第19話:自宅を襲撃されたが、娘(財務大臣)は畳の汚れと修理代にキレた
時刻は16時30分。
都内某所、築30年の旧公団住宅(団地)。
S級エージェント『ファントム・ローズ』は、4階建ての建物の屋上にある給水塔の陰に身を潜め、眼下を見下ろしていた。
(……ここが『K』の隠れ家?)
ターゲットの部屋は、真下の4階角部屋。
塗装の剥げた鉄扉。錆びついた手すり。
ベランダには生活感丸出しの洗濯物が干されている。
かつて世界を震撼させたシステムエンジニアの住処としては、あまりに貧相だ。
(空港で感じた『粘りつくような監視の視線』……あれは途中で撒いた。今のところ、追手の気配はない)
ローズは端末を取り出し、真下の部屋へ向けて「生体透過スキャン」を実行した。
突入前に敵戦力を把握するのはスパイの基本動作だ。
『Scan Result: 生体反応 1』
『推定:10代女性。戦闘力 Eランク以下(非戦闘員)』
『ターゲット "K"(成人男性):不在』
(よし。ターゲットの娘一人のみ。父親はまだ帰宅していない)
彼女は次に周囲の魔力濃度を確認し、小さく頷いた。
S級スパイの鉄則。敵地では決して自身の「内源魔力」を使わないこと。
使うのは、現地に流れる「環境魔力」のみ。
(日本の屋内配線は『ミスリル配合線』が標準規格。
……いざという時は、この団地を流れる「家庭用電源」からエネルギーを拝借すれば、探知されずに大技も撃てる)
クリアリング完了。退路確保。エネルギー源確認。
彼女は完璧なステルス計画を組み立てた。
「……行くわよ」
ローズは音もなく屋上から身を乗り出し、ワイヤーを使って4階のベランダへと無音で降下した。
窓ガラスに特殊なデバイスを押し当て、高周波振動でクレセント錠を解錠する。
侵入成功。
彼女は靴のままリビングへ足を踏み入れた。
あえて土足で踏み込む。それは相手のテリトリーを汚し、精神的な優位を取るための威嚇行為だ。
「動かないで。声を出せば――」
ローズはサイレンサー付きの拳銃を構え、ターゲットの背後を取った。
リビングのちゃぶ台に向かっていた少女――九条ヒナ(16歳)が、ビクッと肩を震わせて振り返る。
「……え?」
ローズは冷酷な笑みを浮かべた。
銃口を突きつけられれば、普通の女子高生なら悲鳴を上げて竦み上がるはずだ。
「騒がないで。私はあなたのお父さんの……」
「ちょっと!!」
ヒナが柳眉を逆立てて叫んだ。
銃口を向けられているにも関わらず、彼女の視線はローズの顔ではなく、「足元」に釘付けになっていた。
「土足!? 何してるのよ、畳が汚れるじゃない!!」
「……は?」
ローズの思考が一瞬停止した。
銃を見ても動じない? いや、それ以上に「畳」を気にしている?
ヒナの脳内では、命の危機とは別の、より切実な計算が走っていた。
(銃……? 本物? オモチャ?……でも、そんなことより!
あの泥だらけのブーツで踏まれたら、畳にシミがつく!
本畳の張り替え代は一枚3万円……6畳全部替えたら18万円!?
ウチの家計じゃ即死よ! 本物かもわからない銃なんかよりリアルに怖いわ!!)
「すぐ出てって! というか靴を脱いで!
ここ、借家(公団)なのよ!? 退去時の原状回復費用いくらすると思ってるの!?」
「あ、貴女、状況が分かって……」
「分かってるわよ! 泥棒でしょ!?
ウチには何もないわよ! 現金なんて昨日の焼肉で使い果たしたんだから!」
ヒナは電卓をバン! と叩きつけた。
その剣幕は、数多の修羅場をくぐってきたS級スパイをもたじろがせる「生活の圧」に満ちていた。
(……なんなの、この親子は!?)
ローズは苛立ちを覚え、引き金に指をかけた。
「黙りなさい。痛い目に遭いたくなければ……」
その時。
ローズの鋭敏な聴覚が、異音を捉えた。
カチッ。
足元の畳の下(重量センサー)が作動する音。
『警告:侵入者検知。防衛プロトコル・レベル1、起動』
リビングの安っぽいAIスピーカーが、無機質な声を上げた。
シュウウウウウウッ!!
部屋の四隅に設置された「芳香剤型デバイス」から、猛烈な勢いで白煙が噴射された。
ローズは即座に息を止め、バックステップで距離を取る。
対するヒナの動きは洗練されていた。
ガスが噴き出すと同時にキッチンへダッシュし、濡れタオルで口と鼻を覆う。
そして、低い姿勢で窓際へ移動し、換気を確保する。完全に訓練された動きだ。
「げほっ……もう、パパってば! 感度強すぎ!」
ヒナが窓を開け放つ。
ローズはハンカチで口を覆い、成分を分析した。ただの「唐辛子エキス」だ。
これはトラップではない。「害虫駆除」レベルの嫌がらせだ。
「おのれ……舐めた真似を……!」
ローズはついに「魔法」の行使を決意した。
自身の「オド」は使わない。この部屋のコンセントから「環境マナ」を利用し、一瞬で拘束する!
「いいわ。手荒に連れて行ってあげる。
術式展開――『幻影の鎖』!」
彼女が術式を起動し、マナを引き出した瞬間。
バチンッ。
乾いた音と共に、部屋の照明が消え、同時に構築しかけた魔法が霧散した。
「!? 魔法が……消えた?」
「あーあ、ブレーカー落ちちゃった」
ヒナが呆れたように言った。
「お姉さん、知らないの?
日本の屋内配線はミスリル配合だけど、ウチみたいに古い団地は契約アンペア数が低いのよ」
「ア、アンペア……?」
「パパが『基本料金を下げるためだ』って、一番安いプラン(15A)にしてるの。
コンセント経由で魔法レベルの出力を吸い上げたら、容量オーバーで落ちるに決まってるでしょ!」
ローズは愕然とした。
「対魔結界」でも「アンチマジックフィールド」でもない。
「15アンペア契約」という、あまりに低い物理的な天井に頭をぶつけて自滅したのだ。
「……ふざけるなッ!!」
ローズはキレた。
銃も魔法も通じないなら、実力行使だ。
彼女は身体強化を行い、音速でヒナの背後に回り込み、手刀を首筋に――
「――そこまでだ、不法侵入者」
背後から、氷点下の殺気が突き刺さった。
ローズが振り返ると、ベランダの窓枠の外――本来なら足場などないはずの空中に、一人の男が立っていた。
彼の足元には、空気中の水分を凍らせて作った「氷のステップ」が形成されている。
銀縁眼鏡に、オーダーメイドのスーツ。
手には、冷気を帯びた警察手帳。
「ダンジョン省・魔導特捜部、氷室レオだ。
……一般市民への住居侵入、および暴行未遂の現行犯で確保する」
氷室が放つ、皮膚を刺すような冷気と威圧感。
それは、ローズが空港で一瞬感じ、撒いたと思っていたあの「不快な視線」と同じものだった。
「ッ……! 空港の気配は、貴様か!」
「気づくのが遅いな。貴様のステルスなど、私の『監視網』の前では児戯に等しい」
氷室が腕を振るうと、鋭利な氷柱が生成され、ローズへと向けられた。
ローズは舌打ちし、即座に判断した。
ベランダは塞がれた。後ろ(ベランダ)へ逃げれば迎撃される。
ならば――!
「――逃がすか」
氷室はベランダの窓枠を蹴り、空中の「氷の足場」から室内へと滑り込んだ。
と同時に、逃走を図るローズの背中へ向けて、鋭利な「氷の刃」を放つ。
「チッ……!」
ローズは背後の殺気を感知し、紙一重で首を捻った。
ヒュンッ!
氷の刃が彼女の頬をかすめ、数本の金髪が空中に舞う。
「……覚えてなさい。次は必ずいただくわ」
ローズは足元に煙玉を叩きつけた。
ボンッ!! と視界を奪う煙が充満する。
「煙幕か……! ヒナ君、伏せて!」
氷室がとっさに風魔法で煙を払おうとし、ヒナを庇うために一歩踏み込む。
その一瞬の隙を突き、ローズはベランダとは逆方向――玄関ドアへと疾走した。
ガチャ、ダンッ!
ローズは玄関ドアを蹴破って廊下へ飛び出すと、そのまま共用通路の手すりを乗り越えた。
4階からのダイブ。
彼女は着地寸前に風魔法(自身のオドを使用)で衝撃を殺し、隣接する3階建ての低層棟の屋根へと飛び移り、闇夜へと消えていった。
「深追いは危険か……」
氷室は舌打ちし、追跡を断念した。
今ここを離れれば、第二の刺客や罠があるかもしれない。一般人の保護が最優先だ。
氷室は即座にインカムを起動した。
「アルファ1より各員へ告ぐ。ターゲット『ローズ』が逃走した。
ルートは北側、B棟の屋上を経由して路地裏へ向かっている。
……包囲網を狭めろ。ただし深追いはするな。奴はS級だ、死ぬぞ」
『了解!』
部下たちへの指示を終えると、氷室は床に落ちていた「金色の髪の毛」をハンカチで丁寧に拾い上げた。
先ほどの攻撃で、意図的に切り落としたDNAサンプルだ。
「……怪我はないか、ヒナ君」
氷室がハンカチをポケットにしまうと、ヒナはキョトンとした顔で彼を見ていた。
「……誰?」
「私は……君の父上の同僚だ」
「ああ、パパの。……おじさんも靴、脱いでくれます?」
ヒナの強心臓に、氷室は一瞬言葉を失った。
***
その頃。
都内の大通りを、残像が見えるほどの速度で疾走するスーツ姿の男がいた。
九条ミナトだ。
オフィスで「自宅セキュリティ」のアラートを受け取った彼は、退勤打刻もそこそこに飛び出した。
「タクシー……いや、渋滞してる! 俺の足の方が速い!」
――身体強化。リミッター解除。
「うおおおおッ!!」
九条はアスファルトを蹴り砕く勢いで加速した。
時速60キロ。車をごぼう抜きにし、ガードレールを飛び越え、最短ルートを突き進む。
靴底が摩擦熱で焦げようとも構わない。
ヒナの無事を確認するためなら、俺は新幹線だって追い越してやる。
***
その10分後。
ドタドタドタッ!! と、階段を駆け上がる音が響いた。
「ヒナッ!! 無事か!?」
蹴破られて半開きになった玄関ドアが乱暴に開かれ、九条ミナトが飛び込んできた。
肩で息をし、全身汗だくだ。
乱暴に靴を蹴り脱ぐと、リビングへ雪崩れ込んだ。
「あ、パパおかえりー。早かったね」
リビングでは、ヒナが呑気に散らかった部屋(唐辛子の拭き掃除)を片付けていた。
そして、その横には――腕組みをして不機嫌そうな氷室レオが立っていた。
「……氷室、監査官?」
「遅いぞ、Fランク。
貴様の家のセキュリティは穴だらけだ。私が来ていなければ、娘は誘拐されていたぞ」
氷室が冷ややかに告げる。
九条は部屋の惨状(割れた窓ガラス、唐辛子の匂い、歪んだドア)を見て、事態を悟った。
「……ヒナ。怪我は?」
「ないよ。なんか変な外人さんと、この眼鏡のおじさんが喧嘩して帰っただけ」
「そうか……よかった……」
九条は崩れ落ちるように膝をつき、ヒナを抱きしめた。
震えている。
世界最強の解析者も、娘の危機の前ではただの無力な父親だ。
「……パパ、苦しいよ。あと汗臭い」
「ごめん。……ごめんな」
九条は顔を上げ、氷室を見た。
普段の「昼行灯」の仮面は消え、そこには真剣な眼差しがあった。
「……監査官。礼を言う。
俺の娘を守ってくれて、ありがとう」
「フン。礼には及ばん。
私は『国の重要参考人(貴様)』の弱点が、海外に奪われるのを防いだだけだ」
氷室はそっぽを向いた。
だが、その手にはハンカチに包まれた「金色の髪の毛」が握られていた。
「九条。奴は『ファントム・ローズ』だ。外交特権を盾にしている以上、通常の捜査では手出しができない。
だが……今回ばかりは奴もミスをした」
氷室はポケットを軽く叩く。
「現場に残されたこの『DNA(髪の毛)』があれば、奴がこの部屋に不法侵入した動かぬ証拠になる。
外交ルートを通じて本国へ突きつければ、特権の剥奪まではいかずとも、活動停止に追い込むカードにはなるだろう。
それに――」
氷室の眼鏡が冷たく光る。
「私の『追跡魔法』の触媒としても使える。
次に奴が動けば、どこにいようと私が先回りして凍らせてやる」
「……頼もしいな。だが、俺も黙っているつもりはない」
九条の瞳の奥で、エメラルドグリーンの光が冷たく明滅した。
その殺気を感じ取り、氷室は満足げに口角を上げた。
「いい顔だ。……では、私はこれで失礼する。
ローズの追跡指揮がある。事後処理は任せたぞ」
氷室は玄関へ向かい、丁寧に揃えてあった革靴を履いた。
そして、壊れたドアを器用にすり抜けて出て行った。
「……さて」
嵐が去り、日常(残骸)が残された。
九条はため息をつき、改めて惨状を確認した。
粉々に砕け散った窓ガラス。そして、蝶番が歪み、鍵が壊れた玄関ドア。
九条は割れたガラス片の山に手をかざす。
――解析開始。
九条の目に、破損箇所の「座標データ」が表示される。
「修正」コマンドで、破片を繋ぎ合わせ、元通りに修復しようと試みる。
だが。
『エラー:損壊率 48%。物理パーツ欠損(微細粉末化)』
『修復不能(Unrepairable)』
「……くっ、ダメか。破片が足りなすぎて、パッチ(修正)が当たらない……!」
高周波カッターと衝撃で砕け散ったガラスは、大部分が粉末状になって飛散しており、もはや元の形を留めていなかった。
俺の能力は「修正」であって「創造」ではない。無からガラスを生み出すことはできないのだ。
「……これ、業者呼ばないと直らないな」
九条は玄関ドアも確認し、呆然と呟いた。
窓ガラスの交換費用に、玄関ドアの鍵交換と枠の板金修理。
夜間緊急対応の出張費込みで、相場は安くても5万円コースだ。
「ご、5万円……。俺の小遣いの2ヶ月分が……」
S級スパイの襲撃。娘の危機。
それらを乗り越えた後に待っていたのは、あまりに冷酷な「現実(請求書)」だった。
「パパ? 何ブツブツ言ってるの?」
ヒナが腕組みをして、冷ややかな視線を向ける。
「ま、まさかヒナさん……この修理代、家計から……?」
「出せるわけないでしょ! 今月の予算カツカツなんだから!」
ヒナは即答した。だが、青ざめる父親を見て、少しだけ声を和らげた。
「……でも、パパが急いで帰ってきてくれたのは嬉しかったし、これはパパの仕事のせいだから……今回だけは『緊急予備費』から出すわ」
「おぉ! さすがヒナ! 愛してる!」
「ただし!!」
ヒナはビシッと指を突きつけた。
「予備費を使った分は補填しなきゃダメなの。
だから……来月から半年間、パパのお小遣いから毎月1万円ずつ天引きして穴埋めします!」
「そ、そんなぁぁぁッ!! 半年ローン!?」
九条の絶叫が、夕暮れの団地に響き渡る。
娘は守れた。だが、その代償として「半年間の貧困生活」が確定した。
「覚えてろよ、アメリカ(仮)……!
この『修理代(5万円)』の恨み……利子をつけて払わせてやる!!」
九条の瞳の奥で、エメラルドグリーンの光が、冷たく、激しく明滅していた。
世界最強の解析者の「逆襲」が、今、ケチくさい理由で幕を開けた。
九条はガックリと項垂れ、そのまま玄関のタタキへとへたり込んだ。
ふと、そこにある自分の革靴(量販店で3,980円)が目に入る。
緊急時とはいえ、無意識に靴を脱いで上がっていた自分の社畜根性が恨めしい。
だが、その靴には違和感があった。
「……ん?」
持ち上げてみると、靴底が熱でドロドロに溶け、ベローンと無残に剥がれ落ちていた。
時速60キロの猛ダッシュとアスファルトの摩擦熱に、安物の合皮が耐えられるはずもなかったのだ。
「あ……あぁ……」
とどめの一撃。
修理費5万円に加え、靴の買い替え費用(約4,000円)まで確定した。
「パパ? どうしたの?」
「……いや。なんでもない。……なんでもないんだ……」
九条は剥がれたソールを握りしめ、静かに涙を流した。
S級スパイとの戦いは始まったばかりだが、九条家の家計簿戦争は、既に敗色濃厚だった。




