フラグはへし折る為にある
築20年の五階建てマンション。このマンションの三階角部屋である308号室が、俺の家だ。
「ただいまー」
玄関の中に入るなり声に出してみるも、「おかえり」という返事はない。308号室には現在、俺以外誰も住んでいないのだ。
2LDKの部屋にたった一人。寂しさを全く感じないわけではないけれど、誰にも縛られず羽を伸ばせる一人暮らしを俺は案外気に入っている。
リビングに制服を脱ぎ捨てて、朝までそのまま放置なんていう怠惰が許されるのも、一人暮らしだからこそだ。
通気性を良くするべくワイシャツのボタンを上から二つ目まで開けて、下は動きやすいジャージに履き替える。
中学時代のジャージだ。機能性が高い上に丈夫なものだから、重宝している。
居眠りすることのないようブラックのアイスコーヒーをグラスに並々注いだ後で、有言実行、圭一に宣言した通りテスト勉強を始めた。
◇
それから時が経つこと二時間。
時刻は七時を少し回ったあたり。丁度良い頃合いだったので、ここいらで休憩も兼ねて入浴と夕食にすることにした。
俺は入浴の前に食事を済ませるタイプだ。子供の頃からの習慣なので、この順序を変えると、どうにも寝付きが悪くなってしまう。
今夜もいつものように先に食事を取ることにして、冷蔵庫の中の食材を確認していると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
「宅配便か?」
通販を頼んだ覚えはない。となると、海外で単身赴任している母さんが、現地で見つけた面白グッズでも送って来たのだろうか?
俺は冷蔵庫の扉を閉める。
そして『真澄』と印字されたシャチハタを片手に、玄関へ向かった。
「はいはーい。今行きますよー」
ドアを開けると、玄関の外にいたのはーー
「えっ? 遠神?」
この度はれて俺の隣席となった危険度Sランクのフラグメイカー、遠神爽香だった。
この時の遠神の服装は、制服ではなく白のワンピース。一度家に帰ってわざわざ着替えてから俺を訪ねてくるなんて、余程大切な用事でもあるんだろうか?
実は俺の下校後、追加で配布されたプリントがあり、遠神は隣人としてそれを届けに来てくれた。ラブコメの神様なら、その程度のイベントを計画してもおかしくないけれど……その場合、わざわざ制服から私服に着替えた理由がない。よってこの推理は却下。
他に考えられる可能性は……。
推理するにも、情報が少な過ぎる。俺は遠神の表情や行動を注視しながら、彼女の次の言葉を待った。
「真澄くん? 真澄くんって、ここに住んでいるんですか?」
308号室から出てきた俺をを見て、遠神は驚いている。
どうやら遠神は、ここが俺の部屋だと知らなかったらしい。つまり俺にではなく、この部屋に用があったということだ。
「あぁ、そうだ。生まれた時から、俺の家はここだぞ」
「それはそれは、驚きました。この度隣に住むことになったので、ご挨拶をと思い訪ねたら、まさか真澄くんが出てくるなんて」
……ん? 隣に越してきた?
「遠神、ちょっとすまん」
俺は遠神に退いてもらうと、一度308号室の外に出て、隣室の表札を確認した。
昨日まで空室だった307号室。その表札には……確かに『遠神』と書いてある。
「おいおい、マジかよ……」
隣室がずっと空室であるわけない。いつかは住人が入ってくると思っていたが、まさかそれが遠神だなんて……。世間とは、案外狭いものだ。
「改めまして。隣に越して来た、遠神爽香です。よろしくお願いします」
「あっ、これはご丁寧にどうも。真澄真紘です」
「あとこちら、つまらないものですが」
遠神は持っていた正方形のケーキ箱を俺に差し出す。
「ありがとうございます」
知己ということなど微塵も感じさせず、余所余所しく形式的な挨拶を交わす俺と遠神。元々よく喋るような間柄じゃないこともあり、会話はすぐに途切れてしまって。
『……』
うん、とっても気まずい空気!
玄関先で二人の高校生が黙ったまま硬直しているなんて、はたから見たら奇妙な光景だ。かといって、「もう用事は済んだだろ?」と追い返すのもどうかと思うし……。
「……取り敢えず、上がってくか?」
沈黙に耐えかねて、気づくとそんな提案をしていた。
「良いんですか?」
美少女を家に上げるとか、ぶっちゃけ全然良くないけども! 自分の発言には、責任を持たなければならない。
今更ダメとは言えないだろう。
「茶くらいしか出すものはないけど、それでも良ければ」
遠神は少し考えた後で、
「お邪魔します」
女の子を家に入れる機会なんて、滅多にあるものじゃない。
そりゃあ華さんなんかは度々足を運んでくれるわけだけど、彼女は決して恋愛関係に発展しない幼馴染み。こういう場合で「女の子」と位置付けるのは何か違う。
だから正直、遠神みたいな普通のクラスメイトが我が家の敷居を跨ぐ展開を予想していなかった。
俺は遠神をリビングに案内する。
脱ぎ捨ててあった制服は、咄嗟に自室の中に放り投げておいた。
「ソファーにでも座って、適当にくつろいでいてくれ」
遠神に告げた後、キッチンへ向かい、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。
「コーヒーと紅茶、どっちが良い?」
「紅茶で。あっ、砂糖もお願いします」
「はいよ」
お湯が沸くのを待っている間に、先程遠神から受け取ったケーキ箱を開く。言うまでもなく、中身はケーキだった。
苺や桃といった数種類のフルーツをふんだんに使った、四号サイズのホールケーキ。
とても美味しそうだ。それは認める。だが……これを一人で平らげるのは、ちょっと厳しい。
「よし、遠神にも少し手伝って貰おう」
食べ切れず捨ててしまうより、ずっとマシだろう。
ケーキを六等分に切り分けて、その内の二切れをそれぞれ小皿に移す。
お湯が沸いたので、紅茶も淹れた。
ケーキ皿とティーカップ、それぞれ二人分をお盆の上に乗せて。俺が遠神の待つリビングに戻ると、彼女は何かを探すようにキョロキョロしていた。
「お待たせ。……って、どうかしたのか?」
「男の子の家に来たので、エッチな本を探してました」などと抜かしたら、即刻追い出してやる。
「あっ、真澄くん。いえ、ご両親の姿が見えないなと思いまして。お二人とも、お仕事ですか?」
探していたのは、エロ本じゃなくて俺の親だったか。
遠神は引っ越しの挨拶をする為に、うちを訪ねて来た。俺だけでなく、俺の親に挨拶をしたいと考えるのはごく自然だ。
「うちは母子家庭で、父親はいないんだ。母さんも海外で単身赴任中。だから今は実質一人暮らしみたいなものなんだよ」
ケーキ皿とティーカップを遠神の前に置きながら、俺は答える。
「そうだったんですか。真澄くんって、私と似たような境遇だったんですね」
「遠神のうちも、あまり親が帰って来ないのか?」
「両親とも多忙の身でして。父も母も職場の近くに部屋を借りていて、大体そこで寝泊まりしています。一週間に一回帰って来れたら良い方ですね」
「因みに、お父さんとお母さんは何の仕事をしているんだ?」
「父は研究者で、母は雑誌の編集長です。勤務先は確か……」
遠神の口から出てきたのは、ニュースでよく聞く研究所と業界最大手の出版社の名前だった。
「忙しい親を持つと苦労するな。お互いに」
「それでも毎晩電話をくれるんで、寂しくはないですよ。……って、あれ?」
遠神が小首を傾げる。
「このケーキって……」
「やっぱり気が付いたか。遠神が持って来てくれたケーキだ」
自分の手土産が出されれば、いくら何でもわかるよな。
「一人だと、食べ切れそうになかったんでな。折角だし、こうして出させて貰ったんだが……気に障ったか?」
「私の持って来た手土産を私の前に出すなんて、一体どういう神経をしているんですか!」と憤るのかと思ったが、どうやらその心配は杞憂に終わる。
遠神は、首を横に振っていた。
「そんなことはありませんよ。寧ろ残さず食べようとしてくれていることが、嬉しくてなりません」
「そいつは良かった。……どうぞ召し上がれって言うのはおかしいな。遠神、いただきます」
俺はケーキを口に運ぶ。
見た目通り、いや、それ以上の味だった。
「美味いな。有名店のケーキか?」
「ありがとうございます」
ここでお礼を言うのは、文脈上おかしくないか? 質問の答えになっていない。
「このケーキ、私の手作りなんです」
……成る程、合点がいった。
自分の作ったケーキを褒められたから、そのことに対してお礼を言ったわけか。
納得すると同時に、俺は募る焦燥感を抑え切れずにいた。
……これは本格的にマズいな。
手作りだと判明しても変わらず美味しいケーキを食べながら、俺は現在自分の置かれている状況を整理してみる。
自分が一人暮らししている部屋の隣にクラスメイトの女子が引っ越してきて、その場の流れで越してきた女子を自宅にあげることとなった。そしてその女子の作ったケーキを、彼女と一緒に食べている。
何だこの、如何にもラブコメにありそうな展開は!
席替えした直後、遠神とは挨拶しか交わさなかった。今後も懇意にする予定はない。
これで俺と遠神の間でラブコメが始まることなんて、絶対にあり得ない。そう安心した矢先に……何でこんなイベントが起こるんだ!
まるでとてつもなく大きな力が、俺と遠神にラブコメをさせようと画策している。ラブコメの神様は、間違いなく俺と遠神をくっつけようとしている。そんな気がしてならなかった。
阻止しようといくら小細工を弄したって、所詮は一時凌ぎに過ぎない。ラブコメの神様は、きっとあの手この手で俺にフラグを立ててくる。とんだいたちごっこだ。
この遠神ルートを回避するには、神すらも予測出来ないような起死回生の一手が必要だ。
無視することも出来ない。となると、いっそ無理やり服をひん剥くか? ……それは流石に捕まるな。
俺は次々とケーキを口の中に運ぶ。手を止めることはしない。だってケーキに罪はないもの。
そしてこの糖分摂取は、俺の頭を冴え渡らせていった。
現状ラブコメの回避は不可能。フラグが立つのを先延ばしにしているだけだ。
だとしたら、俺は一体いつまで遠神とのラブコメの始まりに怯えながら暮らさなければならないのだ。高校を卒業するまでか? それとも遠神が307号室から出て行くまでか?
生憎だが、そんな時間や体力や精神力を俺は持ち合わせていない。
どうする? どうすれば、早急に且つ確実にこの問題を解決出来る?
ケーキの苺を口に入れ、齧った瞬間ーー苺の酸味と共に、一つの妙案が溢れ出して来た。
あぁ、そうか。
ラブコメがいつ始まるかわからない。いつ始まってもおかしくない。それが最大の不安要素ならば、いっそ自分で始めてしまえば良い。
ラブコメの神様が打つであろう一手を、それより前に俺が打つ。そうすれば、終わりの見えない怯えに悩まされることもないのだ。ただしーー
始めるのは遠神と、俺以外の男とのラブコメだけどな。
無関係なモブキャラに徹しようとするから、無理矢理主人公に抜擢されそうになる。だったら多少面倒でも、サブキャラを演じてやろうじゃねーか。
メインヒロインは遠神。森峰高校でも随一の人気を誇る女子生徒だ。となると、彼女の相手役となり得る男子生徒も自然と限られてくる。俺の知る中で、主人公に最適な人間といえば……。
俺は脳内で、本人たちの了承なしで勝手にオーディションを進めていく。そして、二人の候補者を選出した。
「なあ、遠神」
「何ですか?」
「お前、日高圭一って知ってるよな? ほら、同じクラスで野球部の」
「はい」
「じゃあ、澤口暁良のことは?」
「勿論知っています。澤口くんも、クラスメイトですから。二人とも、真澄くんと仲が良いですよね? 今朝も話していたような」
「そうそう」
良かった。ここで「誰ですか、それ?」とか言われたら、その時点で詰みだった。
どうしてこのタイミングで圭一と暁良の名前が出てくるのか? その理由は、言うまでもないだろう。
俺が遠神の相手、つまり主人公の候補として立てたのが、親友の圭一と暁良なのだ。
二人が主人公なら、彼らと関わりの深い俺は親友Aのポジションに就くことが出来る。遠神と圭一が、或いは遠神と暁良が恋仲になれるよう、裏で動き易い。
それに二人には、ラブコメ主人公たり得る素質がある。
圭一はイケメンだ。勉強も運動も出来て、優しく、女子からの人気も高い。彼と付き合えると言われれば、遠神とて安易に拒まないだろう。
暁良はヤリチンだ。その肩書き自体はあまり好印象を持てないけど、彼がモテ男でなければそう呼ばれることもない。暁良は森峰高校のリア王。一考の余地はあると思う。
今度こそ、完璧な作戦だ。見たか、ラブコメの神様。俺はお前の思惑を、打ち砕いてやったぞ。
「その日高くんと澤口くんがどうしたんですか?」
「あぁ。圭一と暁良のことどう思っているのか、聞いてみたくてな」
「どう思っているかと言われましても……」
「魅力的な奴らだと思わないか?」
突然かつ漠然とした質問で困惑しているようだったから、こちらから手助けもとい誘導を試みた。
「なあ?」と念押しすることで、イエス以外の回答が出来ない空気を作り出す。
遠神は一瞬考えてから、こちらの理想通り頷いた。
「えぇ、まぁ。……日高くんはカッコいいですし頭も良いですし、野球部でも活躍していますし。どうして真澄くんみたいな凡夫と友達をしているのか、常々不思議に思っています」
「……」
「澤口くんの周りにはいつも可愛らしい女の子がいて、皆を平等に大切にしている。ハーレムっていうんですか? そういうのって、口で言うより難しいと思うんです。だって恋愛に対する労力が、恋人の数だけ分割されるのではなく、倍増するわけでしょう? 世間から見たら確かに不誠実なのかもしれませんが、私個人としては、澤口くんはとても努力家という印象です。どうして真澄くんみたいな凡夫と友達をしているのか、常々不思議に思っています」
「……」
……どうしてだろう?
圭一と暁良の評価が高くて、俺の評価が低い。理想通りの回答なのに、悲しい気分になってくる。
「真澄くん? いきなり目頭を押さえて、どうかしたんですか?」
「季節外れの花粉症だ。気にしないでくれ」
実際には生まれてこの方、花粉症に悩まされたことはない。幸いなことに。
「それで、遠神。ここからが本題なんだが……」
俺は右手の人差し指と中指を、順番に立てていく。
「日高圭一と澤口暁良。あなたが恋に落ちるのは、どっちですか?」
「……はい?」
怪訝な顔をする直前、ほんの僅かにだが遠神の眉がピクッと動いていた。……全くの脈なしというわけではないようだ。多少なりとは、圭一か暁良に興味を持っている。
「色々ツッコミどころはありますが、取り敢えずどうして金の斧銀の斧風なんですか?」
「特に意味はないぞ。強いて言うなら、雰囲気を出したかったからってだけだ」
しかしあくまで金の斧銀の斧風というだけで、物語に忠実に即しているわけではない。
例えば遠神はまだ何も落としておらず、これから選択した後に恋に落ちるということ。そして「両方」と選択した場合、どちらも手に入るということだ。
俺は自分がラブコメ主人公にならないなら、遠神が二股しようが何しようが知ったこっちゃないからな。
「圭一の彼女になるのは、かなりハードルが高いと思うぞ。だけど一度彼女になれば、ずーっと大切にしてくれる。あいつはそういう男だ。逆に暁良の彼女になるのは簡単だが、特別にはなれない。彼女の末席に名を連ねるだけだ」
俺は圭一と暁良、それぞれと付き合う上での長所と短所を挙げていく。
「何より圭一も暁良も、俺みたいな事故物件じゃなく、誰もが憧れる超優良物件。女子の中でのヒエラルキーの頂点、学校でもトップクラスのリア充という称号。得られる恩恵は、数え切れない。なっ、悪い話じゃないだろ?」
「悪い話とは思いませんが……無謀な話だとは思います。日高くんにしろ、澤口くんにしろ、私なんかを相手にする筈ありません」
「そんなことないさ。遠神だって、十分魅力的なんだから」
自信を持たせる為に褒めただけだというのに、遠神は俺の誉め言葉を素直に受け取ったようで。「えっ?」だの「はっ」だの、よくわからない声を漏らしていた。
「それは、その……ありがとうございます」
遠神の顔が、ボッと赤くなる。……頼むから、そんな顔するのはやめてくれ。
遠神の赤くなった顔に当てられたのだろう。速まる鼓動を鎮めながら、俺は話を続けた。
「席も隣、家も隣。こうなったのも、何かの縁だ。遠神が圭一や暁良を本気で狙うと言うのなら、お隣さんのよしみで俺はお前の恋が叶うように、全面的に協力しよう」
「……本当ですか?」
「あぁ、大船に乗ったつもりで任せとけ」
俺は自身の右胸をトンと叩く。
「……」
遠神は、すぐには返事をしなかった。
それもそうだろう。話がうますぎる。
メリットだけ提示して、デメリットやリスクを一切告げない。まるで詐欺の常套手段ではないか。
加えてこの提案には、遠神を助けることで俺に生じるメリットが存在していない。そういう意味では、詐欺にすらなっていなかった。
不可解な提案。意味のない提案。遠神は、恐らくそう思っている筈だ。
騙されているかもしれないという不安が、彼女に二の足を踏ませていた。
だがな、遠神。その心配は杞憂なんだ。
お前が圭一か暁良とラブコメをしてくれる。それだけで、俺にとってはこの上ないメリットになるんだよ。
俺の提案に乗るかそるか、決めかねていた遠神だったが、やがて決心する。
「わかりました。真澄くん、あなたに私の恋心を預けます」
はい、言質いただきましたー。
俺は心の中でガッツポーズをする。
「で、どっちにする? 圭一? それとも暁良?」
今度は遠神は、悩まなかった。
「日高くんです。私は日高くんと付き合いたい」
「付き合いたい」と、遠神ははっきり口にした。
これはあくまで俺の想像だが、もしかすると遠神は初めから圭一のことを好いていたのかもしれない。そしてその恋心は、俺の想像以上に大きいのかもしれない。だとすると、嬉しい誤算だった。
これは言わば、取引だ。互いにメリットがなければ、取引として成立しない。
遠神の恋心を預かる以上、俺には必ず彼女の恋を叶える義務が生じるわけで。
俺は遠神に向かって、拳を突き出す。
「お前の恋心、確かに預かった。たっぷりの利息をつけて返してやらぁ」
こうして俺の、ラブコメ主人公回避大作戦は始まったのだった。