなる」


伴野は礼を言い、透明袋ごと名簿を差し出しかけた。誘導員が後退中の軽トラックへ手を上げた一拍だけ、臨時車両証の控えと業者名が、雨粒のついた机の上で開いた。男は番号を読み上げなかった。ただ、濡れた袋の端を押さえ、乾いた袋へ入れ替え、何も見ていないような顔で名簿を戻した。


誘導員の視線が、名簿と佐伯の間で揺れた。後退中の軽トラックへ出していた手の合図が、そこで一拍だけ止まる。


「先に照合します。すぐです」


伴野は、誰かを押しのけたつもりはなかった。確認待ちを一つ飛ばせば、西側施設へ間に合うと思っただけだった。


その一瞬の間に、A側で別の車両が後退を始めた。


「危ない、下がって!」


警備員が声を上げる。


救援物資の箱を積んだ軽トラックが、誘導員の合図を見失って斜めに下がった。雨でミラーが濡れ、後方の黄色いポールが見えていない。タイヤが排水溝の蓋を踏み、金属音が響く。近くにいた報道カメラマンが後ずさりし、柵にぶつかった。


B側の文化財移送車両も、同じ屋根の下で一時停止した。


「止めろ!」


佐伯は叫んだ。


軽トラックが止まる。


バック音が途切れた瞬間、雨音だけが大きくなった。


「けが人は」


「なし」


「A側を一度空けてください。文化財車両、B側奥へ退避」


文化財より、人を先に動かす判断だった。


それは、誰にも否定できない正しさだった。


文化財移送車両の運転手が、佐伯の指示を確認する。B側の奥、屋根の下のやや広いスペースへ一時退避。そこならA側の混乱から離れられる。外箱を載せる作業は、退避後に再確認する。


佐伯は無線に言った。


「保管室、文化財車両はB奥へ一時退避。外箱搬出を三分遅らせます。A側の安全確認を優先」


《了解。内箱は外箱へ固定済み。外箱搬出準備中》


遥の声ではない。葛西の声だった。


佐伯は返事をした。


「封印テープと固定ベルト、搬出前に再撮影してください」


《了解》


伴野が、まだ受付机の横に立っている。


「伴野さん、今は下がって」


「一名だけなんです」


彼は名簿を開いた。


透明袋の内側で、紙が白く光る。印刷された一覧の下に、手書きの追記欄があった。雨のせいか、インクが少し滲んでいる。


「この欄、名前が抜けている。避難所には届いていない。受付にもない。でも、昨日の電話では一人残っているって」


佐伯は名簿を見た。


未確認欄。


そこには、確かに一行、空白があった。


名前だけがない。


公式の照合名簿に、避難者の個人名は載らない。載るのは施設名、搬入先、必要物資、確認担当者だけだ。


だが、伴野が手で追記した未確認欄には、さっきまで誰かの呼び名を書こうとした跡があった。住所の一部。必要物資。施設担当者の聞き書き。氏名の欄だけが空白だった。空白の周囲に、ペン先が何度も迷ったような薄い線がついている。


「これ、誰が書いたんですか」


「僕です」


伴野は言った。


「名前、さっきまで書いてあった気がするんです」


佐伯は、心臓が一拍遅れるのを感じた。


ここで問い詰めるべきか。


伴野を警備員へ引き渡すべきか。


名簿を回収すべきか。


文化財車両を先に出すべきか。


軽トラックの安全確認を続けるべきか。


雨が強くなる前に、救援車両を出すべきか。


すべてが、同じ数分に詰まっていた。


《佐伯さん》


無線から成田の声が入った。


《外箱、搬出します。B側奥で固定確認を》


佐伯は伴野から目を離さなかった。


「伴野さん、その名簿をこちらで預かります。あなたはA側受付へ」


「だめです」


伴野は、初めて強く言った。


「また確認で止まる」


「止めるべき時は止めます」


「止めている間に」


彼は息を詰めた。


「止めている間に、人が抜ける」


その言葉は、神代の声ではなかった。


伴野自身の声だった。


だからこそ、佐伯は一歩遅れた。


外箱を載せた台車が、保管室側のドアから出てきた。


円盤を入れた内箱は、白い外箱に収められ、その外側を固定ベルトが二本締めている。封印テープは四箇所。ラベルは透明カバーの下。温湿度ロガーの表示は緑。衝撃センサーも緑。


葛西が横に付き、成田が書類を持っている。


遥はいない。保管室内で状態記録をまとめているはずだった。


その数歩の距離を、佐伯は目で測った。


近い。


近いはずだった。


「B奥へ」


佐伯が指示した。


台車が動く。


同時に、A側で誰かが叫んだ。


「水が上がってる!」


道路側の排水溝から、泥水が噴き上がった。


雨水があふれた、というより、地面の下から湿った土が押し出されたようだった。黒い水が細く盛り上がり、舗装の割れ目へ沿って広がる。救援車両のタイヤがその上で滑り、運転手がブレーキを踏む。救援物資の段ボールを抱えていた男性が足を取られ、膝をついた。濡れた段ボールが腕からずれ落ち、泥水を跳ね上げた。車体の後ろが横へ流れ、後輪が男性の足先のすぐ横で止まった。


佐伯は反射で走った。


「人を先に!」


叫んだ。


文化財車両ではなく、人を先に。


その声を、誰も間違いだとは言えない。


葛西が台車を止める。成田が書類を胸に抱え、台車の前へ立つ。警備員の一人がA側へ走る。もう一人が、B側の奥へ目を向ける。


その瞬間、B側奥にいた作業服の男が、固定ベルトへ手を伸ばした。


男は救援搬入業者の名札をつけていた。青いビブスではない。濡れた帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。搬入口に出入りする人間として、違和感のない格好だった。A側で確認した臨時車両証と同じ業者名が、胸元の透明ケースに入っている。


カチリ、と小さな音がした。


ベルトのバックルではない。


切断具の音だった。


葛西が気づいた。


「そこ、触らないで!」


声が雨音に飲まれる。


男は振り向かない。


一本目の固定ベルトが緩む。


成田が走った。


男の隣に、もう一人いた。こちらは空の白い保冷箱を台車に載せている。救援物資用に見える。青いテープ。濡れた段ボールの間にあれば、何も特別には見えない。


「止めて!」


葛西が叫ぶ。


佐伯が振り返った。


泥水の中で膝をついた男性を支えながら。


遠い。


ほんの数メートルなのに、遠かった。


伴野が、その間に立っていた。


彼は何をしているのか分からない顔をしていた。名簿を握りしめ、B側とA側の間に立ち、目だけが大きく開いている。


「伴野さん!」


佐伯が叫んだ。


伴野は佐伯を見た。


泣きそうな顔だった。


「今度は」


彼は言った。


「間に合わせないと」


その声の向こうで、二本目の固定ベルトが切れた。


衝撃センサーの小さなランプが、緑から赤へ変わった。


封印テープの一つが、斜めに剥がれる。


外箱の蓋が浮く。


成田が男の腕を掴んだ。


「何をしているんですか!」


男は身をひねった。暴力ではない。押し倒すのでも、殴るのでもない。ただ、雨で濡れた身体が滑り、成田の手を外した。もう一人が内箱を抱え、用意していた白い保冷箱へ移す。


内箱は小さくない。


重いはずだった。


だが、その瞬間だけ、軽そうに見えた。


円盤が、運ばれていく。


黒緑色の面は見えない。内箱の白い壁に隠れている。それでも、そこにあると分かった。空気が冷え、雨音が一段遠くなり、搬入口の床の水が六つの場所を避けて薄く引いた。


佐伯は走った。


足元で、舗装が音を立てた。


乾いた割れではない。


湿った土が内側から押し開ける音。


アスファルトの細い亀裂から、白い根のようなものが出ていた。一本、二本。目地を探すように、雨水の中で伸びる。人工の床が、土へ戻ろうとしている。


「止まれ!」


警備員が叫ぶ。


報道陣のカメラが一斉に向く。


誰かが動画を撮っている。


文化財盗難の瞬間。


救援搬入の混乱。


豪雨。


人が転んだ。


泥水が噴いた。


白い保冷箱が二つ。


映像は、また外へ残る。


佐伯は男の肩へ手を伸ばした。


届かなかった。


男たちは、B側奥のシャッター脇へ停めてあった小型搬送車へ箱を積み替えた。冠水でA側から逃がした車両の一台として、朝の混乱の中でそこへ回されたものだった。荷台には水の箱と毛布が積まれ、その奥に白い保冷箱が滑り込む。


伴野は動かなかった。


名簿を胸に抱えたまま、雨の中で立っていた。


佐伯は彼の横を通り過ぎようとして、腕を掴んだ。


「どこへ運ぶ」


伴野の目は、佐伯を見ていなかった。


「柱へ」


「どこの」


「置き去りにしないところへ」


意味になっていない。


だが、意味にならない言葉ほど、人を動かすことがある。


小型搬送車が動き出した。


警備員が前へ出る。


その時、搬入口の照明が一瞬だけ落ちた。


完全な停電ではない。白い光が、青白くなり、次に戻る。その一瞬、全員の携帯端末が同時に鳴った。通知音、警報音、着信音。ばらばらの音が一度に重なり、搬入口の空気を切り裂いた。


小型搬送車が、雨の中へ出た。


そのタイヤが水を跳ねる。道路側へ出るのではなく、施設裏の資材置き場へ向かう短い通路へ曲がった。そこは道路規制の外ではない。警察が見る大きな出口でもない。仮置きの柵、古い資材、ブルーシート、工事用フェンスが並ぶ、見通しの悪い場所。


佐伯は走ろうとした。


「発生時刻、十一時三十一分」


成田が、背後で警察への通話口にそう言いかけた。


「違います」


葛西が、自分の端末を見たまま言った。声が震えていた。


「こっちは十一時二十六分です」


警備員が無線機を握り直した。


《こちらの受信ログ、十一時十九分になっています》


文化財移送車両の運転手が、青ざめた顔で計器盤を見た。


「車載時計、十一時十一分で止まっています」


伴野の端末だけが、画面に何も表示していなかった。


白い空白。


成田の口が、発生時刻を告げる形のまま止まった。


佐伯はそれを背中で聞いた。踏み出した一歩目で、足が舗装の割れ目に取られた。


下を見ると、亀裂の中から、湿った土が盛り上がっていた。黒い土の中に、細い白い根が絡んでいる。根は雨に濡れているのに、妙に乾いた光を持っていた。


「佐伯さん!」


葛西が叫ぶ。


佐伯は体勢を立て直した。


だが、車両はもう資材置き場の影へ入っていた。


雨の幕の向こうで、白い保冷箱が一瞬だけ見えた。


それから、見えなくなった。


* * *


遥が搬入口へ着いた時、円盤はもうなかった。


記録上は、午前十一時三十七分。


ただし、その時刻が正しいかどうか、誰にも分からなかった。


保管室の壁時計は十一時二十八分を示している。遥の端末は十一時四十一分。葛西の端末は十一時二十二分から進んでいない。成田の腕時計は正常に見えたが、正常という言葉はこの数分で意味を失っていた。


搬入口は、雨と声と警報で壊れた場所のようだった。


救援物資の箱がいくつか濡れた床に積まれ、ひとつは底が抜けてタオルが水を吸っている。警備員が報道陣を柵の外へ戻し、成田が表側にいる警察官へ盗難発生を伝えながら、同時に県教委管理品の発生時刻を確認しようとしている。葛西は泣きそうな顔でカメラを握り、撮るべきものが多すぎて手が止まりかけていた。


佐伯の雨具は泥で汚れていた。


「すみません」


彼は遥を見るなり言った。


遥は、その謝罪を受け取れなかった。


受け取る資格が、自分にあるのか分からなかった。


即時の追加解析を押したのは自分だ。


救援搬入と豪雨と人員不足の重なりを、分かった上で動かした。


佐伯は人を先に動かした。


それを責めることはできない。


できないのに、円盤はない。


「状況を」


遥は言った。


声を平坦にした。


平坦にしなければ、倒れる。


「外箱がB側奥で固定確認前に接触を受けました。固定ベルト二本切断。封印テープ一箇所剥離。衝撃センサー赤。内箱ごと、別の白い保冷箱へ移し替えられました。車両は施設裏資材置き場方向へ。表側の警察へ連絡済み。道路規制側と裏手の両方を確認中」


佐伯は一息で言った。


自分を責める時間を、手順で押し込めている。


「伴野さんは」


遥が聞く。


佐伯は、搬入口の端を見た。


伴野は、そこにいた。


青いビブスのまま、救援搬入名簿を握って立っている。警備員が両側にいるが、腕は取っていない。伴野自身も逃げようとしていない。むしろ、どこへ行けばいいのか分からない人のように、雨を見ている。


「現認した範囲では、伴野さんは内箱に触れていません」


佐伯が、報告する声で言った。


「固定ベルトを切った男たちは資材置き場の方へ消えました。伴野さんが持っているのは、市社協経由の登録ボランティアとして通された救援搬入名簿だけです。動線を乱したことは明らかですが、文化財盗難の現行犯として押さえる形は、まだ作れていません」


成田が通話口へ、同じ内容を短く繰り返した。


「表側の警察官到着まで任意で待機要請。施設警備員二名で安全確保。本人は低体温または錯乱の可能性あり。強制的な取り押さえは救援受付を止めるため、現時点では行わない。名簿は写真固定、原本は警察到着後に確認」


袖口から出た右手首の内側に、雨で薄められたような赤い線があった。


切り傷には見えなかった。


遥のガーゼの下で、自分の手首が遅れて熱を持った。


「伴野さん」


遥は近づいた。


足元の水が、彼女の靴底から六つの方向へ薄く逃げたように見えた。


見えただけかもしれない。


記録する前に、言葉にしてはいけない。


「円盤をどこへ運ばせましたか」


伴野はゆっくり遥を見た。


目が赤い。泣いたのではない。寝ていない目だった。


「僕は」


「どこへ」


「雨を」


「どこへ運んだかを聞いています」


伴野の唇が震えた。


「神代先生が」


そこで言葉が止まる。


「神代さんはどこにいますか。車両は何台ですか。協力者は何人」


佐伯が続けた。警備員が横で無線を握り、表側では警察官の声が近づいている。


伴野は一つずつ聞かれていることを理解しようとした。だが質問は、濡れた紙の上でばらばらになるように、彼の顔から落ちていった。


「白い箱。青いテープ。裏の、古い」


「古い何ですか」


「倉庫。先生は、そこへ」


そこまで言って、伴野は名簿を見下ろした。


止まったまま、彼は名簿を見下ろした。


「戻さないと」


「何を」


「抜けた人を」


遥は名簿へ目を落とした。


透明袋の中の紙は、雨に守られているはずだった。だが、内側から滲んでいる。印刷された行はまだ読める。搬入先、物資数、受付欄。手書きの追記欄だけが、湿ったようにぼやけていた。


一行、氏名欄が空白。


その空白の縁に、薄い線がある。


人の名前を書こうとして、書けなかった筆跡。


「これは誰の名前ですか」


遥は聞いた。


伴野は口を開いた。


何も出なかった。


喉が動く。声帯が震える。なのに、音にならない。


伴野は自分の喉に手を当てた。


「さっきまで」


声がかすれた。


「出ていたんです」


佐伯が近づいた。


「伴野さん、あなた自身の所属と連絡先を言ってください」


「天杭講、支援班。伴野修。電話番号は」


彼は自分の端末を見た。


白い画面。


何も表示されていない。


「伴野さん」


佐伯の声が低くなる。


「電話番号を、端末を見ずに」


伴野の口が、数字の形を作った。


「〇九〇」


そこから先が出ない。


彼は笑おうとした。


失敗した。


「寝てないから」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


「混乱してるだけです」


遥は頷かなかった。


否定もしなかった。


何が始まったのか、まだ誰にも分からない。


だが、入口に立っていることだけは分かった。


「名簿を預かります」


「だめです」


伴野は、名簿を胸に抱え込んだ。


「これは、僕が確認しないと」


「警察立会いで保全します」


「また待つんですか」


その声は、子どものようだった。


「また、名簿を待つんですか」


遥は一瞬、父のノートを思い出した。


人を柱と読むな。


人を、記録の空欄に押し込めるな。


だが、記録しなければ、人を指せない。


「待つのではありません」


遥は言った。


「残すんです」


伴野はその意味を分かっていない顔をした。


分かるはずがなかった。


遥自身も、まだ分かっていない。


その時、搬入口の奥から葛西の声がした。


「水野さん」


声が小さい。


怖いものを見つけた人の声だった。


遥は振り返った。


外箱が、床の上に残されていた。


外箱だけだった。内箱は抜かれている。固定ベルトは切れ、封印テープは斜めに裂け、大学側の受領欄は未署名のまま、雨で端が少し丸まっている。衝撃センサーは赤。温湿度ロガーは、取り外されたように床へ転がっていた。


外箱の内側に、水が溜まっていた。


雨が入ったのではない。箱は屋根の下にあった。蓋も、完全ではないが閉じていた。外側は濡れているが、内側の水は別の湿り方をしていた。


六つの濡れ跡。


箱の底に、円形ではなく、浅い暗い跡が六つ並んでいる。最初に一時保管室の床へ出た濡れ跡と、似ている。だが、同じではない。ひとつだけ、形が違った。


名札の輪郭に似ていた。


角の丸い長方形。


上に小さな穴のようなにじみ。


首から提げるための、透明ケースの形。


その中に、文字はない。


ただ、文字が入るべき場所だけが、薄く湿っている。


遥は息を吸えなかった。


佐伯が箱の内側を見た。


「触らないで」


遥は言った。


佐伯の手が止まる。


「警察立会い前です。写真。斜光。全体。箱番号。切断部。封印テープ。センサー。署名欄。温湿度ロガー位置。濡れ跡」


葛西が頷く。


涙は出ていない。だが、頬の色が白い。


「撮ります」


彼女はカメラを構えた。


シャッター音が鳴る。


一枚。


また一枚。


雨音の中で、シャッター音だけが小さく硬い。


真壁から通話が入った。


遥はスピーカーにした。


「水野さん、時刻ズレの範囲が出ました。施設周辺だけです。基地局全体じゃない。端末ごとにずれ方が違う。道路カメラのタイムスタンプも、一台だけ十一時台を二回繰り返しています」


「円盤は奪取されました」


遥は言った。


一瞬、真壁の呼吸が止まった。


「位置は」


「施設裏資材置き場方向。警察確認中」


「雨量図の空白は、柱穴跡の原位置から少しずれています。六点のうち一つだけ、別の場所へ引かれている」


遥は目を閉じた。


開けても、箱の底の六つの濡れ跡は消えなかった。


「偏っている、だけではなく」


言い直そうとした。


真壁が先に言った。


「分かっています。でも、今は見えている偏りを残してください」


遥は頷いた。


「残します」


伴野が、その言葉に顔を上げた。


「残す」


彼は繰り返した。


その目が、箱の内側の名札の輪郭へ吸い寄せられる。


伴野は自分の胸元を見た。


青いビブス。


その下に、透明な名札ケースがあった。


中の紙には、伴野修、と印刷されている。


まだ。


まだ読める。


彼は名札を手で押さえた。


「僕は、戻します」


「どこへ行く気ですか」


佐伯が一歩前へ出る。


伴野は後ずさった。


「誰も置き去りにしない」


「伴野さん、動かないでください」


「今度は間に合わせる」


警備員が彼の肩へ手を伸ばす。


その手は、捕まえるというより、その場に留めるための手だった。盗難品の外箱、崩れた救援物資、近づく警察車両、雨で滑る床。誰も、伴野だけを中心に動けない。


伴野は暴れなかった。


その時、表側から警察車両のサイレンが短く鳴った。警備員の一人が反射で振り向き、もう一人の手が無線へ伸びる。崩れた救援物資の箱から水を吸ったタオルが床へ落ち、誰かが足を滑らせた。


その一拍だけ、伴野の肩の位置が遠くなった。


伴野は身体をひねり、するりと雨の方へ抜けた。濡れた床で足を滑らせながらも、倒れなかった。救援搬入名簿を抱え、胸の名札を押さえ、施設裏の資材置き場へ向かう通路へ走る。


「止めて!」


成田が叫ぶ。


佐伯が追う。


だが、通路の向こうには、雨が白い壁のように落ちていた。


その雨の奥に、六つの細い空白の並びがかすかに見えた。


柱のように見える。


柱ではない。


そのうち一つだけが、伴野のいる通路の方へ細く引き伸ばされていた。


そう思うより先に、伴野の背中が、その伸びた空白へ近づいた。


名札が、雨の中で一度だけ白く光った。


次の瞬間、資材置き場の青いシートが風でめくれ、視界を塞いだ。


伴野の姿は、雨とシートと濡れた土の匂いの向こうへ消えた。


遥は、空になった保管箱の前に立ち尽くした。


箱の底では、六つの濡れ跡が少しずつ濃くなっている。


ひとつだけ、名札の輪郭に似た跡が、文字のないまま、誰かの名前を待っていた。


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