第四章 千の魔女と十五の怨霊
地下室から出ると、私は最初に入った塔の入り口付近にいた。再び飛ばされたようだ。目の前には、あの階段へとつながる鉄扉が見える。
「……いこう」
私は躊躇することなく、鉄扉へと手をかけた。あれから一日も経っていないはずだが、懐かしくも感じる階段が見える。
私は階段を登り始めた。一歩、一歩と、決意を固めて。
踊り場に差し掛かる。最初にチヨに遭遇したところだ。あの時の恐怖が一瞬よぎるが、振り切って先へと進む。
二階に到達する。目の前には、一階と同じような鉄扉が設置されており、階段は更に上へと続いている。私は迷わず、階段の方へと足を進めた。
チヨはもっと上にいる。そんな気がしたのだ。
三階、四階、五階、どんどん上へと登っていく。いつの間にやら、階数を数えることをやめていた。果てしなく天までも続くような階段を、私はひたすら登り続けた。
ついに階段は、終わりを告げる。上へと続く階段のない、何処かへの鉄扉があるのみの階層へと到着したのだ。
ここが最終地点だ。覚悟して、鉄扉の取手に手をかけた。鍵は開いている。力を込めて、重い扉を引く。鉄と錆が擦れ合う、不快な音が響いた。
扉の先は、茜色の夕焼けだった。塔の最上階と言うより、屋上なのだろう。静かに足を踏み入れると、その眼前、錆色の網が張り巡られている屋上の縁に、チヨは立っていた。黒いモヤの中のその顔は、青白いが美しく整っており、しかし顔の穴という穴から赤黒い筋を垂らし、真っ赤に血走った生気のない目で、こちらを見つめていた。
「見てきたよ、お前の過去を。なあ、チヨ」
チヨ、そう呼んだ時、少しだけモヤが揺らいだ。チヨの全てを恨んでいるような表情が、少しだけ和らいだように見えた。
「お前、助けてほしかったんだろ? あの地獄から、救ってほしかったんだろ?」
チヨの広角が、上がった気がした。笑っているのだろうか。
「お前が受けてきた仕打ち、ひどいもんだったな。似たような所業を見たことは何度もあったが、やはり慣れないよ。そしてお前は、死してなお、その呪縛に縛られている。そうだろう?」
チヨの表情に、希望が溢れ始めているような気がした。目は睨みつけるようではなく、はぐれていた親を見つけた子供のような、安堵の感じられるもののようにも見えた。
「それでな、私は思ったんだよ。私はな、チヨ、お前が」
チヨは期待を込めたような顔で、こちらを見つめている。もはや恐怖の権化ではなく、一人の少女の顔であった。
私は大きく息を吸い、覚悟を決め、心の内を放出した。
「全く理解することができない」
チヨの表情が変わった。鳩が豆鉄砲を食らったような、驚いたような顔だ。
「確かに、お前が受けた仕打ちはひどいと思うが、それが他の無関係な命を奪う理由になるのか? そんなわけ無いだろ。被害者だからって、他人に何しても許されるとは思うなよ」
チヨの顔が曇り始める。少しずつ、元のおぞましい表情に戻りつつあるようだ。
「というか、お前は何がしたかった? 無差別に迷い込んだ人間を襲って、かと思えば、自分の過去を探る私のようなやつには期待を寄せて、何がしたいんだ? 逆恨みか? 救済を求めているのか? どっちだ?」
チヨがしていることの一貫性が、私には見えなかった。救ってくれる者を求めているのなら、放置して探索させれば良い。無差別に殺したいのなら、入り込んだ瞬間を襲えば良い。その両方を同時にしているせいで、何が一番の目的なのかわからないのだ。
「それに、お前は自ら命を絶った。そこが本当に理解できない。時間がもったいないと思わなかったのか?」
これは半分は本音で、半分は嘘だ。知識欲から老いることを放棄した私にとって、自ら命を絶つという決断が、本当に理解し難いものだったのだ。たとえ人間本来の寿命の間でも、生きていれば地獄以上の楽園を手にする可能性だってある。その可能性を捨てるという選択肢を、私は選ぶことはないだろう。
しかし、チヨはまだ幼い子供でもあった。生まれてからずっと、地獄に身を置くことを強いられた子が、正常な判断を持ったまま育つことは難しいだろう。そういった者たちを、これまで何人も見てきた。
チヨの顔は、恐怖の権化に戻っていた。あのおぞましい瞳で、こちらを睨みつけている。
「私にとって、お前はただ、捜索対象の者の命を奪ったであろう罪人だ。来いよ化物、再度殺してやるよ」
唐突に、強い寒気を感じた。背筋に氷水をかけられたような強い、しかし刺激はなく、身体の芯に染みるような寒気が。それを境に、身体に纏う空気も重くなり、キーッという耳鳴りが始まった。先程まで美しかった茜色の夕焼けにも、気色の悪い青黒さが混じり始めている。
チヨは、一歩、一歩とこちらに向かってくる。
チヨが近づいてくる。顔を見る。青白く、だが美しく整った少女だ。しかし、その目鼻耳口全ての穴から、赤黒い筋が垂れていた。
チヨが近づいてくる。千年と生きてきた中で、再び見るおぞましい、生気のない目つきで、こちらを見据えていた。
「そうだ、こっちに来い」
私は右手に魔力を集める。攻撃用の魔力ではない。確か除霊と言ったか、その方法を私は知らない。だが、今の私にできることで、チヨにダメージを与える方法に気づいたのだ。
(学習帳、ダイヤルロック、そして写真立て。あれらはパストヴィズが使えた。通らないのは、おそらく攻撃魔法のみ。とすれば)
チヨがすぐ目の前に迫っていた。その胸へ右手を突き出す。手がチヨの胸をすり抜け、身体の中に入り込んだ。手先に凄まじい悪寒が走るが、恐れることなく、その右手の魔力のイメージを、チヨへと全て流し込んだ。
流し込んだのは、過去視の魔法『パストヴィズ』。記録を読み取る対象は、チヨだ。
魔力を流し込まれたチヨは、一瞬固まると目を見開き、数歩後ずさりした。私の右手が、チヨから離れる。そして、チヨは頭を抱えて苦しみだした。
「過去の記録は、私だけが見られるものなわけじゃない。他人にも記録を見させることができる。今、お前に刻まれた記録を、お前自身へ再生させた。お前が生きていた頃の、地獄の記録をな」
幽霊が作った物質に魔法が通るなら、それを作り出した幽霊自身にも魔法が通るはずだ。その仮説は幸運にも当たっていたようだ。
チヨがこれまでに聞いたこともないような、おぞましい叫び声を上げる。頭を激しく振り、再生される記憶を振り払おうとしているのであろう。だが、記録はチヨ自身から再生されている。私が魔法を解かない限り、止まることはない。
チヨが叫ぶたび、茜色と青黒さの交じる空に亀裂が入り、卵の殻のようにボロボロと剥がれ落ちる。私達が立っている屋上の床にも、ヒビが走り始めた。チヨが一際大きく、この世のものとは思えないような叫びを上げると、空間が全て崩れ落ち、暗黒の闇へと消えていった。
***
気づけば、全てが漆黒の空間に、私は立っていた。辺りには何も見えず、床や天井すらあるのか、今自分が物質の上に立っているのかさえわからない。だが、不思議なことに、自らの身体は何処かに光源があるかのように、はっきりと見えている。
「殺せた、と考えていいのかな」
念の為警戒しつつ、前へと歩み始める。何もない空間に足を踏み外すのでは、とも考えたが、何かに足をつけることができていた。
しばらく歩いていると、はるか眼前に、小さく揺らめくものが見える。少しだけ速度を高めて近づいてみると、それはチヨであった。
手で顔を覆い、泣いているようだ。その身体は薄く、黒い光の粒子が漏れている。青白かった肌の色は、色白の美しいものに変わっていた。
「なかなかにしぶといんだな」
声をかけても、反応しない。もはや、風前の灯火なのだろう。
「これが、お前が多くの人間の命を奪った罰だ。ちゃんと受け入れろよ」
今にも消えて無くなりそうなチヨは、やはり無反応だ。もしかすると、声は届いていないのかもしれない。
「……千年の魔女、ミレニアとしての仕事はこれで終わりだ。そして」
チヨの元へ、歩みを進める。彼女の側まで近づくと、私は、彼女の頭を胸に抱きしめた。
「これは、一人の人間であり、母でも祖母でもあった、セリナ・サーランドとしての気持ちだ」
チヨの身体は、触れることができた。怯えたように小刻みに震えていたが、やがて少しずつ震えの速度は落ち着き始め、ついには静かな呼吸となった。
「もし、魂の行き先がちゃんと存在するというのなら、これはせめてもの餞別だ。辛い記憶だけじゃ、な」
チヨの身体から溢れていた光の粒子は、弱くも白く輝くものと変わっていた。顔を見てあげると、色白で美しく整った顔で、目からは涙の筋を流し、幸せそうな瞳でこちらを見つめていた。
『アリガトウ』
その一言が聞こえた瞬間、チヨの身体が消えた。白い光の粒子となり、はるか天へと昇っていった。
「もし、そういったものが存在するならば。願わくば、彼女の来世が幸福に満ちたものであらんことを」
目を瞑り、一人祈りを捧げると、ゆっくりとまぶたを開けた。立っている場所は漆黒の空間ではなく、森の中だった。どうやら、常夜の森へと戻ってこられたようだ。塔が建っていた場所だろうか、ちょうど木々のない、空の見える開けた場所の真ん中に立っている。
「……すまんなチヨ、一つだけ嘘ついたわ。ミレニアとしての仕事、まだ残ってた」
周囲を見回し、その光景に深いため息が出た。
私の周り、唯一陽が差す広場中に、行方不明者たちの遺体が転がっていた。その表情はどれも、恐怖に歪んだものであった。
***
「やれやれ、これで次のやることに取り掛かれる。まったく、何百年ぶりだろうなぁ」
大きく伸びをして、テーブルの上の手紙へと向かい合う。チヨの一件から半月ほど経ち、ティレニア王から直々に謝礼の親書が届いたのだ。
「一人も救えなかったのは残念だが、おそらく私が着いた頃には、全員すでに息絶えていただろうしな。こればっかりはしかたない」
ぬるくなったコーヒーを飲みつつ、手紙をテーブルの隅へと置いた。忙しさのあまりか、物が散乱し始めている。そろそろ誰か手伝いでも呼ぶべきか、そう思案を広げていた。
「おーいババー!! いるかー!!」
玄関口から、憎たらしい大声が聞こえてきた。慌てて声の方へと向かい、玄関に立っているクソガキに小声で叱りつけた。
「おいバカ! 大声出すな! やっと寝たのに起きてしまうだろ!」
「お、いたいた! なんでそんな小声で喋ってんだ?」
「わけは話すから、とりあえず声は抑え」
「オギャー!! オギャー!!」
リビングから、大きな泣き声が響いてきた。頭を抱えながらも、クソガキを放置してリビングへと戻る。
「はいはい、アホなお兄ちゃんのせいで起きちゃいましたねー。よしよし」
リビングのベビーベッドに向かって、音の鳴るおもちゃを振る。泣き声の主はそれでも泣き止まないため、諦めて抱き上げた。
「お、赤ちゃんじゃん! どうしたんだそれ、産んだのか!?」
「違うわ、私の身体は亡くなった夫だけのものだ」
「え、じゃあどうしたんだよ、それ?」
「さらって来た」
「え?」
私に抱かれて揺らされた赤ん坊は、安心したのか再び眠り始めた。
「さらってきたって、え? まじで? どこから?」
「異世界から。10年位ずっと、かつて師匠が開発した、異世界をまるごと爆破する魔法を再現しようとしててな。うまくいってなかったんだが、半月前のティレニアの件で色々と考えが進んで、ようやっと近い魔法を実現できたんだよ」
後の調査で、チヨは異世界から何らかの理由で、魂だけ飛ばされてきたことがわかった。不幸中の幸いか、彼女に関わったことが大きなきっかけとなり、停滞していた魔法研究が、数日ほどで一気に進んだのだ。
まさか、自身が否定した幽霊の存在が、最後の要因だったとは。
「異世界まるごと爆破って、物騒すぎんだろ……で、それとその赤ちゃんになんの関係が?」
「再現できた師匠の魔法をいじってな、爆破ではなく異世界と行き来する魔法も作ってみたんだよ。なんと異世界に移る際に、時間まで指定できるようになってしまったんだよ。応用すれば、この世界でも過去や未来にも行ける魔法だが、まあ今そこについてはどうでもいい」
「お、おう。さらっとすごいことやってるな」
「私は天才だからな。で、ティレニアを襲ったあの幽霊が生まれた直後のところに行って、さらってきたわけだ」
そうなのだ。この赤ん坊は、チヨだ。まだ生まれて間もないくらいだが、あのチヨの幼い頃なのだ。未だにこの世の悪意と地獄を受けていない、純真な頃の。
「え、じゃああの時にやられた奴らも」
「いや、それはできていない。時間干渉は色々と未解明な部分があってな、いくつか実験してみたが、人喰いの塔で死んだ奴らは生き返らなかったよ」
人喰いの塔での実験以外にも、小さい時間干渉の実験はいくつか行った。異世界を経由して前日に戻り、食料庫のりんごを一つ食べてみる、といった具合だ。しかし、元の時間に戻っても、りんごの数が減っているようなことはなかった。だから、おそらく人喰いの塔で犠牲者が出る前の時間まで戻り、チヨを倒したとしても、この時間に戻ってきても何も変わっていないだろう。
「まあ、過去への干渉が現在に与える影響については、今後の検証課題だ。今はとにかく、この子をちゃんと育てなければ」
少なくとも、この子が地獄を見ることも、自ら命を絶つことはないだろう。いや、そんなことさせない。絶対に。
「な、なんかよくわからない話だったけど……ハッピーエンドってことでいいの?」
「私とチヨにとってはな。ティレニアの犠牲者と、チヨの実の父親にとっては、バッドエンドだろうが」
「チヨ?」
「ああ、この子の名前だ」
***
ああ、何故もっと早くに決断しなかったのだろう。
身体に受ける強い風は、冷たくも心地良く、一瞬に駆け抜ける近景は、これまで見たことのないような面白いものだ。
こんなに楽しいものならば、もっと早くに勇気を出し、実行すべきだった。
あんなに遠く見えた目的地が、速く、しかしゆっくりと、私の眼前に迫ってきている。
私、チヨ・サーランドは、今この瞬間、死ぬのだ。
目的地に到着した私は、家の扉を思い切り開く。廊下を駆けリビングへ向かうと、ソファに座っている、大好きな母様の顔が見える。
「母様!! 飛翔魔法、習得できました!!」
母様は静かに、しかし満面の笑みで、私を見つめていた。
勇気を出せなかった未熟な私は、今、死んだのだ。
読んでくださった方、ありがとうございました。