第21話:法的嫌がらせでスパイを破産させ、娘と回らない寿司を食う
翌日の夕方。ダンジョン省、特別管理課。
定時のチャイムが鳴ると同時に、九条ミナトは最後のキーを叩いた。
ッターン!
「よし。送信完了」
九条は満足げに伸びをした。
画面には、入国管理局の電子申請システムが表示され、『情報提供を受け付けました(受理番号:2025-XXXX)』という文字が輝いている。
「九条さん、それ……本当に送ったんですか?」
天王寺アキラが、若干引いた様子で尋ねる。
彼女が覗き込んだ申請内容は『在留外国人の活動状況に関する情報提供書』。
対象者は「メアリー・スミス(仮)」。内容は「外交官パスポート所持者が、公務実態なく市街地を徘徊し、一般市民への付きまとい行為(ストーカー規制法抵触疑義)を行っている」という、極めて陰湿な告発文だ。
「当たり前だ。
外交官特権があるから逮捕はされない。だが、入管庁から外務省を経由して、米国大使館へ『この職員、本当に仕事してますか?』という公式照会が一通でも行けば、それで十分だ」
九条はスマホを取り出し、画面の「受理番号」をスクショした。
「スパイにとって一番怖いのは、警察じゃない。
『身元が公的機関に怪しまれること』だ。
これで彼女は、明日にも大使館に照会が来るかもしれないという恐怖で、一睡もできなくなる」
「うわぁ……。九条さん、本当に敵に回したくないタイプですね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
九条はニヤリと笑い、その画像をメッセージアプリでローズ(振込時に取得した連絡先)へ無言で送信した。
既読がつくのは一瞬だった。
「さて、今日は定時退社だ。
ヒナと寿司の約束があるし、新しい靴も買いに行かないとな」
九条はボロボロの靴を履き替え、ウキウキと席を立った。
その背中は、大仕事を終えた戦士のように晴れやかだった。
***
都内某所、一泊4,000円の薄汚れたビジネスホテル。
狭いシングルの部屋で、ファントム・ローズは絶望していた。
「……最悪」
昨夜、彼女は定宿にしていた最高級ホテル『ホテル・グラン東京』を逃げるようにチェックアウトした。
理由は明白。Kからの内容証明郵便が「部屋番号指定」で届いたからだ。
あそこに留まることは、敵に「私はここにいます」と発信し続けるのと同じ自殺行為だった。
(新しいホテルに移るしかなかったけれど……今の私には『カード』が使えない)
彼女は手元のブラックカードを忌々しげに見つめた。
Kと氷室にマークされた今、クレジットカードを使えば、決済承認のログから「宿泊先」を秒単位で特定され、即座に凍結(物理)されるリスクがある。
だからこそ、足がつかない「現金払い」かつ「本人確認がザル」な、この掃き溜めのような安宿に潜伏するしかなかったのだ。
さらに、追い打ちをかけるように、スマホが震えた。
「……嘘でしょ」
画面には、Kから送られてきた「入管庁:受理番号」の画像。
無言の圧力。それは「お前の身元、役所に通報しておいたから」という死の宣告に等しかった。
「あいつ……! 本気で私を社会的に抹殺する気!?」
ローズは安っぽいベッドに倒れ込んだ。
腹が減った。だが、手元にあるのはコンビニのおにぎり一つだけ。
彼女の財布には、数枚の千円札と小銭しか残っていない。
昨日の九条への「10万円」の支払いが、なけなしの「手持ち現金」をごっそりと削り取っていた。
(都内に3箇所あるセーフハウスに行けば、金庫に現金や偽造パスポートがあるけれど……ダメね。
さっきドローンで確認したら、どの隠れ家の前にも特捜部の犬が張り込んでいたわ。完全に封鎖されている)
カードは使えない。隠し資産にも近づけない。手持ちの現金はあと数千円。
そして、明日のチェックアウトは10時。
それを過ぎれば、追加料金を払えない私は路上生活確定だ。
「……帰国?」
一瞬、頭をよぎる。だが、彼女はすぐに首を振った。
(パスポートに入管の『疑義フラグ』が立ったら、正規の空港ゲートは通れない。
かといって、海路の密航ルートは氷室が徹底的に締め上げている。……日本という『島国(檻)』からは出られない)
袋の鼠だ。
このまま組織(NSA)に泣きつけば、任務失敗とスキャンダル発覚で、待っているのは「粛清(消される)」コース。
進むも地獄、戻るも地獄。
「……もう、プライドなんて捨てて、あいつを利用するしかない」
ローズは残り少ないおにぎりを口に押し込み、決意を固めた。
生き残るために、悪魔(K)と取引をするしかない、と。
***
その1時間後。
九条家の近所にある寿司屋『鮨処 源さん』。
回らないが時価でもない、地元で愛される中堅店だ。
「いらっしゃい! お、九条さん。珍しいねえ」
大将が威勢よく声をかける。
九条は、帰りにABCマートで買った新品の革靴(3,980円・防水機能付き・幅広4E)を履き、上機嫌で暖簾をくぐった。
「今日は娘と二人で祝い酒だ。大将、いい席頼むよ」
「へいよ! お嬢ちゃんも大きくなったねえ」
カウンター席に座るなり、ヒナはメニュー表を広げ、目を輝かせた。
「パパ! 今日は本当に好きなの頼んでいいの!?」
「ああ、勿論だ。今日はパパの奢りだからな(震え声)」
「やったー!
じゃあ、大トロ! ウニ! イクラ! あとボタンエビ!」
ヒナの口から飛び出すのは、一貫500円〜800円クラスの高級ネタばかり。
九条の笑顔が引きつり、脳内で高速のそろばんが弾かれる。
(ま、待てよ……?
回収した金は10万円。
そこから修理費(約5万7千円)と靴代(4千円)を引くと、残りは3万9千円。
さらに家計に計上すると(父の偉大さを示すため)約束した「予備費補填分(2万円)」を差し引くと……手元の自由資金は約1万9千円。
……ここから寿司代を引くのか?)
ヒナのペースだと、一人で1万円は軽く食べる勢いだ。自分も同じだけ食べれば2万え……。
(2万円……!?いや、消費税込みで2万2千円だと!!?
ヒナに格好つけてる場合じゃなかった…(予備費補填)。 このままじゃ赤字で皿洗いだ!!)
「お、おいヒナ。たまには『アジ』とか『イワシ』も美味しいぞ? 健康にもいいし」
「えー? それはスーパーで買えるじゃん。
今日はパパが『何でもいい』って言ったもん! すいませーん、追加でアワビ!」
「うぐっ……! そ、そうだな。食べろ、食べろ……」
九条は自分の湯呑みに粉茶を入れながら、震える声で自分用の注文をした。
「大将、俺は……玉子とカッパ巻き。
あと、ガリを山盛りで」
「へい! 九条さんは相変わらず安上がりだねえ!」
大将が笑いながら皿を出す。
隣でヒナがとろけるような顔で大トロを頬張る横で、九条はガリをポリポリと齧り、腹を膨らませる。
これがドケチの流儀。娘には贅沢をさせ、自分は無料のガリで元を取る。
「ん〜っ! 最高!
……ねえパパ。最近なんかいいことあったの?
臨時ボーナスなんて珍しいじゃん」
ヒナが無邪気に尋ねる。
まさか「お前を狙ったスパイから巻き上げた金だ」とは言えない。
「まあな。……ちょっとした『不良債権』を回収したんだよ」
「ふーん? よく分かんないけど、パパの仕事もたまには役に立つんだね!」
「人聞きが悪いな! 常に役に立ってるぞ!」
会計時。
財布の中身(慰謝料の残り)は計算通りごっそりと減っていたが、ヒナの満面の笑顔を見て、九条は小さく息を吐いた。
(何とか耐え抜いた…。
……まあ、たまにはいいか。明日から昼飯抜きにすれば済む話だ)
新しい靴の感触を確かめながら、九条は「勝利の味」を噛み締めた。
***
帰り道。
公園脇の薄暗い道を、親子並んで歩く。
「あ、そうだパパ! コンビニ寄っていい?
デザートのアイス買いたい!」
「お前、まだ食うのか……。いいけど、太るぞ」
「別腹だよ! 先行ってるね!」
ヒナがタタタッと駆け出し、コンビニに入る。
九条が一人になった、その時だ。
ゾワリ。
肌を刺すような気配。
九条は足を止め、街灯の陰に目を向けた。
「……いるんだろ? 出てこい」
眼鏡の位置を直し、解析眼を起動する。
だが、そこに殺気はない。あるのは、深く沈殿した疲労と焦燥感だけだ。
ゆらり、と影が動いた。
現れたのは、ジャージ姿にサングラス、帽子を目深にかぶった女。
かつての煌びやかなトレンチコート姿は見る影もなく、焦燥感も手伝ってか、やつれて見える。
「……K。いや、九条ミナト」
ファントム・ローズ。
彼女は力なく両手を上げ、敵意がないことを示した。
九条は彼女を見据えたまま、虚空――おそらく近くのビルの屋上か、あるいは監視カメラの死角――に向かって、小さく呟いた。
「……見ているな、氷室。
手出しするな。これは俺の『私用』だ」
直後。
周囲の気温がフッと数度下がった。
アスファルトが白く霜つくような、鋭利な冷気。
「ッ……!」
ローズが身震いし、青ざめた顔で周囲を見回す。
頭上から、見えないスナイパーライフルで眉間を狙われているような圧迫感。無言の警告だ。
九条は内心で舌を打つ。
(今のローズを現行犯逮捕したところで、外交特権を盾に即釈放されるのがオチだ。
特捜部のエースが、そんなことに気づかないはずがないだろ?)
九条のポケットの中で、スマホが短く一度だけ震えた。ワン切りだ。
それと同時に冷気が引き、風だけがヒュウウ……と鳴る。どうやら待つことにしたらしい。
(さすがだな、現・エース様)
九条はローズに向き直った。
「で? 何の用だ。
まだ金が余ってるから、追加の慰謝料でも払いに来たか?」
「……皮肉ね」
ローズは唇を噛み、ギリギリの表情で九条を睨んだ。
プライドと生存本能がせめぎ合っている。
「通報を取り下げて。……お願い」
「断る。お前が日本にいる限り、俺の平穏はない」
九条は即答した。
ローズは悔しげに拳を握りしめ、そして――意を決したように顔を上げた。
「……私を日本から追い出したいんでしょう?
なら、利害は一致しているわ」
「何?」
「今のまま帰国すれば、私は組織に『消される』。
任務失敗、身元発覚、公金横領疑惑……。待っているのは粛清よ」
ローズの声が震えた。それは演技ではない、本物の恐怖だった。
「だから……私が『生き延びて帰れる』ように、手を貸して。
私の名誉ある撤退を助けてくれるなら……二度とあなたの前には現れない。
組織の情報でも、裏ルートのパスでも、何でも提供するわ」
それは命乞いではなかった。
互いのメリット(九条は平穏、ローズは生存)を天秤にかけた、ギリギリの「ビジネス・トーク」だった。
九条はしばらく沈黙し、ため息をついた。
S級スパイの末路がこれか。哀れなものだ。
だが、利用価値はある。
「……いいだろう。話を聞こうか」
九条は冷徹な「管理者」の顔で告げた。
「ただし、相談料は高いぞ?
……とりあえず、時給3,980円からだ」
「ッ……! この守銭奴……!」
ローズは屈辱に顔を歪めたが、その瞳には微かに「生」への希望が灯っていた。
月夜の下、小市民とスパイの奇妙な共犯関係が結ばれようとしていた。




