第29話:その動き、ゴキブリですか? ~移動コストを「√2」にする『斜め移動』と、テクスチャの剥がれた世界~
骸骨商人を「行政指導」という名の強盗で沈めた俺たちは、さらに奥へと進んだ。
地下50階層。
本来なら、新宿ダンジョンの最深部に近いこの場所は、重厚な岩盤や古代遺跡のような装飾で覆われているはずだ。
だが。
「……おい、九条。これは何だ?」
先頭を歩いていた氷室が、眼鏡の位置を直しながら呆然と呟いた。
彼の指差す先にあるのは、岩壁ではない。
紫と黒の市松模様が明滅する、のっぺりとした平面だった。
足元の床もおかしい。
ところどころテクスチャが剥がれ、緑色のワイヤーフレームが剥き出しになっている。
空中に浮遊する岩が、カクカクと不自然な挙動で回転していた。
「……ひどいな。ここまで侵食が進んでいるとは」
俺はスマホの画面を確認した。
バッテリー残量、68%。
画面上のマップも、ノイズが走って正常に表示されていない。
「ここは『データ崩壊領域』だ」
俺は淡々と説明した。
「違法建築された『魔王城』の質量が大きすぎて、ダンジョンのメモリ領域を圧迫しているんだ。
そのせいで、周囲のマップデータの読み込みが追いつかず、物理法則が曖昧なバグ空間になっている」
「バグ空間……?
じゃあ、ここは危険なんですか?」
アキラが不安そうに周囲を見回す。
「ああ。物理判定がガバガバだ。
一歩間違えれば、床をすり抜けて無限落下の彼方へ落ちるぞ」
「ひぃっ!?」
アキラが飛び上がって俺の背中に隠れる。
ローズも洗浄機を抱きしめて震えている。
「安心しろ。攻略法はある」
俺は指示棒を構え、奇妙な動きを始めた。
廊下を直進するのではなく、身体を右斜め45度に向け、カク、カク、と小刻みに進み、壁にぶつかりそうになると今度は左斜め45度へ方向転換した。
ジグザグ、ジグザグ。
まるで獲物を探す昆虫のような動きだ。
「……ちょ、九条さん!? 何ですかその動き!
ゴキブリみたいで気持ち悪いです!」
アキラが悲鳴を上げる。
失礼な。これは高等テクニックだ。
「『斜め移動によるタッキング(風上航行)』だ」
俺は真顔で答え、右へ左へとカクつきながら進み続けた。
「この領域は今、X軸とY軸の座標処理に強烈な負荷がかかっている。
まっすぐ歩こうとすると、処理落ちのラグで身体が鉛のように重くなり、バッテリーも通常の3倍消耗する」
「な、なるほど……? 正面からの風が強すぎる状態、ということですか?」
「そうだ。だが、システムの穴で、『斜め45度』の入力だけは処理フィルタをすり抜ける」
俺はカク、カク、と解説した。
「だから、こうやって右斜め前、左斜め前と交互に進む。
移動距離は無駄に増えるが、抵抗がゼロになる分、トータルの燃費と速度は√2倍(約1.4倍)効率化される」
「……うわぁ。理屈は分かりますけど、絵面が最悪です」
「文句を言うな。止まるとX軸判定に捕まって動けなくなるぞ。常に斜めに動き続けろ」
「マグロか!私たちは!」
ローズが叫ぶが、俺は振り返らずにカクカク進む。
「置いていくぞ。この領域で孤立したら、座標ロストして一生出られないからな」
「くっ……! やるわよ! やればいいんでしょ!」
ローズが観念し、洗浄機を担いだままカニ歩きのようなステップを踏み始めた。
続いてアキラも、ぎこちなく斜め歩きを始める。
最後に氷室が、屈辱に顔を歪めながらも、エリートらしい洗練されたフォームで斜め移動を開始した。
薄暗いバグった空間を、スーツの男、OL、蛍光スウェット女、エリート官僚の4人が、一列になってカクカクとジグザグに進む。
シュールすぎる光景だ。
だが、これも生存(とバッテリー節約)のためだ。
***
数分後。
俺たちは奇妙な行進で距離を稼いでいたが、突如トラブルが発生した。
「……あれ?
なんか足が重い……?」
最後尾を歩いていたアキラが、困惑した声を上げた。
振り返ると、彼女の右足が、通路の壁にズブズブと沈み込んでいた。
「えっ? ええっ!?
壁に吸い込まれる!?」
まるで底なし沼だ。
壁のポリゴンが揺らぎ、アキラの半身を飲み込もうとしている。
彼女の「タッキング」の角度が甘く、壁の衝突判定をすり抜けてしまったのだ。
「馬鹿野郎! 止まるな天王寺!!」
俺は叫んだ。
「そこは『判定抜け』エリアだ!
システムがそこを『壁』と認識するか『通路』と認識するか迷っている!
完全に『壁』として実体化判定が出る前に抜けろ!
圧死するぞ!!」
「いやぁぁぁ!
抜けません! 引っ張られるぅぅ!」
アキラがもがくが、壁の粘性が増していく。
右肩まで埋まり、顔だけが出ている状態だ。
「くっ……! ローズ、手を貸せ!」
「分かってるわよ! ほら、掴まりなさい!」
ローズが洗浄機のホースを投げ渡す。
アキラがそれを掴むと、氷室と俺も加わって、綱引きのように引っ張った。
「せーのっ!!」
ズボォッ!!
凄まじい音と共に、アキラが壁から引っこ抜かれた。
勢い余って全員が床に転がる。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
アキラが涙目で自分の体を確認する。
幸い、五体満足だ。
だが、彼女の来ていたジャケットの右袖だけが、綺麗さっぱり消滅していた。
「あ……私のスーツ……」
「危なかったな。あと1秒遅ければ、右腕ごとテクスチャの裏側に持って行かれていた」
俺は冷や汗を拭った。
これがグリッチ・ワールドの恐怖だ。物理攻撃よりも質が悪い。
「……先を急ごう。
ここに長居すれば、俺たちの存在自体がバグとして処理されかねん」
俺たちは再び隊列を組み、慎重に(そして斜めに)歩き出した。
バッテリー残量、65%。
カクカクと進む視線の先に、ようやく巨大な「城門」のシルエットが見えてきた。
次の瞬間。
俺のポケットの中で、静かにバイブレーションが鳴った。




