あくまで偶然の積み重ねであって、決して運命などではない
「バスタオルと着替えは俺が用意しておくから、お前はとっととシャワーを浴びてこい」
「はい。何から何まで、ありがとうございます」
遠神を浴室に案内した俺は、彼女が上がった時の為に着替えとバスタオルを用意する。
着替えは多少サイズが大きいが、俺の中学時代のジャージ。下着は……流石に俺のものを差し出すわけにはいかないよな。女物なんて持っていないし、一晩くらいなしで我慢して貰おう。
脱衣所の前に戻ると、シャーッというシャワーの音が聞こえてくる。
一応ノックをしてから、俺は脱衣所に入った。
「バスタオルと着替え、ここに置いておくぞー」
「あっ、はい。ありがとうございます」
遠神は一度シャワーを止めて、返事をする。
モザイクがかかっているものの、浴室の引き戸には一糸纏わぬ遠神の体躯がぼんやりと浮かび上がっていて。健全な童貞男子高校生には、些か刺激が強かった。
何をドキドキしているんだ。遠神よりもっとナイスバディーな華さんだって、何度も我が家の風呂を使っているじゃないか。
これ以上欲情してはマズい。浴場だけに。俺は自分の両頬を二度ほど叩いた。
「勝手にシャンプーやボディソープを借りちゃったんですが、大丈夫でした?」
「おう。浴室にあるものは、何でも使って良いぞ」
「ありがとうございます。……それにしても、真澄くんって随分良いシャンプー使ってるんですね。これって結構高いやつじゃないですか?」
「そうなのか?」
「そうなのかって……自分の家のものでしょうに」
「俺の家のものだけど、俺が買ってきたわけじゃないからな」
「親御さん……は外国でお仕事でしたよね。じゃあ、一体誰が?」
「華さんだよ」
俺の生活スキルをこれっぽっちも信用していないのか、彼女は定期的に308号室を訪れては、シャンプーやら歯磨き粉やらを補充してくれている。
「蘇芳さんは、よく真澄くんの家に?」
「まぁ。華さんからしたら、俺は一人暮らしをしている弟みたいなものだからな。心配なんだろ」
「ふーん」
何だ、その棘のある「ふーん」は? 怖いんですけど。
いつまでも俺が脱衣所にいては、遠神も上がるに上がれないだろう。そう思い、足早に脱衣所を立ち去ろうとしたところで、
「ん?」
脱衣所の床に落ちている、何やらピンク色の布を見つけた。
「これは……」
俺は布を拾う。雨で濡れているにもかかわらず、どこかいい香りを漂わせるその布は……ブラジャーだった。
サイズはA。悲しいことに、男の俺でもフィットしそうな大きさだ。……お風呂上がりに、牛乳でも出してあげようかな。
「ったく、遠神のやつめ。男の家に上がり込んでいるんだから、こういうところに気を付けろよな」
俺がラブコメしたくない男子高校生じゃなかったら、今頃ブラをアイマスク代わりにしているぞ。
特に深い意味などなく、ブラジャーを頭上に掲げて伸縮させていると……さもお約束展開の如く、浴室の引き戸が開いた。
俺の目に映る、遠神の裸体。ご丁寧に湯気で大事な箇所が隠れているところが、なんともラブコメらしい。
遠神の目に映るのは、自身のブラジャーを高い高いしているクラスメイトの姿。
……あっ、これ完全に死んだわ。社会的に。
咄嗟に身を隠せる場所は、狭い脱衣所にはない。せめて正体を見破られないように、ブラジャーで両目を隠す。
「真澄くん……何をしているんですか?」
「ブラジャーと同化しているんだ」
「バカなんですか!? その発想がどうかしてますよ!」
俺の奇行は、裸を見られたことよりもずっと強烈だったようで。遠神は落ち着いた様子で、俺の持ってきたバスタオルを体に巻く。
「遠神、これはだな……」
「皆まで言わなくても、察していますよ」
現状報告もとい言い訳をしようとした俺に、遠神は「その必要はない」と諭す。
「差し詰め予期せず訪れた女子高生クラスメイトの入浴イベントで、欲情していたんでしょう。これまで一人寂しく慰めて発散していた性欲を、私の下着で代用しようとしていたんでしょう。はい、わかっていますとも」
1ミリもわかっていないじゃねーか。
こちとら年上お姉さんの(推定)Eカップバストで妄想してんだぞ。タメのちっぱいなんかで興奮するかっての。
「……何やら失礼なことを考えていませんか?」
「エスパーなのか、お前は!? ……悪かったよ。お詫びに牛乳を沢山飲ませてやるからさ」
「お風呂上がりに牛乳というのは定番ですが、今の流れだと他意を感じるので取り敢えずムカつきます」
「ていっ!」と、遠神は俺の脛を蹴る。地味に痛い。
「いつまでここにいるんですか? 着替えたいので、早く出て行って下さい」
「あっ、あぁ」
「ブラは置いてく!」
「あっ、あぁ……」
ブラジャーを返してから、俺は脱衣所を出る。
それから5分と少し経過して、着替えと髪を乾かし終えた遠神が、リビングに来た。
風呂上がりの遠神に、コップ一杯の牛乳を出す。……どこがとは言わないけど、大きくなりますように。
「寝る場所なんだが、嫌じゃなかったら、遠神は俺のベッドを使ってくれ」
さっきシュシュっと除菌アンド消臭してきたから、不快感はないと思う。無駄にふかふかなので、ぐっすり眠れる筈だ。
「それは全然嫌じゃないんですけど……でしたら真澄くんは一体どこで?」
「俺はリビングのソファーで寝るよ」
遠神は「押し掛けたのは私ですので、私がソファーで寝ます」と言ってきたが、女の子をソファーで眠らせるわけにはいかない。家主権限を使用してでも、そこは断固として譲らなかった。
寝場所こそ決めたものの、就寝にはまだ早い時間だ。小学生の修学旅行だって、就寝時刻はもうちょっと後だぞ。
「……週末にやっていた映画を録画してあるんだが、観るか?」
「良いですね。私も録画しただけで、まだ観れていないんです」
映画を再生する前にお菓子とジュースを用意する。あと感動必至の作品みたいなので、二人分のタオルも。
HDDレコーダーを起動させていると、ピーンポーンとチャイムが鳴った。
……遠神はここにいるぞ? じゃあ、誰が来たと言うんだ?
「はーい」
モニターで来訪者を確認しようとするも、画面は真っ暗なまま微動だにしない。運悪く、いきなり故障したみたいだ。
……何だ、この感じ。覚えがあるぞ。
宅配便や郵便配達の可能性も十分ある。だというのに……言葉に出来ないような嫌な予感が、俺の体中を駆けずり回る。
そう。まるで遠神が始めて308号室を訪れた、あの夜のような。
「悪い。お菓子でも食べて、待っていてくれ」
そう言い残して玄関に向かい、ドアを開ける。果たして来訪者は――
「ごめんね、真紘。人身事故で、電車が止まっちゃっててさ。雨も凄いし、運転が再開されるまで、真紘の家で時間を潰させてくれないかな?」
………………。
最悪だ。最悪のタイミングで、最悪の男がやって来やがった。
ゲリラ豪雨で遠神に我が家の敷居を跨がせることがラブコメの神様の狙いだとばかり思っていたが、それはあくまで下準備。真の目的は、電車の運転見合わせ且つ豪雨で帰れなくなった圭一を308号室に向かわせ、遠神と鉢合わせさせることだったのだ。
「出来ればシャワーを貸してくれると助かるな」
「いや、今はちょっと……」
遠神がいなかったら、シャワーでも何でも貸してやる。だけど今だけはダメだ。
「何? もしかして、一人でいやらしいことしてた? ……って、ラブコメ嫌いの真紘がそんなことしないよね?」
いやらしいことはしてない。
そして一人でもない。それが問題なんだよ!
「真澄くーん、どうかしたんですかー?」
なかなか戻って来ない俺を心配したのだろう。リビングから、遠神が声をかけてくる。
さっきまで遠神とデートをしていた圭一が、その声に気付かないわけもなかった。
「今の声って……」
「昨日から、従姉妹が泊まりに来てるんだよ」
苦し紛れの言い訳だった。
「へー。ていうか真紘に従姉妹なんていたんだ」
「言ってなかったか?」
「うん、聞いてない」
当たり前だ。従姉妹なんて存在しないからな。
「従姉妹は人見知りでさ、だから悪いけど今圭一を家に上げるわけにはいかないんだ。本当にすまん!」
「いやいや。急に来た僕が悪いんだし、そんなに謝る必要はないよ」
「そういうことなら、仕方ないね」。圭一が去ろうとして、突然危機はなんとか回避された。そう安堵した瞬間――
「真澄くん? いつまで玄関にいるんですか?」
ヒョコッと、遠神がリビングから顔を出した。
『あっ……』
今まさにドアを開けようとした圭一と、遠神の視線が合う。……しまった。
「圭一……くん?」
「爽香さん……どうして?」
デートはまだ終わらない。ただでは終わらない。修羅場展開に突入だ。
◇
「一応確認しておくけど、真紘と爽香さんが実は親戚同士だったってわけじゃないよね?」
「人類皆アダムとイヴの子孫って考えれば、或いは親戚と言えなくも……」
「そういう屁理屈はいいから」
「はい……」
308号室の玄関にて。俺と遠神は、圭一からの詰問を受けていた。
「だったら何で、真紘の家に爽香さんが?」
「それは――」
口を開いた遠神を、俺は横目で睨んで黙らせる。
家が隣だとか緊急事態だとか、そんなの多分釈明にならない。
圭一を好きな筈の遠神が、俺と二人きりで俺の家にいる。それだけが、まごうことなき事実なのだ。
「お前に黙って遠神を家に上げたことについては、申し開きのしようもない。本当にすまない」
俺は腰を九十度曲げて、深々と頭を下げる。
「説教でも悪口でも、甘んじて受け入れる。だけどこれだけは信じてくれ。俺と遠神に、やましいことなんて何一つない。俺は今もラブコメをしていない」
俺は顔を上げて、圭一の目を見る。とてもじゃないが、俺の言葉を信じているようには見えなかった。
「信じたいのは山々なんだけど……ねぇ?」
そんなにも親友が信じられないのか? そう言ってやりたい気持ちもあるが、よく考えたらそれも仕方ないことで。
圭一は俺を信頼してくれていた。その信頼を裏切ったのは、俺の方だ。
「やましいことがないのなら、どうして従姉妹が来ているだなんて嘘をついたんだい? 正直に事情を説明してくれていたら、話も変わってきたのに」
「……すまん」
「すまんだけじゃわからないよ」
それでも俺には、謝ることしか出来ない。
圭一だけではなく、遠神に対しても。
遠神は頑張って圭一の好感度を稼いできた。俺はその努力を、台無しにしてしまったのだ。
俺に出来ることといえば、一切の言い訳もせずこの場における絶対悪になることで。自己満足に過ぎないのかもしれないけれど、それが償いになるだろう。
「………………すまん」
だから俺は謝り続ける。謝ることだけし続ける。
やがて圭一は「わかったよ」と、先程と意見を翻した。
「やっぱり今は、真紘を信じられないや」
「わかった」と「わからない」。言葉こそ対極的なものだったが、その中身は変わらない。
落胆と軽蔑、そして拒絶。正反対の二つの言葉には、そんな感情が見え隠れしていた。
「今日はもう帰るね」
「帰るって、電車が止まってるんじゃ……」
遠神の存在がバレた以上、圭一を追い返す理由もない。時間を潰すどころか、泊まっていったって良いくらいだ。
「駅前でホテルでも探すよ。とにかく今は、一人になりたいから」
圭一は308号室から出て行く。
ショックのあまり駆け出すわけでもなく、速足というわけでもなく。それどころかとぼとぼした歩みは、いつもよりゆっくりなように思えて。
「おい、待て!」
言いつつも、俺は圭一を追いかけることが出来ない。追いついたとして、何て声をかければ良いんだよ……。
少しずつ遠ざかっていく彼の背中を、俺はただ見送ることしか出来なかった。