第18話:S級スパイのハニトラ vs 250円のコーヒー
北米某所、国家安全保障局(NSA)地下司令室。
無数のモニターが並ぶ薄暗い部屋で、張り詰めた声が飛び交っていた。
「――お言葉ですが長官! これは誤検知ではありません!」
分析官がデスクを叩く。メインスクリーンには、日本の東京都千代田区――財務省上空の衛星写真が映し出されていた。
「昨日14時30分、財務省の地下深くで局所的な『空間歪曲』を検知。
同時に発生した魔力波形は、戦術核クラスの高エネルギー反応。……これほどの数値は、7年前の『大発生』以来、初めての観測です」
「日本政府が、地下で核実験でも行ったと言うのか?」
「いえ。波形パターンから推測するに……『超大型モンスターの空間転送』です。
日本は極秘裏に、怪獣を兵器として運用する技術、あるいは『対怪獣兵器』を実用化した可能性があります」
司令室に戦慄が走る。
ダンジョン資源大国・日本。その技術的優位性は、同盟国にとっても脅威となりつつあった。
「……ターゲットは?」
「7年前の極秘ファイルに該当者あり。
当時の日本政府混乱期――『大発生』による緊急退避のドサクサで、大使館員が庁舎から持ち出した『未処理文書』の中に、焼け焦げたメモが含まれていました」
分析官が古びたデータをモニターに表示する。そこには手書きの走り書きと、履歴書の一部があった。
「当時はシュレッダーにかける時間すら惜しまれ、手でちぎられただけの状態で廃棄されていました。おかげで復元は容易でした。
コードネーム『K』。経歴:『帝都理科大学・中退』『システムエンジニア』。
この断片情報を、現在の日本国ダンジョン省の全職員データとクロス検索しました」
画面上の候補者リストが、次々と絞り込まれていく。
「……適合率99.9%。該当者は一名のみ。特別管理課・係長、九条ミナトです」
長官は重々しく頷き、受話器を取った。
「『ファントム・ローズ(幻影の薔薇)』を投入しろ。
日本が隠し持つ『K』を……如何なる手段を使っても確保せよ」
***
成田国際空港、到着ロビー。
多くの旅行客が行き交う中、一人の金髪の美女がゲートをくぐった。
大きなサングラスに、つばの広い帽子。
服装は地味なトレンチコートだが、隠しきれない抜群のプロポーションと、一般人とは一線を画する鋭利なオーラが、周囲の視線を集めていた。
(……フン。チョロいものね、日本の税関なんて)
彼女の名はローズ。S級諜報員。
パスポートは外交官用の偽造品。荷物には魔法的に隠蔽された暗殺道具一式。
完璧な潜入だ――と、彼女は思っていた。
だが、到着ロビーの柱の陰で、その姿を冷ややかに見つめる男がいた。
ダンジョン省・特捜部、氷室レオだ。
「……やはり、来たか。ハイエナ共め」
氷室は手元のタブレットを確認した。
画面には、昨日財務省で観測された「異常魔力」のデータが表示されている。
「あれほど巨大な魔力が動けば、各国の諜報機関が黙っているはずがない。必ず『臭い』を嗅ぎつけて入国してくると思っていたぞ」
氷室は、昨日の時点でこの事態を予測していた。
だからこそ、特捜部の権限で入国管理局の魔力センサー網を最大感度に設定し、自ら空港で網を張っていたのだ。
「ビンゴだ。入管センサーがS級反応を検知。……データ照合、『ファントム・ローズ』」
『確保しますか、統括官?』インカムから部下の声がする。
「待て。奴は正規の外交官パスポートを持っている。入国の時点で拘束すれば、国際法違反でこちらが不利になる」
氷室は悔しげに眼鏡の位置を直した。
敵は「外交特権(不逮捕特権)」という最強の盾を持っている。これを貫くには、明白な証拠――すなわち、日本国内での「主権侵害(拉致・傷害・破壊活動)」の現行犯を押さえるしかない。
「奴の狙いは十中八九……この騒動の中心人物である『九条ミナト』の接触・奪取だろう。
泳がせるぞ。奴が九条、あるいはその関係者に手を出した瞬間……法的保護を剥奪し、地獄へ叩き落す」
***
東京、オフィス街。
昼休みの喧騒から少し離れた、路地裏の激安コーヒーチェーン店『ドトール』。
俺、九条ミナトは、カウンター席の隅で至福の時を過ごしていた。
「……ふぅ」
目の前にあるのは、Sサイズのブレンドコーヒー。税込250円。
スーパー開店までの間、(無事に小遣い日を迎えた)俺が自分に許した唯一の贅沢だ。
香ばしい豆の香り。適度なカフェイン。これが俺の午後を支える燃料だ。
「ここ、いいかしら?」
不意に、甘い声がかかった。
顔を上げると、息を呑むような美女が立っていた。
透き通るような白い肌に、宝石のような碧眼。胸元が大きく開いたシャツからは、暴力的なまでの谷間が主張している。
「……どうぞ」
俺は素っ気なく答え、席を詰めた。
内心では(チッ、相席かよ。狭くなるな)と舌打ちしながら。
美女――ローズは、俺の隣に座ると、困ったような顔で溜息をついた。
「はぁ……困ったわ。私、日本に来たばかりで……」
彼女は潤んだ瞳で俺を見つめ、身を乗り出した。
甘い香水の香りが漂う。豊かな胸が、俺の腕に触れるか触れないかの距離まで迫る。
「あの、親切な方。助けていただけませんか?
私、お財布を落としてしまって……。警察に行く電車賃もないんです」
典型的なハニートラップ、あるいは寸借詐欺の導入だ。
だが、一般男性なら鼻の下を伸ばして「僕が出しますよ」と言うところだろう。
俺はコーヒーカップを置き、眼鏡の位置を直した。
――解析開始。
俺の視界が緑色のUIに切り替わる。
隣の美女の顔面データを高解像度で取り込み、画像処理アルゴリズムにかける。
『対象:金髪女性(推定20代後半)』
『顔面解析:厚塗りのファンデーションにより微細反応の読み取り不可……解析対象を変更』
『ターゲット:右耳裏・頸動脈付近』
俺の目は、化粧で隠された表情筋ではなく、ファンデーションの塗り残しが生じやすい首筋の皮膚にフォーカスを合わせた。
そこにある毛細血管の、1000分の1秒単位の収縮と色調変化を読み取る。
『微細血流解析:心拍数 65 BPM(完全平常)』
『瞳孔散大率:0.0%(変化なし)』
『発汗量:0.0 mg(変化なし)』
『判定:完全な虚偽(Liar)』
「……なるほど」
俺は心の中で結論づけた。
魔法的な「鑑定」ではない。皮膚表面のわずかな色調変化から心拍を逆算する、純粋な画像解析の結果だ。
財布を落とした人間が、こんなに落ち着いているはずがない。
心拍数一つ上がっていないのは、嘘をつくことに慣れすぎている証拠だ。プロの詐欺師か、当たり屋か。
俺は解析を終了し、冷ややかに指摘した。
「財布がない?」
「ええ、そうなんです……」
「じゃあ、その手にあるコーヒーはどうやって買ったんだ?」
俺の視線は、彼女がしっかり握りしめているコーヒーカップ(Lサイズ・450円)に注がれていた。
「えっ」
「財布がないのに注文したのか? それとも、買った後に落としたのか?
だとしたら、警察に行く前に店員に探してもらえ。
……それとも、食い逃げか?」
「い、いえ! これは……!」
ローズの笑顔が引きつる。
彼女は「九条ミナトは安価なカフェを好む」というプロファイリングに基づき、先回りして待ち伏せていた。
だが、詰めが甘かった。一般人相手なら、胸を見せればどうとでもなるという「慢心」があったのだ。
(……チッ、油断したわ。
普通の男なら、私の胸に見とれてコーヒーのことなんて忘れるはずなのに。
この男、私の谷間よりコーヒーの値段の方を気にしてるの!?)
ローズが動揺した、その時だ。
「――九条さん!!」
背後から、ドスの利いた声が響いた。
振り返ると、入り口に天王寺アキラが仁王立ちしていた。
その背後には、何故か鬼の形相がオーラとして浮かんでいる。
「あ、天王寺さん? 奇遇だね」
「奇遇じゃありません!
九条さんのスマホに入れた『紛失防止アプリ(GPS)』で見つけました!
サボって何してるんですか!?」
「……いつの間にそんなアプリ入れたんだ」
「いつの間にも何も、先日九条さんがトイレに行っている隙にインストールして、通知権限もオフにしておきましたから! 気づかないのも無理はありません」
「……お前、それは犯罪スレスレだぞ」
「九条さんが隙だらけなのが悪いんです!
パスコードは『0425(ヒナちゃんの誕生日)』のままですし……。
それに、先週の健康診断だって、『バリウムとMRIが嫌だ』って逃げ出したでしょう!?
体の管理もセキュリティ管理も、ズボラすぎます!」
「うぐっ……」
アキラがカツカツと歩み寄ってくる。
そして、俺とローズの間――物理的距離10センチ――を見て、眉を吊り上げた。
「……仕事中に、こんな怪しい女とデレデレして。
ハニートラップですか? こんなのに引っかかってどうするんですか!」
「いや、引っかかってないよ。こいつ、俺のコーヒーを狙ってるんだ」
「はぁ?」
アキラは俺を無視し、ローズを睨みつけた。
ローズもまた、アキラを値踏みするように見返す。
バチバチバチ……!
二人の間で、火花が散った気がした。
(……この女、ただの公務員じゃないわね)
ローズは瞬時に悟った。
アキラの立ち方、重心の低さ、そしてスーツの上からでも分かる筋肉の密度。
S級エージェントである自分の殺気に、一歩も引かずにメンチを切っている。
(厄介だわ。今は引くべきね)
「……失礼しました。人違いだったようです」
ローズはパッと「一般人」の顔に戻り、立ち上がった。
そして、去り際にスマホを取り出し、さりげなく俺の方へレンズを向けた。
カシャッ(無音シャッター)。
「……また会いましょう、K」
ゾクリとするような色気を残し、彼女は店を出て行った。
「……な、何よあの女!香水臭い!」
アキラが鼻をつまんで喚く。
「九条さん! 変な女に鼻の下伸ばさないでください!
もし刺されたりしたら、明日のシフトどうするんですか!」
「伸ばしてないって。……それより見ろ、天王寺さん」
俺はローズが座っていた席を指差した。
「あいつ、飲みかけのコーヒー置いてったぞ。
……もったいない」
「そこですか!?」
アキラのツッコミが店内に響く。
だが、俺は微かに感じていた。
背筋を走る、嫌な悪寒を。
(……『K』と言ったな、あいつ)
俺の過去のコードネームを知る者。
そして、生理反応を完全にコントロールできるプロの嘘つき。
ただの詐欺師じゃない。もっと面倒な「何か」だ。
***
路地裏。
ローズは悔しげに唇を噛んでいた。
「あのおっさん……何なの?
私の『フェロモン(精神干渉)』が全く効かないなんて」
当初の計画では、色仕掛けで懐柔し、彼を味方につけて本国へ連れ帰るつもりだった。
だが、彼は見向きもしなかった。プライドを傷つけられた彼女の瞳に、冷酷な光が宿る。
「方針変更よ。懐柔はなし。
……徹底的に追い詰めて、泣いて命乞いするまで屈服させてやるわ」
彼女は端末を取り出し、先ほど店内で隠し撮りした「九条の顔写真」を検索エンジンにかけた。
通常検索ではヒットしない。九条のSNSは非公開で、セキュリティは堅い。
だが、彼女が起動したのは、裏社会御用達の『ウェブ・アーカイブ巡回ボット』だ。表層ウェブからは削除されたデータも、深層のキャッシュから根こそぎ掘り起こすデジタル・ハイエナ。
『検索対象:画像一致(Similarity Search)』
『照合中……Hit』
数秒後、彼女は獲物を見つけた。
数年前に地方自治体の広報誌PDFに掲載され、現在はリンク切れになっているはずの「市民運動会」の集合写真。
その片隅に、カメラを持って気まずそうに立っている九条と、その横でピースサインをする少女が写っていた。
『関連タグ抽出:九条ミナト 娘 都立桜堤高等学校』
「……見つけたわ。家族がいたのね」
『Plan B: 弱点攻略』
『ターゲット:九条ヒナ(16歳)』
ローズは画面の中の少女に口づけし、闇の中へと消えていった。
***
ビルの屋上。
その様子を、望遠レンズ越しに監視していた氷室レオが、静かに端末を閉じた。
「……やはり、ターゲットを変えたか」
氷室の位置から、ローズのスマホ画面は見えない。
だが、先ほどまでプライドを傷つけられて苛立っていた彼女が、不意に浮かべた『獲物を見つけた捕食者の笑み』。
あれは、正面突破を諦め、より脆弱な「弱点(家族)」へ狙いを定めた顔だ。
氷室は、先ほどのカフェでの攻防を魔法的な視点(魔力測定スコープ)で反芻していた。
あの時、ローズは間違いなく『S級精神干渉』を最大出力で放っていた。
だが、九条の脳は、それを0.0001秒で「ノイズ」として処理し、廃棄した。
魔法防御ではない。サーモグラフィーが捉えたのは、前頭葉の異常な熱量と、即時冷却反応だけだった。
「やはり、奴はただの人間ではない」
氷室の脳裏に、ある推論が浮かぶ。
以前、奴の人事データで見た「7年前の履歴書の黒塗り(空白の期間)」。
その時期は、世界中が混乱に陥った「大発生」の時期と完全に一致する。
「あの空白の期間……。
政府は混乱に紛れて、あいつを使って何をしていた?
……まさか、脳細胞を人工的な『生体演算素子』へと置換する、非人道的な生体実験でも行ったというのか?」
人間を辞めた怪物?あるいは、国家が生み出した悲しきサイボーグ?
「まあいい。いずれにせよ、海外へ渡すわけにはいかん」
自身の中で仮説をアップデートすると、氷室は立ち上がった。
「女狐が。貴様がその牙を『一般市民』に向けた瞬間……それが貴様の最後だ」
氷室は風にコートをなびかせ、夜の闇へと溶けていった。




