はじめての二度寝
「おはようございます、ご主人様。
七時でございます」
ベッドを囲むカーテンの向こうからかかった静かな声が、意識を揺らします。
「……おはよう」
ゆっくりと体を起こすと、カーテンを開けたメイドがわたくしの肩にガウンを掛け、布団をめくります。
足をおろして、きちんとそろえて置かれていたスリッパを履いて立ちあがり、ガウンに袖を通すと、メイドがガウンの前をさっと閉じて腰のベルトを結びました。
お手洗いに行って戻ってきて、ゆったりと歩いて窓際のテーブルに行くと、テーブルの横で待っていたメイドが引いた椅子に座ります。
メイドはテーブルの横に戻ると、ポットから厚手のカップに白湯をそそぎ、わたくしの前に置きました。
わたくしがカップを取って少しずつゆっくりと飲んでいる間、背後に回ったメイドは、わたくしの髪に丁寧にブラシを掛けます。
白湯を飲み干してカップを置くと、メイドがブラシをエプロンのポケットに入れて、テーブルの横に戻ります。
おかわりを淹れているメイドの顔を見て、初めて彼女がわたくしの部屋付きメイドではないことに気づきました。
寝起きは少しぼんやりしてしまうことと、あまりにもいつも通りの手順だったせいで、気づくのが遅れたようです。
整っているのに感情が見えない人形のような無機質さの、このメイドは。
「…………メイ」
「はい、なんでしょうかご主人様」
メイはカップをわたくしの前に置くと、メイド長の厳しい指導を受けた熟練メイドのような美しい姿勢で立ちます。
どうやら、昨夜のことは夢ではなかったようです。
「……どうして、わたくし付きのメイドと同じことができるのかしら」
「女神様がご主人様の魂を確保なさった際に、ご主人様の記憶を全てご覧になられ、従者となった私にその情報を全て与えてくださったからです」
「……そう」
記憶を与えられたから同じことができるというのは不思議ですが、そもそも彼女は女神様の従者ですから、人間と同じように考えてはいけないのでしょう。
「そろそろ朝食のお時間ですが、いかがなさいますか」
「……食べるわ」
「御用意はどちらにいたしましょう」
「ここで」
「かしこまりました」
一礼したメイは静かに部屋を出ていき、すぐにサービスワゴンを押しながら戻ってきました。
わたくしの前に、厚切りトースト、プレーンオムレツ、スープ、野菜サラダ、季節の果物、ヨーグルトが並べられていきます。
以前わたくしが食べていたものと、全く同じです。
わたくし付きの使用人は数人で仕事を分担していましたし、食事は本館の厨房で用意していたはずですが、メイ一人でなんとかなるようです。
さすがは女神様の従者です。
「御用意が整いました」
「ありがとう」
一礼したメイは、壁際まで下がってひかえました。
ゆっくり時間をかけて朝食を食べながら、考えを巡らせます。
昨夜の出来事は、あまりにも不可解なことばかりでした。
婚約者と浮気相手との騒動に巻きこまれて命を落としたのは不運でしたが、その後女神様に転生させてもらったのは幸運、なのでしょうか。
婚約者の計一郎さんにとっては、間違いなく不運なことでしょう。
計一郎さんと婚約して以来、いくつもトラブルがありましたが、今回のことは文字通り致命的でした。
計一郎さんは、わたくしを犠牲にして自分だけは助かろうとしたのです。
それはわたくしを、そしてわたくしの家を軽んじたことになります。
父は決して敬一郎さんを許さないでしょう。
計一郎さんは自分の都合の良いように話すでしょうが、ドアマンが一部始終を見聞きしていました。
あのレストランはわたくしの家の系列ですから、ドアマンから店長へ、店長から父へと、正確な情報が伝わるでしょう。
おそらく法的には罪に問われないでしょうが、それ以外のあらゆる場面で、彼と彼の家の将来は暗いものになるでしょう。
計一郎さんのせいで死ぬことになったことに、恨みは特に感じません。
父が確実に報復するでしょうし、女神様に申し上げたように、敬一郎さんの世話から解放されたことに、内心安堵しているのです。
計一郎さんの家は、わたくしの家より家格は下ですが、祖父母の世代から友好的なつきあいがあり、わたくし達が幼い頃に、家のつながりを深めるために婚約が決まりました。
単に同じ年に生まれたというだけで選ばれた相手でしたから、知り合いとして以上の好意は持てなかったものの、婚約者として接してきました。
二十五歳になったら結婚する予定ですが、最近それが少し憂鬱になってきていました。
計一郎さんは、家格にふさわしい教育を受けてきたはずなのに、なにげない瞬間に素の感情を見せる迂闊さが、いまだに直らないのです。
上流階級とは、見た目の優雅さの裏で駆け引きが常に行われ、一瞬の隙が命取りになります。
社交に参加するようになる時点で、最低でも自分の感情を完璧に制御できるようになっていなければなりません。
なのに計一郎さんは、厳しい教育を嫌がり、彼を溺愛する祖母がそれを許したせいで、愛想は良いものの隙だらけのまま大人になってしまいました。
先月行われた、わたくし達の成人祝いとして両家そろった食事会の席でも、その小さな、けれど致命的な隙を何度も見せていました。
久しぶりに会った計一郎さんの弟は、高校一年生なのに兄よりもしっかりした態度でしたから、教育の差ではなく彼個人の資質なのでしょう。
翌日のお母様とのお茶会でさりげなく話題にしてみたところ、『結婚してから貴女が教育すればいいでしょう』と言われました。
わたしくは、家の道具として育てられました。
お父様が計一郎さんの家とのつながりを維持したいとお考えなら、わたくしは計一郎さんをつなぎとめておかなくてはなりません。
そういう意味では、計一郎さんの隙の多さは助かりますが、結婚前から彼がしでかしたことの後始末をしなければならないのは、面倒なことでした。
その面倒さから解放してくれたうえに、家との縁も切らせてくれて、結果的に第二の人生まで与えてくれたのですから、あの女性には感謝しています。
ですが、その第二の人生は、気楽なだけでは済まないようです。
カトラリーを置くと、すっとメイが近寄ってきました。
「お下げしてよろしいでしょうか」
「ええ」
「かしこまりました」
食器類をサービルワゴンに載せたメイは部屋を出ていき、すぐに戻ってきます。
持っていたトレイをテーブルに置き、カップに紅茶をそそいで、わたくしの前に置きました。
その様子を見ていて、ふと気になりました。
メイが人間よりはるかに有能で、料理も上手だとしても、食材や食器などの素材がなければ食事の用意はできないはずです。
昨夜は考えることを放棄してしまったいくつかのことも、確認しなければなりません。
「どうぞ」
「ありがとう。
いくつか質問してもいいかしら」
カップを取りあげながら言うと、下がろうとしていたメイはテーブルの脇ですっと姿勢を正しました。
「はい、なんでしょうかご主人様」
「ゆうべ、あなたはここを、わたくしの住まいを女神様がコピーしたものだと言ったわね」
「はい」
「わたくしの家は、家族が集まる本館と、家族それぞれが住む棟に分かれていたのだけれど、他の棟もあるのかしら」
「いえ、ご主人様の棟と、付随する庭だけでございます」
「では、さきほどの朝食はどこで作ったの?
この棟にあるキッチンは、お茶を淹れる程度しかできないはずよ」
「私のスキル【物質創造】で御用意いたしました」
「スキル……?」
どこかで聞いたような単語に首をかしげると、メイは淡々と答えます。
「はい。
女神様から、ご主人様はラノベ系知識がなかったので与えておいたとうかがっております。
久しぶりに会った知り合いの名前を思いだそうとするように、スキルとは何かと考えてみてください」
「……ええ」
言われた通りにしてみると、確かに意味が記憶の底から浮かびあがってきました。
「スキルとは、便利なものなのね」
「はい。
ご主人様も女神様からいくつか授けられてらっしゃいますので、基本的な使い方を学んでおかれることを推奨いたします」
「……そういえば、女神様が何かおっしゃっていたわね。
でもわたくし、あの時点ではよく意味がわからなかったの。
あなたは、あの時女神様がおっしゃっていたことも知っているのかしら」
「はい。
【書記】スキルで紙に書き写してお見せいたしましょうか」
「……お願い」
「かしこまりました」
メイが片手でトレイを支えるように手の平を上にすると、淡い光とともにそこにA4サイズほどの白い紙が現れ、さらにその表面に字が勝手に書かれていきます。
「どうぞ」
「ありがとう」
さしだされた紙には、印刷物のようなそろった文字で、あの白い靄のような空間でかわしたわたくしと女神様の会話が記されていました。
紙を作ったのが【物質創造】、字を書いたのが【書記】スキルなのでしょう。
じっくりと三回読み返してから、内心ため息をつきました。
ラノベ系知識と照合すると、女神様がおっしゃる通りの特別待遇での転生のようです。
それだけ期待されているならば、その期待に見合う何かを為すべきなのでしょう。
ですがわたくしは、ラノベ系知識やスキルを得たとしても、ラノベ系の行動をしたいとは思わないのです。
「……女神様にお会いすることは、可能かしら」
「私は本体と繋がっておりますので、連絡は可能ですが、ご主人様のスキルやステータスの変更はできないでしょう」
「……どうして?」
「女神リンネ様は、転生を司る神であらせられます。
転生の為なら相応の御力を行使できますが、転生後の干渉は基本的にはできません」
「…………基本的じゃないのは、どういう場合かしら」
「ご主人様のように女神様の祝福を受け、神の愛し子となられた方であれば、その繋がりを利用して転生後の様子を観察なさったり、訪ねたりすることが可能です」
思わず手に持ったままの紙に視線を落とします。
その中に【祝福】という言葉が、確かにありました。
「わたくしは、女神様の愛し子なのよね」
「はい」
「……これほどの特別待遇で転生させていただいたことには、感謝しているわ。
でもわたくしは、その待遇にふさわしいほどの活躍をする気がないし、できるとも思えないわ」
そもそも、わたくしが望んだのは『穏やかで静かな暮らし』だったのに、なぜこうなってしまったのかわかりません。
ある意味、両親から受けていたよりも過剰な期待ではないでしょうか。
「活躍をする必要はないと思われます」
「……え?」
相変わらず淡々としたメイの言葉が理解できず、軽く首をかしげました。
「女神様のお望みは、ご主人様が転生ライフを楽しむことです。
ご主人様が楽しんでおられるなら、それで問題ないと思われます」
「今日が二日目だから、まだ楽しむほど実感できていないけれど……。
…………つまり、わたくしは、女神様の為に何もしなくていいの?」
「はい」
悩んだ末の問いかけに、メイは淡々とうなずきました。
「ご主人様がなさりたいことをなさっていれば、女神様のご要望に添うことになると思われます」
「…………そう」
肩の力が抜けて、ゆっくりと背もたれに寄りかかりました。
わたくしの考えすぎだったようです。
そういえば、あの御方は転生を司る女神様なのですから、転生した時点で女神様のお望みを叶えたことになるのかもしれません。
安堵の息をつきながら、ゆっくりと紅茶を味わいます。
飲み干したカップを置いて、ふと窓の外を見ました。
レースのカーテン越しに、庭が見えています。
……わたくしが、したいこと。
昨夜から外に一歩も出ていませんし、そもそもここがどこなのか、知るべきことはいくつもあるでしょう。
ですが、今、わたくしがしたいことは。
「……わたくし、二度寝をしてみたいわ」
前世では分刻みでスケジュールが決められていましたから、二度寝など許されませんでした。
ですが、この後やるべきことは何もありません。
ならば、したいことをしていいのではないでしょうか。
「かしこまりました」
淡々とうなずいたメイは、すっとわたくしの背後に回りました。
椅子を引かれて立ちあがり、ベッドに近寄ります。
ベッドの横で止まると、メイが腰のベルトをほどき、ガウンを脱がせました。
スリッパを脱ぎ、ベッドに上がって横たわると、メイが布団を掛けます。
「私はリビングにひかえておりますので、御用がありましたらお呼びください」
「ええ、ありがとう」
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
起きてからまだ一時間も経っていないのに、目を閉じるとゆるやかな眠気が訪れます。
起きる時間を気にすることなく、好きなだけ眠れるとは、なんと贅沢なことでしょう。
微笑んだまま、眠りに落ちてゆきました。