黒と白の虚空
十八歳の夏、友人が死んだ。不慮の事故だった。
また明日もオセロをしようぜ――そんな他愛もない約束をした数時間後、彼はもうこの世界にいなかった。
高校の部室で拾った古いオセロ盤。日焼けした盤面と、欠けた駒。僕らはその雑さが好きだった。白が弱いだの、黒ばかり偏っているだの、そんなことで何度も笑いあった。
彼が逝った最初の年のお盆。
僕はなんとなく気になって、物置の奥から取り出したオセロ盤の異変に気づいた。
――駒が、増えている。
五つ目の黒い駒。
見覚えのない位置に黒が一つ置かれ、その隣の白が裏返っていた。
「……誰が触ったんだ?」
家族に聞いても誰も知らないという。まあ誰かのいたずらだろう。そう思い、僕もつい白を一つ置いて黒を返した。それで終わりのはずだった。
ところが翌年のお盆。
また黒が一つ増え、白が二つ返っていた。
背筋が粟立った。
けれど、不思議と怖くはなかった。胸のどこかがひどくあたたかかった。
――あいつ、帰ってきてるのかもしれない。
僕はまた白を置いた。
それから毎年、お盆になると駒は二つずつ増えていった。
まるで僕と彼が、無言のまま“夏の続きを”差し合っているようだった。
しかし、人生は先へ進む。僕は大学に行き、就職し、家庭を持ち、別れ、また独りの部屋に戻った。
それでもオセロ盤だけは、毎年決まった場所に置き続けた。
盤を開くたび、十八の夏が胸に蘇った。
四十六歳になったある秋の日。仕事中に激しいめまいに襲われ、そのまま倒れ込んだ。
気づくと、病院の天井がぼんやりと揺れていた。
「進行したガンです。……覚悟を」
医師の声は遠く、体より先に心がしんと冷えていった。
秋風がカーテンを揺らし、その音だけがかろうじて僕を現実につなぎとめた。
その夜、夢を見た。
彼が――いた。
十八のままの笑顔で、僕を見ていた。
「久しぶり。オセロの続きをしよう」
彼が盤を置いた。現実の盤と同じく、残りの空きマスは四つ。局面は完全に互角だった。
彼が先に黒を置く。ぱちん、と裏返る音が胸の奥に響いた。
僕は何時間も考えたような感覚にとらわれながら、震える指で白を置いた。
「――おめでとう。君の勝ちだよ」
あの頃と同じ無邪気な笑顔だった。
「実はね、僕の死ってさ、あの世でもイレギュラーだったんだって。予定にない人を死なせちゃったらしくて、向こうで大騒ぎだったらしいよ」
「なんだそれ……」
「漫画みたいな“試練”とかあるのかと思ったけど、何もないんだって。ただ、特例で残りの寿命を誰かに譲ることはできるらしい」
彼は少し照れたように笑った。
「最初ね、調べたんだよ。僕の家系って無駄に長生きするみたいで、全部譲ったらギネス更新しそうだからやめた」
「やめる理由そこかよ……」
「いや、神様に止められてさ。“管理が大変だ”って」
僕は笑った。笑いながら泣いた。
「で、肝心な話。君の寿命、明日までだったんだ」
胸がぎゅっと締めつけられた。
「本当はそのまま寿命を全部あげてもよかった。でもそれじゃ面白くないから、お願いしたんだ。僕と彼が勝負して、彼が勝ったら寿命をあげてくれって」
「……オセロで、決めたのか」
「うん。だって僕ら、ずっとこれで繋がってたろ?」
その言葉に、涙があふれた。
「僕の分まで、生きてくれよ。
そして、いつかこっちに来る日が来たら――また一局やろうぜ」
彼は、秋の風のように静かに消えた。
翌朝、医師は信じられないという顔で告げた。
「腫瘍が……小さくなっています。手術すれば助かる可能性があります」
奇跡だと人は言った。
だが僕は知っていた。それは彼が置いてくれた“もう一手”なのだと。
――そして四十年が過ぎた。
僕は彼の分まで生きた。
結婚もし、相手は再婚で子持ちだったが、みんな僕を慕ってくれた。
孫も生まれ、つい先日ひ孫の顔も見た。幸せな人生だった。
ただ、体は正直だ。足腰は弱り、長く歩けなくなり、最近は縁側の椅子に腰を沈めたまま、秋の光を眺めて過ごす日が増えた。
あの時、なんとなく物置のオセロ盤が気になったのは――虫の知らせってやつだったのかな。
そっと振り返った先、書斎の机の上には、あのオセロ盤が今も置いてある。
盤の隅に残された“二つの空きマス”。
その静かな空白を見つめると、胸がじんと熱くなる。
――君に再会できるその日、胸を張って「ありがとう」と言いたい。
だから僕は今日も生きる。呼吸が浅くなっても、手足が思うように動かなくなっても、残された日々にしがみつくように。
彼が譲ってくれた四十年が、虚空ではなかったと伝えるために。
黒と白の、その静かな虚空の向こうで。
いつかまた、僕らは向かい合うだろう。




