前途多難のラブコメ
遠神と登校を始めて、およそ20分が経過した。
現在俺たちはというと、電車の中で二人並んで吊革に掴まっていた。
朝の上り電車なので、通勤通学ラッシュで車内はそれなりに混んでいる。
体を縮こまらせなければならない程のすし詰め状態ではないが、隣に立っている乗客と肩が触れ合ってしまうくらいには混雑していた。
当然俺の隣に立っているのは、遠神なわけで。電車が速度を落とす度にぎゅーっと肩を押し付けられて、密着して。彼女の体温と女の子特有の柔らかさを直に感じてしまう。ドキドキしてますけど、何か?
そんな心の乱れを周囲に悟られないようポーカーフェイスを保ち続けながら、俺は空いている方の手で遠神の肩を押し返した。
「おい、くっつきすぎだ。もうちょっと離れろよ」
「無茶を言わないでください。混んでいるんですから、多少の接触は仕方ないでしょう」
遠神の指摘は予言だったのだろうか? タイミングを図ったように電車が急ブレーキをかけた。
キキーッと耳に突き刺さるような音を立てながら電車が止まると、慣性の法則の影響で、乗客の体は進行方向とは逆の方向に強く引っ張られる。
遠神の軽い体は、その影響を強く受けてしまった。
「きゃっ!」
軽い悲鳴を上げた遠神が、体勢を崩す。
「危ない!」
転びそうになる遠神の体を支えようと、俺は咄嗟に手を伸ばす。すると……まぁ、お決まりですよね。ラブコメだったら、普通そういう展開になりますよね。俺の左手が、彼女の貧相な右乳に触れた。
『……』
電車が止まる。俺たちの思考も止まる。ついでに言えば、時が止まったようにも思えた。
そんな静寂をぶち壊すように、運転士が「停止信号が出た為~」とアナウンスして、乗客に急停車の理由を説明する。
見た目以上に柔らかな感触を左手で堪能しながら、俺は思った。停止信号を出したの、絶対ラブコメの神様だろ。
「あの……」
「……わざとじゃありません」
遠神が何か言い出す前に、俺は身の潔白を主張する。
悪いのは急に停車した電車と、このシチュエーションを作り出したラブコメの神様だ。
「わかってますから、早く手を退けて下さい」
「はい、ごめんなさい」
本来なら、保身よりも謝罪の言葉をいの一番に口にするべきだった。
反省しながら、俺は遠神の胸部から手を離す。左手に残る感触は、当分消えそうにない。
「不可抗力なんです。怒っていませんよ」
怒ってはいなくとも、恥ずかしさはあるのだろう。遠神は顔を真っ赤にしながら、胸部を腕で隠した。
そんな表情をされると、こちらにまで恥ずかしさが伝染してしまう。遠神の顔を、直視出来ない。
電車が動き出す。速度の緩急は相変わらず不自然なくらい激しい。
運転士は本当に免許を持っているのかよ? などと、あり得ない疑念を抱いてしまいたくなる。
一緒に登校するのは今日だけだからと思っていたけれど、これは到底安心出来ないな。今日だけだと決めているからこそ、ラブコメの神様はフラグになり得るイベントを詰め込んできてやがる。
マンションではエレベーターを降りるなり管理人さんに「真澄さん、ようやく彼女が出来たのかい?」と勘違いされるし、駅までの道中では小学生のクソガキ共に「カップルだー! やーい、ラブラブー!」と揶揄されるし。駅のロータリーでは、リードに繋がれた猛犬に吠えられた遠神が、驚きのあまり俺に抱きついてきた。
そして極めつけは、先程のパイタッチ。一話完結のラブコメ漫画だって、ここまでイベントを詰め込まないぞ。
登校はやっと折り返し地点。まだ半分残されている。俺は警戒心を最大限まで高めた。
「真澄くん、真澄くん」
何やら遠神が俺の名前を連呼しているが、例の如く聞こえないフリをする。
「あの、真澄くん。聞こえていないんですか?」
そうですとも。あーあー。何も聞こえない。
「……さっき私のおっぱいを触った痴漢少年Mくん」
「ちょっと待てや誰が痴漢少年だコラ。あれは不可抗力だって、お前が言ったんじゃねーか」
…………あっ。
「……やっぱり聞こえているじゃないですか」
遠神がジトーッと、非難の視線を注いでくる。
シカトを決め込むつもりが、痴漢扱いされて思わず言い返してしまった。
「悪いな。音楽を聴いていたから、今の今まで呼ばれていることに気付かなかったんだ」
「そういう嘘は、せめてイヤホンを付けてからついて下さい。……電車に乗ってもう10分近く経ちますし、そろそろ話し合いをしようと思うのですが」
「……そうだな」
フラグの猛攻で失念していたが、そもそも遠神と今後の計画を練る為にリスクを冒してまで一緒に登校しているんだった。
方向性すら決まらなかったとなると、また明日も一緒に登校する羽目になる。
また明日もマンションの管理人さんや小学生たちにからかわれたり、ラッキースケベを量産する羽目になる。もしかしたら、それ以上のことが起こるかもしれない。そんなのはゴメンだ。
「では早速……」
「……と、その前に」
俺は遠神に制止をかける。
「圭一をどうやって落とすのか? そのことについて話し合う前に、念の為目標を確認しておかないか?」
俺たちは今、森峰高校という同じ目的地に向かっているからこうして一緒に登校している。もしどちらか一方が違う高校の生徒だったり、サボってゲーセンに行こうとしていたら、一緒に登校という構図は成り立たない。
それはこの計画においても同じことで。
目指す場所が異なっていては、どんなに優れた計画を立案しても上手く事が運ぶ筈もない。
「この件のゴールって、何だと思う?」
「私と日高くんが付き合うこと。言い換えれば、日高くんに私を好きになって貰うこと。ですよね?」
「俺も同じ認識だ」
動機こそ違えど、目標に相違はない。そのことを確認して、俺たちは本題に移った。
「それでは日高くんに好きになって貰う方法を考えましょう。突然ですけど、私恋愛って商品開発に類似した部分があると思うんです」
本当に突然だな。
商品開発とか言われると、高校生の恋愛が何やら小難しい学問のように思えてくる。
それって、経営学の範囲だろ? 華さんの持っている参考書で、似たような名前のものを見たことがある。
高校の勉強すら危うい俺に、そんな高度な知識があるはずもない。助っ人として、華さんを呼んでこようかな。
いや、決して華さんと話したいわけじゃないよ。下心なんて、これっぽっちもないんだからねっ!
「去年大学のオープンキャンパスに行った際、経営学部の模擬講義を受けたのですが、その時の講義内容がマーケティング理論だったんです。「数ある類似商品の中から唯一無二として自社商品を選んで貰う為には、消費者のニーズに応える必要があります。消費者の求めているものを理解し、より忠実に提供する。それこそがマーケティングの鉄則です」。講義を担当した教授は、そう言っていました」
「恋愛にも、そのマーケティングの鉄則が当てはまると?」
「ザッツライト」
大正解と言わんばかりにフィンガースナップを試みる遠神だが、指の腹と指の腹がこすれるだけで音は鳴らなかった。
格好付けようとしてのスカって、案外恥ずかしいものだよな。遠神の顔が、羞恥でどんどん赤くなっていった。
「とにかく!」
仕切り直すように、遠神は一度咳払いをする。
「この世に女の子はごまんといます。森峰高校の中だけに限ったって、決して少ないとは言えない数です。その中でたった一人の特別な女の子になる為には、相手の求める女の子になることは必至」
「つまり!」と、遠神は語気を強める。
そしてさもそれがただ一つの真実であるかのように、人差し指をピンと立てた。
「日高くんの理想の女の子に近づくことこそ、目的達成への一番の近道なのだと私は考えているわけですよ」
「ふむふむ、成る程。ただその方法だと、圭一の好みを正確に把握していることが大前提になってくるぞ」
圭一の好みとはまるでかけ離れた人物像を演じてみろ。哀れだ。道化師以外の何者でもない。
されど遠神は学年首席の秀才。その辺も織り込み済みだった。
「おっしゃるとおり。ですからその為の真澄くんです」
そう言って、遠神は俺を指差す。
「日高くんの親友である真澄くんなら、彼の好みについて何か知っているんじゃありませんか? 男子だって、恋バナくらいするでしょう?」
「そりゃあ、まあ」
やれ誰のことが好きだにとどまらず、誰の乳を揉みたいだの誰とヤりたいだの結構ぶっちゃけたトークだってしている。主に童貞非モテ男子。
「会話の中で、何か情報が出てきませんでしたか? 髪の長い人が好きだとか、気の強い人が好きだとか。どんなに些細なことでも良いんです。思い出して下さい」
遠神に頼まれて、俺は圭一と恋バナをしたときのことを思い出す。
圭一と親友になって、一年とちょっと。あいつと互いの恋愛に対する価値観を語り合った回数は、指折りで数えられる程度では済まない。二十、三十……いや、小便をしながらの他愛ない雑談なんかも含めたら、もっと沢山だろう。
だから圭一は、俺がどれだけ華さんを想っていたのかも知っているし、失恋後アンチ恋愛に転換したのも熟知しているわけで。
圭一との会話の全てを思い出すことは不可能。だけど親友の好みくらいは、きちんと記憶に残っているさ。
そう、記憶に………………って、あれ?
「そういや俺の恋愛相談に乗って貰ったことは何度もあるけど、その逆はなかったな」
俺の恋愛相談といっても、ここ最近はラブコメなんかしたくないという愚痴ばかりで、その都度圭一は呆れていたわけだが。
圭一とて、女に興味がないわけじゃない。その場のノリで「彼女欲しいよね」と口にしたことはある。
だけど、そこまで。
好みのタイプも具体的な名前も、圭一の口から一切出たことがなかった。
「まさか……不能?」
「親友の沽券の為に訂正しておくが、それは断じてない。あいつは部活一筋というか、今は野球が恋人みたいな感じなんだよ」
そうやって目標に向かって一心不乱に突き進んでいるところも、圭一の魅力なのだろう。同性の俺から見ても、格好良く思えてしまう。
「親友を豪語しておきながら、使えないですね。……チッ」
それまでの丁寧な口調と落ち着いた佇まいからは想像できないような暴言と舌打ちが、遠神の口から飛び出す。俺は思わず己の耳を疑ってしまった。
「おい、今舌打ちしたろ?」
「してません」
「でも、思いっきり音が……」
「だからしていませんって。物証もないのに、決め付けないで下さい」
現行犯なので証拠もクソもないのだが、遠神は「レディーは舌打ちをしません」の一点張りで頑なに認めようとしなかった。
まぁ、遠神が舌打ちをしたのかしていないのかなんて、さして重要じゃない。
お腹の鳴る音やすかしっ屁のように、舌打ちもまた男子に知られたくない乙女の秘め事なのだろう。真偽の程はわからないが、そういうことで自己完結しておく。
「現時点で情報がないなら、仕入れてきて下さい。日高くんの好みをさり気なく聞き出すことくらい、造作もないことですよね?」
「簡単とは言い難いが、不可能じゃないな」
手伝うと言った以上、俺には遠神の要望と期待に応える義務がある。自分のことをあまり話したがらない圭一から本音を聞き出すのは至難の業だけど、やるだけやってみるとしよう。
何より、俺がラブコメ主人公にならない為にも。
「ていうか、俺が聞き出しちゃって良いのか? 遠神が直接聞くことで、一種のアピールになると思うんだが?」
男とは、かなり単純な生き物である。
好みのタイプを聞かれただけで、「あれ? もしかしてこいつ、俺のこと好きなんじゃね?」と勘違いしてしまう。そしてそんな自意識過剰から発展する恋だってあるのだ。
「そんな中途半端なアピールをするくらいなら、いっそ告白してしまいますよ」
それもそうか。
「いいですか。もう一度言いますが、さり気なくですよ。間違っても、私の名前を出したりしないで下さいね」
「わかってる。そんなヘマはしないっての」
俺が圭一の好みを聞き出し、それを参考にして遠神が圭一の理想の女性を目指す。大まかではあるが、今後の方針が固まった。
遠神の努力に寄るところが大きいとは思うが、遅くとも夏休み前までには交際をスタートさせて、一度きりの高二の夏を二人で満喫して貰いたいものだ。そして俺は一ヶ月以上ある夏休みを、至極平和に過ごしていく。
うん。想像するだけで、今から胸が躍って……
――キキィッ!
本日二度目の急ブレーキ。同時に二度目のパイタッチ。
ラブコメの神様、お願いですから、もう邪魔をしないで貰えないですかね?