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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

星座もの

いつかきっと

作者: 佐藤山猫

 始めて会ったのは6歳の頃だった。


「おい! ここは俺の秘密基地だぞ!」


 ありふれた子供用の庶民服を着た少年。当時の私は気が弱くて、おどおどと彼を見つめた。


「あの、わたくし、しっ、知らなくて……」


 少年の名前はタウリ。この広大な屋敷を管理する代官の末子だった。屋敷の持ち主は私の父で、ただし普段は都から遠く離れた領国ではなく、妻子と共に都に住んで政務を執り行っていた。代官は領主に代わって領地の経営をしていた。

 私は都で生まれ都で育ち、領地へ赴くのはこれが初めてのことだった。身体の弱かった私を慮ってのことだったという。

 それでも私が領地へ行くことになったのは、都の空気に肺をやられてしまったから。隣国の方が近いほど都から遠く、領地は空気の澄んだ高原地帯だ。転地療法を見込んで私は見晴らしの良い当家の屋敷に一室を与えられた。忙しいお父様と身重のお母様は同行しなかった。知った顔は僅かで、しかも人見知りだった私は、見る大人すべてに怯んでしまっていた。気を紛らわすために一人散策した屋敷の庭の広大さに迷い子になり、出会ったのがタウリだった。


「お嬢様っ。息子が飛んだご無礼をっ! 平にご容赦ください!」


 代官たる父親に無理矢理頭を押し付けられるように謝る少年の姿に私は面食らった。私にとっては代官も初対面のようなもので、知らない大人が平身低頭していることに恐れすら抱いていた。


「あ、謝らないでください」


 おずおずと小さく言うのが精一杯だった。代官の質実な顔がほんの一瞬だけ弛んだ。タウリは不貞腐れたままだった。ボソリと呟く。


「俺の秘密基地なのに……」

「違う。お嬢様の庭園だ」


 確かに「うちの庭」には違いなかった。私のという意識は当時も無かったけれど。

 叱られてタウリは不満げだった。連れられて消えた後、わざわざ戻ってきて「お前住んでなかったじゃねえかよ」と文句を連ねてきた。


「俺がじっこーしはいしてたんだからな!」


 タウリの暴論に私はおどおどして、


「そ、それほどまでに仰るなら……」

「言ったな! やっぱ無しとか言うなよ!」


 タウリは私に詰め寄って言った。


「俺も、お前がここに来ることを許してやる! タウリ探検隊の隊長としてな!」


 とも付け加えた。

 面食らったのは確かだろうけれど、それより確かなのは、同世代の男の子と話ができる機会に、私はこの上ない期待を抱いたことだ。


 肺の調子が戻った私が都へ戻るまでの四ヶ月余り、私たちは殆ど毎日、庭園で秘密の会合を重ねた。

 タウリは色々なことを教えてくれた。「探検隊って言うからには、他に誰もいないような場所へ行かなくちゃな!」と口癖のように言っては、色々なところへ私を連れ回した。草花や生き物の名前、野山の歩き方、誰かと食べる食事の美味しさ。すべてタウリと会うまで知らなかったことだ。四ヶ月があっという間で、瞬く間に過ぎていった。


「タウリ。わたくしは都に帰るわ」


 領地に視察に来たお父様が、私の快復を見て、都に共に戻るよう言ってきた。


「いつ?」

「明日には」

「ふーん」


 タウリは平気な風だった。目が涙に潤んで視界がぼやけていくのが分かった。悔しくて、寂しかった。


「また来るんだろ?」


 こともなげにタウリが言い、私は勢いよく顔を上げる。


「エウロペは副隊長だからな!」

「……なんて?」

「タウリ探検隊の副隊長だ!」

「初耳よ」

「今決めた!」

「……呆れた」


 腰に手を当て胸を張るタウリが可笑しくて、悲しみも引っ込んでしまった。


「分かったわ。きっとまた戻ってくる」


 私たちは手を振り合って別れた。清々しさすらある別れだった。


 再会したのはそれから一年半も経ってからだった。

 久しぶりに出会ったタウリは、身の丈こそ多少伸びていたものの、表情の腕白さは変わっていなかった。


「お父様を説得したの。ずっとここに居たいって」

「……エウロペのお父さんって、めちゃくちゃ偉いんだろう?」

「そうかもね」

「こないだからずっと親父が頭を押さえていたのはこのせいかよ」


 領主の娘が領地に住まうことになって、代官が何を懊悩するのかいまいち掴めなかったから、気にしないことにした。


「親父が勉強しろってうるさいんだ」

「何を学んでいるの?」

「帳簿のつけ方とか」

「なにそれ」


 見せられたノートには、ミミズののたくったような字が書いてあった。呪文の類に見えた。


「魔術の勉強でもしているの?」

「魔術? そんなのおとぎ話だろ?」


 違うって、とタウリは鼻を膨らませる。


「よく見ろよ。数字が書いてあるだろ」

「……本当ね」


 そうと言われなければ読めないほどの悪筆だった。


「手習いの稽古までつけられたんだ。今はもうやってないけど」

「あら、どうして?」

「いくらやっても上達しないから、教師の方が諦めてしまって、全然続かなかったんだ」


 教師を諦めさせるほどの悪筆とは恐れ入るほどだ。


「エウロペ。お前は勉強してなさそうでいいよな」


 どうやらタウリの目には、私は日夜暇そうにしている箱入り娘に映っているらしい。


「わたくしだって教師がつけられています!」


 私は頬を膨らませた。下品だと注意してくる家庭教師もいないからなんだか新鮮な気分だった。


「へえ。どんなこと勉強してるんだ?」

「社交でしょう? 礼儀でしょう? 政治学でしょう? 手習いでしょう? 詩歌や声楽もね」

「へえ?」


 疑わしそうな目を向けてくるタウリに無性に腹が立った。


「昨日はオペラを習ったのよ」


 習いたての歌を歌ってみる。

 おもしろげに笑みを浮かべていたタウリの、その表情が段々抜け落ちて、口も半開きになって、しまいには目を丸くして驚きに顔を染めていたのを今でも覚えている。


「…………うへぇ」


 一節朗々と歌い上げて、感想は、とタウリを見た。


「すげえ上手かった」

「そう。ありがとう」


 私は得意だった。教師や親や屋敷の人々がどれだけ褒めそやしてくれてもこれほどは喜ばないだろう。だってタウリが褒めてくれたから。

 会うたびに歌を披露した。いつだってタウリは褒めてくれた。


「歌手になれるよ」


 タウリは無邪気に手を叩いてくれた。私は貴族家の長子だ。いずれ家督を継ぐ。婿を取るか単独かは別として。

 タウリとは、身分が違った。


 痛いほど理解していたそんな事情は表に出さず、私は「タウリはどうなの?」と聞いた。


「私が歌手になれるというなら、あなたは何になれるのかしら」


 タウリはしばらく考えて、


「勇者かな」


 と言って笑った。


「勇者って何よ」

「魔物を倒すんだよ」

「冒険者ってこと?」


 違うとタウリは首を振る。


「俺が思うにな。勇者っていうのは、人の役に立つ人だ。困っている人を見過ごさない。必ず手を差し伸べる人だ」

「……きっとなれると思う」

「だろ! いつか大人になったらな! エウロペは歌手で、俺が勇者だ!」


 タウリはどこまでも無邪気なままで、私も歌手になんてなれないことに見ないふりを続けて、大人になっていった。

 ずっとこの日々が続けばいいと思っていた。


「来年から都の学校に通うの。寄宿舎にずっと入ることになるわ。夏も冬も、しばらく来れない」


 12歳の夏だった。

 タウリは嘘だと言ったけれど、貴族の子女として、使命を全うするためには、この決定は揺るぎないものだった。

 涙は堪えた。もう12歳で、分別のつく歳だ。昨日の夜散々濡らした袖も枕も、朝には乾いていた。


「手紙を書くよ」


 タウリは言った。


「字の苦手なあなたが?」


 相変わらずタウリはひどい悪筆で、自分ですら文字を解読できないことも珍しくなかった。

 手紙は二週間から三週間置きに届いた。やはり悪筆で、手紙を届ける郵便人たちも寮管も寮友たちも、宛名が私であることを判じるのがやっとだった。宛名でそうなのだから、中身は言わずもがな。好奇心に駆られた無粋な子猫が覗こうとも首を捻るだけで、字を見慣れていた私でないと読み解くことはできなかった。


 タウリは優秀な戦士に育っているみたいだった。


『領地のことだったら、全部手に取るように分かるんだ』

『全部手のひらの中ってことね』

『そういうことだ』


 タウリの活躍で、領内に潜んでいた犯罪者や間諜を何度も捕えたらしい。


『隣の国からこっそり入ってくるんだ。怪しいよな』

『活劇の読みすぎよ』


 そういう風に笑っていたのに。

 15歳になる頃。

 隣国と戦争が始まった。


「我が領土も戦火に巻き込まれるだろう」


 お父様は厳しい表情で語った。


「儂は領主として、戦場に参じ、戦いの指揮をとる必要がある」

「勝てるのですか」


 お母様が訊いた。

 お父様は厳しい表情を崩さないまま、


「必ず生きて帰ってくる」


 と言った。


『負けるつもりはねえよ』


 手紙でくらい折目正しくあればいいのに、タウリは手紙の文面においてさえタウリだった。


『家の兵の他は義勇の兵だけだ。領民は逃した。領主からの指示で、中央に』


 お父様がそのような采配をしているなんて。

 タウリからの手紙で、私は戦争の様子を間接的に知った。

 隣国の武具は重厚で、何年も準備してきたことを思わせる兵の練度と、士気の高さがあると。士気の上ではこちらも劣るつもりはないけれど、日に何人も、死傷の報が上がってくるのだと。


『魔術っていうのは本当にあるみたいだ』


 タウリが手紙に書いていた。


『陣地に医者がいるんだ。首に蛇を巻いてる、異民族みたいな顔立ちの人で、どんな怪我もあっという間に治してしまうんだ。あれは魔術だよ』

『その方がいるなら、勝てるわよね』


 返事は明快だった。


『敵の陣地にいるんだ』


 私は深く絶望した。


『俺も近々、将兵として戦場に立つことになる。必ず生きて戻る。そして戦争が終わったら、その時はエウロペを迎えに行く』


 タウリからの最後の手紙の末尾。相変わらずの悪筆で、タウリは確かにこう書いたのだ。


「迎えに行くって、それ……」


 貴族の子女に対してのその言葉は、言葉通りの意味と通らない。誰も見ていないのに、私は顔を赤らめ、辺りを素早くうかがった。


『無事に帰ってきて。私も会いたい』


 返事が、タウリの元に届いたのかすら定かではなかった。

 タウリからその後手紙が来ることもなかった。

 代わって飛び込んできた報せ。お父様が死に、領地の、空気の澄んだあの素晴らしい高原地帯が焦土と化し、敵味方の死体が腐乱する現の地獄となったということ。


 箱入りのお嬢様であったお母様には、戦争未亡人となってしまったという事実があまりにも重たかった。


「学校を辞めて、家に戻りなさい」


 預かり知らぬところで手続きは済んでいた。鞄ひとつを伴って都の屋敷に戻った。

 屋敷に人の気配はなく、広さが却って当家の衰を伝えていた。あまりにも急だった。とっておきの茶葉がまだ残っていたのと言って、お母様が手ずからお茶を淹れてくれる。カモミールの匂いは本来心地を穏やかにしてくれるはずなのに、私たち母娘の間に香り立つのはただただ緊張のみだった。厳冬期の高原よりも空気の張り詰めた部屋で、私たちは暗い顔で話しをした。お母様の顔は幽鬼のようですらあった。


「再婚することにしたわ」


 沈鬱にお母様は言った。私たちが生きるためには、後ろ盾が必要だった。お母様より二十も上の成金貴族。妻だけでなく、側妻に妾にと多くの女性を侍らせている男。


「お母様お一人で」

「エウロペとフローレンスも一緒にとのことよ」


 欲の深い御仁だ。お母様と私と妹の三人をご所望らしい。


 カップから、茶の芳醇な湯気が二筋立ちのぼっていく。まだお互いに茶に手をつけていなかった。


「フローレンスはどちらですか」


 私の問いにお母様は押し黙る。私も黙ってお母様の答えを待っている。

 窄めた口からフッと溜息を吐いて、お母様は重い口を開いた。


「フローレンスは体調が優れないのよ。なにしろ、こんなことになっちゃったんだもの」

「ではお見舞いに」

「その必要はないわ」


 お母様は茶を一息に煽った。礼儀を果たすように、私も顔にカップを近付ける。カモミールの匂いに隠されて、刺激臭が微かに燻った。唇をカップに添えるに留める。飲むフリには気付いたのだろう。お母様は眼光鋭く私を一瞥した。私も素知らぬ体で、表情ひとつ変えなかった。


「一時間くらいかしら」


 お母様は言った。弱いくせに、変なところでお母様は胆力がある。


「あなたも楽になりなさい」

「無理心中ですか。お母様」

「あなたの為でもあるの。母として、妻として、わたくしは決めたのよ」


 目が血走っているのは、きっと毒の所為だ。きっと。私は唾を飲み込んだ。


「お母様。私は……信じているのです」

「信じる……? 何を……?」


 母の、呼吸の速度が上がっている。


「迎えを、です」


 私は言った。


「勇者は必ず迎えにきてくれますから」


 なんのことか分からなかっただろう。お母様は黙って目を閉じた。一時間もない。絶え絶えな呼吸もやがて完全に止まった。眠るようだった。その綺麗な顔に涙の川跡を見た。

 妹は自室にいて、ベッドに横になっていた。手向ける花の一輪も無かった。ただ手を合わせ、黙祷を捧げた。


 屋敷を去って数日。

 お母様と妹の死は、私が他殺したからだと結論付けられたようだ。

 剥がれ落ち風に舞う手配書を靴の裏に踏む。石畳と擦れて破ける音を聞く。

 きっと色狂の貴族様も私を望まない。ばかりか、まともな人間なら、私に関わりたくは無いはずだ。


 学友たちを訪ねようと、学校に戻ろうともした。タウリと野山で遊んでいた頃の、昔とった杵柄で、学校に忍び込むのは容易かった。植え込みに身を隠していると、ちょうど足音と、見知った声が聞こえてきた。


「聞きましたか? エウロペさんがお母様と妹のフローレンスさんを毒殺したそうですよ」

「聞きましたわ。実は、いつかこうなるのではと思っていましたの。化けの皮が剥がれましたわね」

「おとなしそうなのを装って、凶暴なお人柄だったのですね……。ああ、思い出すだけで総毛立ちますわ」


 音が遠ざかるまで、息を殺した。

 私は、学友を頼むのをやめた。


 人の気のない方へ向かう。昼間でも薄暗い路地からは、絶えず饐えたような悪臭がしていた。大義そうに骰子を振っている男たちの横をすり抜けざまに、腕を掴まれた。


「次はこいつを駆ける」

「あ゛あ゛? 女か」

「そうだ。上玉だろう?」

「夜鷹にしちゃは綺麗な女だな」


 物色するような陋劣な目に総毛立った。男の手を振り払って駆け逃げた。

 もうこの街にはいられない。疾く遠くへ。

 髪を刈り、喉を潰し、薬で顔を化膿させた。

 タウリが褒めてくれた歌だってもう歌えない。こんなにしゃがれた声では、いくら声を張っても眉を顰められるだけだ。


 街道を避けて街と街の間を抜け、夜毎物陰で浅く眠った。

 毎夜夢を見た。

 タウリと林野を駆ける夢。野苺を摘んで食べ合った夢。放牧の牛を追い回した夢。澄んだ池に二人泳いだ夢。庭先で歌を披露した夢。どれもこれも、輝かしい在りし日の思い出だった。目覚めても夢の内容は薄らいでくれなかった。







 


 





 勇者ならば、人を見殺しにしない。必ず手を差し伸べる。


 不意に、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 俺は野牛の群れに混ざって、林野を直走っているところだった。食べ物を求める母娘の声も、薬物に侵されてしまった男の最期も、野草を食い繋ぐ痩身の老人の絶望もすべて把握している。だが、彼らのために割いている時間は無かった。


 夜空が赤い。山火事のせいだ。

 もはやこの国は滅びの一途をたどっている。敵の侵攻は苛烈に勢いづいていて、止め処がない。


 二年前、隣国が戦争を仕掛けてきた。

 故郷は隣国と接していて、真っ先に戦火に晒された。

 風光明媚な土地だった。高原に点在する森林と湖沼。空気も水も旨い。観光にも療養にも適している。

 父親は貴族家の代官を勤めていた。貴族に準じ、貴族の威を借り、徴税や公共工事の指揮などを生業にしていたものだから、多少の怨恨を向けられることは当たり前だった。

 そんな事情で、俺には友達ができなかった。

 唯一できた友人が、父が仕える貴族の娘、エウロペだった。元々は療養に来たものだった。

 エウロペは歌の上手な女の子だった。


「歌手になれると思う」


 俺がそう褒めると、エウロペはいつも困ったような笑顔になった。今なら分かる。貴族の娘として生まれたエウロペは、貴族として生きる以外の人生を考えていなかったのだ。


「タウリは何になれると思う?」


 問われて、俺は悩んだ。自分の将来なんて考えたことがなかったから。


「俺は、勇者になりたい」

「勇者?」


 ようやく捻りだした答えは、まるでふざけているようだった。

 エウロペに勧められるままに、本を読みふけっていた所為だろうか。我ながら空想かぶれで突拍子もない。


「勇者っていうのは、ただ魔物を倒すんじゃない。困っている人にいつだって手を差し伸べる人なんだ」


 俺がそう言って、エウロペは何と返事をしたんだっけ。

 もう昔のことで、記憶も曖昧だ。


 戦争が始まってまもなく、領主──つまりエウロペのお父さんが軍装を整えて領地に入った。防衛のための軍を組織したのだ。


「無理に徴兵する必要はない」


 情勢を目にするなり、エウロペのお父さんはそう言った。


「義勇軍だけでいく」


 戦局がこちらに不利であることを一瞬で見て取ったのだろう。


「タウリくん。エウロペには悪い話は聞かせないでくれよ」

「……は? なんのことでしょうか?」

「誤魔化さなくていい。ずっと文通しているだろう?」


 口ごもる俺の肩に手を置いて、


「まだエウロペが小さい時分さ。ここに住みたい。離れたくないって大泣きしていたんだ。聞き分けのいい子だったからね。最初で最後の我儘と言ったところかな」


 ははは、と笑う領主の背中を見送った。


 代官の息子であった俺は、曲がりなりにも将官として前線に立つことが決まっていた。

 臭い立つ土と血。悍ましい気配が塊となって目の前に立ちはだかっていた。

 勇者がなんだ。脚が竦んで動けなかった。


「戦っても戦っても、兵士の数が減らないんだ」

「へえ」

「どうやら、敵に魔術師がいるらしい」

「魔術師?」

「嘘じゃない。捕虜が言っていたんだからよ。どんな怪我でも立ちどころに直してしまう医師だってよ」

「へえ」


 兵士たちの間で出回っている噂。どうやら事実らしかった。

 確かに怪我を負わせ、潰走させたはずの部隊が、三日後には再び襲ってくる。


 出立の前夜、エウロペから手紙が届いた。


『無事に帰ってきて。私も会いたい』


 奥手なエウロペにしては素直な感情の吐露だった。手紙は服に縫いこんだ。


 俺たちは必死に戦った。

 盾と槍を構えた歩兵が魔物のようにジリジリと攻めあがってくる。敵の弓矢が雨のように飛んでくる。

 目の前で胸に矢が刺さって倒れた兵卒がいる。弔う暇もなく、次の攻撃が仕掛けられてくる。悼む気持ちも霧散して、目の前で繰り広げられる戦闘のことにしか頭が働かなくなった。


 次第に、敵の潜む先や攻めの意図を察知できるようになっていった。

 誰がどこにいるか、分かるはずがない遠くまで、見ているかのように理解できた。

 だから、領境で俺たちが敵を食い止めている間に、大回りした連中が領都に攻め込んで町を火の海にしてしまったことも、いち早く知ることができた。

 戦いどころではなかった。

 夜陰に交じって撤退しようとして、敵軍の追撃に遭った。

 軍は壊滅した。


 俺は直走った。おおよそ都があるであろう方向へ。

 エウロペと合流するためだ。


 エウロペにさえ会えたなら、ふたりでどこか遠くの街へ逃げることができる。

 そう思った。


 隣国の侵攻は勢いを止まず、蝕むように国土を戦渦に巻き込んでいった。

 荒んだ空気の漂う町で、俺はエウロペが、殺人の容疑で手配されていることを知った。懸賞金もかけられていた。


 エウロペがそんなことをするはずがない。


 何かの間違いだと思った。

 誰よりも早く見つけ出さなければと思った。

 エウロペさえ見つけられるなら、俺自身はどうなっても良いと、心の底から思った。























 いくつもの川と山を越え、海を望む湿原に私はいた。海の向こうには島があって、その中心の街に聳える高塔は、昼も夜も問わず規則的に明滅するらしい。

 故郷の国を遠く離れ、やっと腰を落ち着けた村で、私は教会に拾われ、教師として子どもに読み書きや簡単な算術や教会の教義を教え始めていた。

 決して豊かとはいえない日々だった。たったひとりの修道女は袖の下に肥やしを溜め込んでいたし、何かにつけて私を中傷して愉しんでいた。本山から監察が入り、教会らしいことを何ひとつ為していないことを指摘されたらしい。私は実績作りのために教会に拾われたのだった。逃避行を始めてから十年は経っていた。

 毎日寝るところがあるだけでも、十年の中で最も平穏な日々と言って良いだろう。贅沢は言わないつもりだ。

 

 今日村はずれの湿原に赴いたのは、修道女から受けた折檻の痕を消毒する薬草を摘むためだった。早く戻らなければまた夕食が抜かれてしまう。手早く薬草を探した。

 貴族の箱入り娘だった私が薬草の知識を持っているのは、子どもの頃に散々の山を駆け回ったからだった。片時も忘れたことの無い名前を思い出して、呟いてみる。


「タウリ……」

「あいよ」


 返事が聞こえた気がした。

 幻聴がしたのは初めてのことだった。


「心が限界のサインなのかしら」


 ひとりごちて辺りを見回した。

 海風のそよぐ湿原には、背の高い草と花畑、そして花畑に身を屈める一頭の牛がいた。タウリとよく遊んだ放牧場に多くいた、ありふれた牛だ。──牛?


「やっと見つけた。エウロペ」

「──タウリ、なの?」


 おもむろに近付いてみる。牡牛だ。ぼろぼろの布切れを咥えている。服の着切れのようだった。二重に縫われているところを解いてみる。中から、これまたぼろぼろに変わった手紙が現れた。字に見覚えがあった。


『無事に帰ってきて。私も会いたい』


「……届いていたんだ」


 呆けて呟く。


「この通り無事とは言えないけど」


 自嘲するように牡牛──タウリは言って、背中に乗るように促した。


「しっかり掴まって。走るよ」

「走る? どこに連れて行く気なの?」

「他に誰もいないようなところかな」


 いつか聞いたような言葉だ。


「懐かしいわね」

「…………だろ?」


 涙声にはきっと気付かれてしまっていた。

 それでも知らないふりをしてくれていた。


 タウリの体温を直に感じる。

 呼吸するたび律動する背中も。


 夢ならば、このまま醒めないでいてほしいと、私は強く願った。 

 

 

 





 

お読みいただきありがとうございました。

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