35. コンパス
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、クラスメートでもある。
時々図書館に出没して、私を喜ばせてくれる。(いや、もちろん、彼は別に私を喜ばせようと思って出没しているわけではない)
「……では、今日はこれで終わりにしましょうか」
担任の倉内先生がそう言うと、学級委員の佐藤くんが号令をかけた。みんな起立してさよならの挨拶をする。
やっと帰りのホームルームが終わったのだ。
今日は連絡事項がたくさんあって、私はもう途中からじれったくて終わるのを今か今かと待っていた。なんなら、配布物を配る手伝いさえしたほどだ。
みんな、部活に行く者、カバンを持っていそいそと帰って行く者、思い思いの方向へ、ドタバタと散らばっていく。あっという間に、教室内の人口は減っていく。
その中で、私は1人、席に座ったままだ。
今、ちょっと動きたくないのだ。
すごくいいところなのだ。
あとほんの少しで、一つの勝負に決着がつく。この勝負の結果を見届けるまでは、部活にも行けない。
もちろん、この先にもまだまだ、いろんな勝負やヤマ場があるのはわかっている。
でも、あともう少しだけ読みたい。
今、私が見届けようとしているのは、将棋の勝負だ。
『覇王の譜』(橋本長道 著 新潮文庫)。
私は、将棋は全くやったことがない。駒の並べ方も動かし方も、何一つ知らない。
それなのに、この本を読んでいると、胸が熱くなって、作品の中にどっぷりとハマりこんでしまう。
正直、今日は一日ずっと頭の中に将棋盤と、その前に座っている棋士たちの姿が浮かんでいたので、授業はまったく入ってこなかった気がする。
かじりつくように本を読んで、
「はあ~」
一つの勝負を見届けた私は、やれやれとため息をつく。すごい。
ああ。自分もこんなふうに、自分だから描ける、迫力ある作品を書けたらいいなあ、そう思いながら、本を閉じる。
まだ続きはあるが、とりあえず、ここらで止めないと、うっかり部活にも行かず、そのまま最後まで読んでしまいそうだ。
立ち上がりながら、空色のブックカバーがかかった本をカバンに入れる。
ブックカバーは、前に琉生からもらったものだ。“冒険ねこ”という名前の可愛い子猫が、白い雲と青い空を見上げているデザインのものだ。
このカバーを見るたびに、胸にほっと灯りがともるような気持ちになる。琉生がくれた、そのことだけでも嬉しいのに、彼がどんな気持ちでこれを選んでくれたのか、あれこれ勝手に想像して、ドキドキしてしまうのだ。
実は、この本は、今朝、琉生が貸してくれた本だ。
「将棋界が舞台の小説、あるけど。読む?」
もちろん、読まない、なんてあり得ない。彼のおすすめだ。
私は、頭がもげるほど全力で首を縦に振る。
そんな私を見て、
「ほんとに、織田さんは、本が好きだね」
琉生は、楽しそうにふふっと笑って、この本を手渡してくれたのだ。
もちろん、本は好きだが。
それだけじゃない、ことは、言うまでもない。……ってか、彼には言えない。
図書館のカウンターでの時間はなくなったけど、時々、本を貸し合うことはささやかながら復活した。
倉内先生提案の、自己紹介&本の紹介をやったおかげで、クラスの中に、みんなが本を貸し合う雰囲気が自然に生まれている。おかげで、あまり人目を気にせず、私も琉生と本を貸し合えるのだ。
すごくありがたい。
琉生から本を受け取ったとき、私も交換のように読み終わったばかりの本を1冊、彼に手渡した。
『「おかえり」と言える、その日まで 山岳遭難捜索の現場から』(中村富士美 著 新潮文庫)。
山で行方不明になった人たちを、いかにして発見してきたか、実際の話が書かれている。行方不明になった人の性格や行動パターンなどをプロファイリングによって分析し、足取りを辿って捜索する。それでも、山で行方不明になったひとを発見することは非常に難しい。ちょっとした山歩きのはずだったのに、帰ってこないその人を必死の思いで待つ家族。熱心に行方を捜す捜索隊の姿。読んでいてつらすぎて何度も泣きそうになった。
そして、もしも、山で道に迷ったら、どう行動すればいいのか。例えば、『迷ったときは、下るのではなく、とにかく登る』とか。山岳救助隊をお願いしたときにかかる費用とか。勉強になることもいろいろ書かれていた。
空色のブックカバーをはずして、その本を琉生に渡したとき、
「あ。それ、使ってくれてるんだ」
琉生がにっこりと笑った。
「うん! もちろん、フル稼働! ありがとう」
私が、彼から受け取った『覇王の譜』にブックカバーを付け替え、顔の前に掲げると、
「よかったよ。お役に立てて」
琉生が、滲むようにほほ笑んだ。目がとても優しい。
その笑顔を見ると、何かを言おうとしても、脳みそごと言葉がとろけていくようで、何も出てこなくなる。
「あ。うん。ありがとう」
そう言うのがやっとだ。……幸せすぎて。
とろけている私のそばで、琉生は、裏表紙にある本の紹介文にじっと目を通している。
私は、琉生に、
「あのね、読んでると、つらすぎて泣きそうになるかもしれへん。せやから、撮影の出番直前とかは、読まへん方がいいかも」
そう言った。
「わかった。気をつける」
琉生は、神妙な顔で、その本を受け取り、カバンに入れていた。
琉生と想太は、仕事が入って、5時間目が終わると同時くらいに帰って行ったので、もう教室にはいない。
でも、私の手の中には、彼が面白くて夢中で読んだという本がある。
そして、その本は、今、私をも夢中にさせてくれている。
嬉しい。これを幸せと呼ばずして、何と呼ぶ。
本が好きでよかったな。
しみじみ思う。
本が、琉生と自分をつないでくれる。
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、クラスメートでもある。
時々、彼は私と本の貸し合いっこをする。
お互いの貸し合った本は、相手の思考や気持ちを辿るための、コンパスにもなる気がする。
教室の入り口から、声がした。
「部活、行かないの?」
「あ。芭蕉くん」
スポーツフェスティバルで、松尾芭蕉に扮することが決まって以来、隣のクラスの松尾くんは、部内では、『芭蕉くん』と呼ばれている。
「待って。その配役、スポフェス終わるまで、トップシークレットやから」
松尾くんが、口の前に指を立て、し~っのポーズをする。
「あ、そうやった。ごめんごめん」
「そばに誰もいなくてよかったよ。納言は、うっかりさんなとこあるからな。気をつけて」
『納言』とは私のことだが、松尾くんはさりげなく、ちょっと失礼なことを言う。
「……そういう自分こそ、納言って言うてるやん」
「あ……」
「どっちがうっかりさんや~」
私たちは、笑いながら教室をあとにした。




